第35話 スフレチーズケーキ


 翌日の三者面談では、突然、僕と母さんが進路を変えると言い出したものだから、堀口先生も面食らっていた。それでも、母さんの説明の甲斐あって、先生も僕が向坂高校を目指すことに納得してくれて、応援までしてもらった。ただし、進路希望表にふざけてアメリカ留学って書いたと思われたようで、それについてはこっぴどく叱られた。これについてはりんごのせいなのだが……なんだかとばっちり食らった気分だ。

 入試で美術の実技試験があるということもあって、放課後は三条先生にも色々と教えてもらうことになり、僕も杉野たちと同様、本腰を入れて受験にシフトすることになった。

 ちなみに三者面談の間、りんごは僕の傍に立ってじっと黙っていた。けれど、特に話を聞いていたという感じではなくて、なんだかぼんやりした顔で窓の向こうを胡乱げに見つめていた。何か考え事をしていたようだったけど……彼女の表情から窺い知ることは出来なかった。

 学校からの帰り道、二人並んで歩きながら母さんがつぶやいた。


「はぁ~……先生との面談っていうのも緊張するものね。堀口先生、ちょっと怖い感じだったものね」


「あはは……。それより母さん、今日はありがとう。先生が納得してくれたのは、母さんのおかげです」


 すると、母さんは優しく微笑みながらふるふると首を振る。


「……母さんの気持ちを動かしたのは翔よ。自分で決めた進路なんだから、しっかり頑張りなさいな。母さんも応援してるから」


 僕は力強く頷いて答える。


「うん、わかってる」


『ふふん。美術部の卒業制作もありますし、翔くんも忙しくなってきましたね。わたしも活躍しがいがあるってものですよ!』


 つぶやいたのはりんごだ。彼女は首のあたりにもたれかかるようにしながら、はしゃいでいる。そうはしゃいでもらっても、僕としてはりんごに活躍の場を与えたくはないんだけど……。

 あんパン五個くらいの重だるさは、今日もまた肩にのしかかっている。

 思えば、りんごと初めて出会ってからもう随分になる。

 この嫌な感じの重さとも長い付き合いで、いい加減体のほうが慣れてきていた。今となっては、りんごに取り憑かれる前はどんな状態だったかを思い出すことの方が難しい。


「いけない、忘れてた」


 はっとして母さんが立ち止まる。


「母さん、どうしたの?」


「ケーキ屋さんに寄るの忘れちゃったわ」


「ケーキって……今日って何かお祝い?」


 すると、母さんはふふんと胸を張って言う。


「特にそういうわけでもないけど……でも、今朝のチラシで近所のケーキ屋さんがセールやることを知ってね。せっかくだから少し大きいのを買って、みんなで食べたいなぁって思ったのよ。でも、夕飯の支度もしないといけないし……」


『ケーキ! 言いですね! ぜひわたしも! 翔くん、わかってますよね!』


 わかったから、そうわめかないでほしい。りんごの声に適当に頷きながら、母さんに言う。


「よかったら、僕、行ってきますか?」


「本当!? 助かるわぁ! せっかくだからホールケーキが良いわね。翔が食べたいやつでいいから。はい、コレお金」


「ホールケーキって、ちょっと大きいんじゃ」


「いいのよ。たまの贅沢ぜいたくなんだし。今日はちょっとしたお祝い! じゃ翔、よろしくね」


 僕たちはそこで別れ、母さんは家に、僕はケーキ屋にお使いへ。不本意だが、りんごもついてくる。ケーキ屋でよだれべっとべとになる姿がすぐに想像できた。願わくば、せめて大人しくしていて欲しいけれども……


『うっほう! ケーキ! ケーキ! ケーキだぁ!』


 りんごは一人だけバカンスのように浮かれはしゃいでいる。今の彼女に冷静さを期待するなんて不可能だ。肩を落としながら僕は歩き出した。


   ◇ ◇ ◇


 場所が家の近所の商店街ということもあり、ケーキ屋には十五分ほどで着いた。

 小さな店だが、値段の割に美味しいことが好評らしく、店の外装もそれとなくおしゃれな感じだ。外窓から見える誕生日のデコレーションケーキのチラシは見ているだけでケーキが食べたくなってくる。

 母さんの言ったことを繰り返すようでなんだが、確かにたまにケーキが食べたくなる時ってある。自分へのプチ贅沢のようなものだ。

 僕は普段から甘いモノが大好きな人間ではないからいまいち理解しきれない面があるけれど、スイーツ好きの人はケーキを見ただけで傍からみてもわかるくらい興奮するものなんだろう。ケーキ屋の窓にべったり張り付いて、目を爛々と輝かせているりんごを見て、僕はそう思った。


「ほらりんご、行くよ。君、ほんとに食いしん坊だよね」


『あら翔くん、食べることは生きること。人間の生命活動の源じゃないですか!』


「……君、もう死んでるじゃん」


 自分で自分の墓穴を掘ったりんごはがっくり落ち込む。しかし、店のドアが開いてケーキの香りが漂ってきた時点で、リンゴの意識はすぐにケーキへと向かった。

 僕が静止する間もなくりんごはケーキの棚を指をくわえて隅から隅まで物色する。彼女は幽霊だから店員に見えることはない……見ている僕の方がハラハラするので心臓に悪いこと請け合いである。


 そんな僕の気持ちなど意にも介さない様子でりんごはケーキの棚を職人のような目つきで睨みつけていた。

 やがて、りんごはすっと姿勢を正し、凛とした、まるで悟りを開いた賢者のような面持ち(そんな雰囲気がした)で棚を指差した。


『翔くん、コレにしましょう』


 神妙な面持ちの彼女が指差したのは、はたしてその辺のスーパーの特売りでよく見るような感じのチーズケーキだった。

 僕は店員に聞こえないような小声でりんごに話しかける。


「でも、母さんが頼んだのは皆で食べるようなホールケーキだよ? これだと、そんな大きいサイズには出来ないし」


『いいから! これでお願いしてください! きっとお母さんも喜ぶに決まってます!』


 りんごはこう言うけど、値段を見てもなんだか安っぽいしなぁ……。

 いつにも増して強気なりんごに僕が答えあぐねていると……、


「あのぅ、お客様、お決まりでしょうか?」


「うぇ、はい!」


 不意に店員さんに声をかけられて、思わず返事をしてしまった。


『翔くん、わかってますよね?』


 りんごがあまりに強く押してくるものだから、やむなく僕は彼女の言うとおり、棚のチーズケーキを指差す。


「あの、このチーズケーキ買いたいんですけど、家族で食べるようなホールタイプに出来たりします?」


「ホールですか? ちょっとお時間いただきますけど、よろしいでしょうか?」


「はい、大丈夫です」


 すると店員さんはオーダーを快く引き受けてくれ、待っている間につまみでもどうぞ、とお菓子の入ったバスケットを渡してくれた。

 店内に置かれたテーブル席についてお菓子を食べようとすると、りんごはバスケットからクッキーを一摘みして言う。


『これ、美味しいですね!』


「それよりさ、ホントにあれで良かったのかな? ホールケーキって言ったら、やっぱり普通はいちごが乗ってる生クリーム……」


『いやいやいや! 翔くんは普段ケーキ屋さんに行かないから、ホールケーキは生クリームだけという固定観念に取り憑かれているんですよ。今こそ、その考えを打ち払う時!』


 りんごは選挙カーに乗った政治家のごとく演説をはじめる。


『わたしの見立てによりますと、ここのお店の一番人気はこの生クリームケーキです。見てください、このとろりとしたクリームの上に乗った愛らしい苺を!』


「人気ナンバー1! って紙が貼ってあるし……」


『普通なら人気に乗っかって生クリームケーキに手を出すところを、わたしはあえてこのチーズケーキを推します。その心は……』


 僕はりんごのケーキ論に興味はなかったが、彼女がやたらと嬉しい顔をしていたものだから、適当に相槌をうった。


「その心は?」


『ふっふふ。生クリームケーキは人気商品ですからねぇ、材料もあらかじめ大量発注しているんでしょう。それによって安定した生産が見込めます』


「それで?」


『安定生産は悪い話ではありません……が、作り手にとってはそんなに楽しい作業とは思えません。同じ作業の繰り返しですからね。たまには他のケーキだって作りたい。たまにはじっくり丁寧に……。見たところ、このスフレチーズケーキは相当丁寧な作りですよ。土台となるケーキ部分が実に隙のない仕上がりになっているのがわかります。それに翔くん、コレを見てください』


 言って、りんごはケーキの上表面に塗ってあるテカテカしたところを指す。


『これ、ナパージュっていうんですけどね。とても透き通った色をしていて、ほとんどにごりがない。上質なあんずを使っている証拠ですよ。たぶん、店の自家製じゃないでしょうか』


「僕には普通のチーズケーキに見えるんだけどなぁ」


『そこがこのケーキのポイントです。一般人には一目見ただけで、このケーキの良さがわかりにくい。値段も良心的な価格に設定してありますしね。でも、わたしはピンときました。このケーキ……普通じゃない』


「普通じゃないのはむしろりんごの方じゃ……」


 りんごはもはや僕の言葉に耳もかさず口が暴走したように話す。


『値段もお手頃ということで購入したお客は、家に帰ってケーキを食べてみて、その美味しさに驚くでしょうね。これこそ、ケーキ屋さんの仕掛けたドッキリ、ってわけです』


「ドッキリ?」


『ええ。それか、よっぽど暇だったんでしょうね。とにかく味についてはわたしが保証しますよ』


 それからケーキを受け取り、僕たちは店を出た。


   ◇ ◇ ◇


 家への道を歩きながら、りんごはつぶやく。


『わたし、ちょっぴり驚きました』


「何が?」


『店員さんに、ケーキに乗せるチョコの宛名どうしますかって聞かれた時ですよ』


「ああ……まぁ、その僕なりにちょっとしたお祝いのつもり」


『ふふ。照れるのは似合いませんよ。でも、きっとご両親も喜びますよ』


 りんごは僕の肩につかまりながらにこりと微笑んだ。

 店員さんにお願いして、ケーキに乗せるチョコの宛名に家族三人の名前を入れてもらった。りんごはそれを見ていて、嬉しくなったのだと思う。

 思えば、僕が今こうして素直な気持ちでいられるのはこの、おかしな幽霊のおかげなのだ。それで、りんごにも僕なりの感謝の気持ちを伝えたくて、彼女に聞こえないように、そっと店員さんにお願いしておいた。言葉で伝えるのはなんとなく気恥ずかしい。


 チョコに書かれた宛名を一つの大きなりんごマークが囲っていることをりんごは知らない。家に帰って皆で食べるのが楽しみだ。

 ケーキの箱を開けるのがこんなに楽しみなのは、なんだかずいぶん久しぶりのような気がする。

 りんごは喜んでくれるだろうか。

 腹ペコ幽霊だし。きっと喜んでくれるだろうな。

 よだれまみれにならないよう気をつけないと……ふふっ。

 そんなことを考えながら、僕は小さく笑った。

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