第34話 やりたいこと

 洗い物をしながら母さんがつぶやく。


「そういえば翔。明日三者面談でしょう。あの進路表は結局どういうことなの? 母さんにわかるように説明してちょうだい」


「それが……僕にもよくわからないんです」


「自分で書いたのにわからないってことはないだろう。翔、遠慮しなくていいから正直に話してみなさい」


 進路希望が突然アメリカ留学に変わったのは、りんごの仕業だ。それを二人に説明してわかってもらえるだろうか? ……可能性は薄そうだ。

 背後霊が勝手に進路調査票を書き換えた、なんて一体誰が信じる!?


『翔くん、悩んでないで正直に言っちゃえばいいんですよ』


(お化けが書いたって言って、誰が信じるんだよ!?)


『わたしはお化けじゃなくって……もう! そういうことじゃなくてですね! あなたが本当に望むことを素直に言えばいいでしょ!』


 僕の望む、進路……北城高校、か。確かに悪くない進学先ではある。


『まだとぼけるつもりですか? 翔くん、本当は向坂むかいざか高校に行きたいんでしょ!』


 ――向坂。この辺では珍しい、美術科のある高校だ。

 気にはなっていた。高校で絵を本格的に学んでみる。そんな選択肢もありかもしれないと思っていた。


 しかし、それでいいんだろうか?

 絵は好きだけど、所詮趣味だ。そのために一生を棒に振って良いのか。大人はボーイズ・ビー・アンビシャスと言うけれど、大志を抱いて……それでどうなる? まともな職につけなくて路頭に迷う可能性だってあるかもしれない。第一そういう道は母さんをひどく心配させてしまうだろう。

 母さんに対するしこりというか、目に見えない空気の壁みたいなものは無くなったと思うけど、それが母さんに迷惑をかけていいということにはならない。


『翔くん、早く答えないと、ますます二人に怪しまれちゃいますよ。いい加減、素直になればいいでしょ! この……うだうだ人間っ!』


 後ろでりんごが急かしてくるが、そもそも自分のせいだということを彼女はわかっているのか!? だいたい僕がうだうだ人間なら、りんごのやつはバカ丸出しお化けじゃないか。


 りんごが余計なことしなきゃ、今頃……今頃、どうなっていたんだろう。少なくとも家出をすることはなくて、父さんたちからホントの話も聞かせてもらえなかっただろう。

 そうしている間に、ずっと默まっている僕を不審に思って母さんがつぶやく。


「翔、どうしたの?」


 りんごの声は父さんと母さんには聞こえないから、口を動かすと、僕が独り言を言っているように見えてしまう。



 ――決めた。



「……僕、行きたい学校があるんです。向坂高校に進学したい。でも、二人は納得しないと思ったから……それで北城高校が第一志望だなんて言ったんだ」


「じゃあ、アメリカに留学するっていうのは?」


「アメリカはやり過ぎだけど、やっぱり絵の勉強を真剣に打ち込んでみたい。向坂高校には美術科があるから、だから……」


「あなたが絵を好きなのは、母さんだって知ってる。だけど、絵なら別に北城高校でだって描けるじゃない。美術部なんかきっとあるわよ。画家になるわけでもないんだから、普通科の学校の方が将来つぶしが効くだろうし……翔には悪いけど、母さんは北城の方が良いと思うわ」


 母さんが言うのも最もだ。反対されるだろうとは思っていた。そりゃあ、普通科に行った方が将来的な選択肢は広がるだろう。けれど、僕の腹はもう決まっていた。


「母さん、僕は絵を続けたいんです。高校に入っても、卒業しても、ずっと。絵を描くのが好きだから。それに――」


 ずっと腕を組んだままの父さんをちらと見やる。


「それに、父さんが教えてくれた。司さん、本当のお父さんも僕と同じように絵が好きだったって。それこそ、いつもスケッチブックを持ち歩くくらい」


「翔……」


「だから僕、思うんです。絵を描くことが、今の僕にとっては実の両親との繋がりなんじゃないか、って。父さん、母さん。僕は画家になりたい。もっと真剣に絵に打ち込んでみたい。そのための一歩として、向坂高校に行きたい。行かせてください」


 二人はしばし沈黙していたが、やがて母さんが首を振った。


「母さんは反対よ。画家になることって、あなたが思っているよりずっと難しいのよ。それに、私……翔には大学に行ってほしい。そうでないと、亡くなったあなたの本当の両親に申し訳ないもの。ねぇ、あなた」


 じっと考え込んでいた父さんが、やがて僕にまっすぐに視線を向ける。


「行かせてやろうじゃないか」


「あなた、なにを言って――」


「目をみればわかるさ。翔は本気だ」


「父さん……」


「だが、翔にこれだけはわかって欲しい。母さんはお前のためを思って反対したんだ。画家を目指すっていうのは、現実的に、簡単なことじゃないんだ。人とは違う人生っていうのは、普通の人にはわからないような辛いことだってある。そういう覚悟はしなくちゃいけない」


「それは僕もわかっています。それでも……やっぱり絵を描きたいから」


「そうか。それなら、父さんはもう何も言うことはないよ。思うままに進みなさい」


 母さんが父さんの話に割って入る。


「あなた、本気? まだ中学生のこの子の選択肢を狭めることになるのよ?」


「君の言うことも一理ある。翔は俺たちの育ててきた息子だろ。信じてやろうじゃないか」


「でも……」


「大丈夫。翔は俺たちが育ててきた自慢の息子じゃないか。俺たちが信じてやらないでどうする?」


 母さんは父さんの言葉を聞いてしばし黙考していた。自分のことを真剣に考えているからこその黙考なんだと思った。やがて、ゆっくりと首を縦に動かした。


「……わかりました。翔がやりたいことを、母さんが応援しないわけにはいかないものね」


「母さん……!」


「そうと決まれば、明日の三者面談、きちんと先生に説明しないとね」


 父さんと母さんはあっさりと僕の決断に賛成してくれた。もっと反対されると思っていたのに……なんだか拍子抜けしてしまって、胸のあたりがぎゅっとする。僕は父さんと母さんに何度も、何度も頭を下げ感謝の言葉を述べた。二人とも照れて笑っていたけれど、なんだかそれが無性に嬉しくて、僕もつられて笑っていた。


『だから言ったじゃないですか。ちゃんと話せばわかってくれますよ、って』


 りんごが後手に組んで誇らしげにつぶやいた。

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