第九幕 僕の進む道

第33話 鍋を囲んで


 父さんの提案で今日の夕食は鍋をすることになり、ぐつぐつ煮える鍋を三人で囲んでいた。りんごは僕の後ろに立って、鍋が煮立つのを今か今かと待っている。


「鍋なんて、ずいぶん食ってなかったなあ」


「そうねえ」


 父さんが何気なくつぶやき、母さんが相槌を打つ。本当に……三人で鍋を囲むなんていつ以来だろう。


「お、そろそろいいんじゃないか」


 父さんが鍋の蓋を取った瞬間、溜まった蒸気が一気に発散して、鍋の香りが部屋中に広がる。


『うう~ん、いい香りですねぇ~』


 りんごは鍋を見てうっとりしていた。

 三人手を合わせて、いただきますと言う。

 汁に口をつけた途端、熱が体中を駆け巡るような感覚がした。

 僕は夢中になって鍋を食べた。美味しくて、美味しくて、たまらなかった。

 体が冷えていたのもあるだろう。お腹が減っていたのももちろんある。でも、きっとそれだけじゃない。こんなに美味しい鍋は、生まれて初めてだった。父さんは僕に負けじと鍋をつついていたし、母さんの方は夢中になって鍋をすすっている僕を見て、楽しそうに笑っていた。りんごはどういうわけか、僕の背中で大人しくしていた。いつもなら食欲に負けて、僕の分を横取りするのに……遠慮をするとは珍しい。


「はぁ。お腹いっぱい」


「翔、今日は随分食べたもんなぁ」


「うん。びっくりするくらい美味しかったから」


 げっぷが出た。母さんが驚いた顔をしていた。いつからか僕は家でげっぷをしなくなった。げっぷの仕方を忘れてさえいた。それが今日は驚くほど自然にげっぷが出て、自分でもびっくりした。


「ごめんなさい」


「良いのよ、別にげっぷくらい。父さんだっていつもしてるんだから」


 父さんがお茶をすすりながらつぶやいた。


「……本当は、お前が二十歳になってからと思っていたんだが……」


「大丈夫です。ありのままを教えてください」


 父さんは母さんに目をやる。母さんがこくんと頷いたのを見て、話し始めた。


「子どもを育てるのが父さんたちの夢だった。だが、長い間俺たちには子どもができなかった。それでも母さんの思いはずっと強かったが、父さんの気持ちは諦める方向へ向きはじめていた。翔も知っているが、母さんは生まれつきあまり体が丈夫じゃないんだ。そんな母さんを無理させることは、父さんには……できなかった。そんなときに――翔。お前を引き取らないかっていう話が来たんだ」


 父さんに代わって母さんが話し出す。


「私たちにとっては望外の報だった。願ってもないお話だった。私たちは二つ返事であなたを引き取って育てることに決めた。その時の選択が正しかったのか、間違っていたのか……それはわからないけれど、あの時はそうすることしかできなかったの」


 母さんがどれほど子どもが欲しかったのか、僕を引き取ってどれほど嬉しかったのか、親になったことがない僕にはホントのところはわからないけれど、それでも少しだけわかる気がした。


 けれど、二人の話を聞いていてわからないことがある。

 僕を生んだ両親はどんな人なんだろう? そして、その人たちはなぜ、僕を養子に出すことにしたんだろうか?

 それは僕が一番聞きたくないことでもあり、また心の奥底では一番知りたいことでもあった。


「父さんと母さんが僕を引き取った経緯はわかりました。でも、まだ肝心なことを聞いてません。僕の……僕の本当の両親はどうして、僕を、その……」


 父さんが得心した面持ちでうなづいてみせる。


「それ以上言わなくても、お前の聞きたいことはわかるさ」


 父さんが小さく咳払いをして話し始める。


「俺には昔から仲の良いはとこがいてな、司っていうんだが……直接的に言えば、やつがお前の肉親だ。俺たちはお前を養子に引き取って育てた」


 司……それが実の父親の名前……。


「どんな人だったんですか? その……司さんは今どうしてるんでしょうか?」


「――もう、いないんだ。秋川司あきかわつかさは天国へ行ってしまった」


 喉の奥で言葉が詰まった。


「事故だったんだ。全部、後で知ったことなんだが……司は奥さんの佐奈さんとまだ二歳の翔を連れて、家族三人で旅行へ行くところだったらしい。車で駅へ向かう途中、反対車線から車が……」


 母さんが両手を口で覆った。

 つまり、父さんの話すところによれば、僕の本当の両親、秋川夫妻は交通事故で亡くなったそうだ。聞いてみれば、あっけない、どこにでもありそうな不幸だ。

 実の両親はどこかで別に暮らしているものだと思っていた。自分は両親に捨てられて、そんな自分を哀れに思った音羽の両親が引き取ってくれたものだと思っていた。


 実の両親はすでに亡くなっていた。

 だが、不思議とそんなに悲しい気持ちはない。

 横で話を聞いていた母さんは涙を流していたが、当事者と言える僕は一滴の滴さえ浮かばなかった。


 ああ、そうなんだ……と思った。考えてみれば、僕は生まれてこの方実の両親に出会ったことがない。実の両親が他にいるという事実は最近知ったばかりだし、そもそも出会ったことのない人間についてどうこう思いは浮かばない。それでも胸の内が空くような、もう二度と会うことは出来ないんだという厳然とした事実が胸をきゅっと締め付けてくるようだった。


「……父さん。司さんってどんな人だったんですか?」


 秋川さん、僕の実の両親は父さんの知り合いらしい。もう会えないならせめてどんな人だったのか知りたいと思うのが自然だと思う。


 すると、父さんは戸棚から写真アルバムを取ってきて、そのうちの一枚を僕に手渡した。これは、近所の公園で撮影したものだろうか。中央に穴ぼこの空いた遊具が置かれている公園。どこかで見たような気が……いや、そんなはずはない。気のせいだろう。写真には二人の男女が写っていて、女性の腕の中には小さな赤ん坊が抱かれていた。


「この小さいのが翔。翔を抱いているのがお前の母さん、佐奈さんだ。その隣に立っているのが秋川司、お前の父さんだな」


 写真の中で二人は笑っていた。

 二人の屈託のない笑顔を見ていると、無性に切なさに似た感情を感じた。

 もうこの世にはいない、だけど僕を確かに自分をこの世に召してくれた二人。僕は二人になんの言葉も掛けられない。ありがとうの一言さえ、伝えるにはとても、とても遠い隔たりがある。そういう事実が、じわりじわりと染みてくる。


「翔。お前、絵、好きか?」


「はい」


「あいつも……お前の本当の父さんも絵が好きだった。ガキの頃からスケッチブックを肌身離さず持ち歩いてたっけな」


 実の父もよく絵を描いていた。

 別に絵を描く人なんて珍しくもない。実の父が絵を描くのが好きだったから、僕も絵を描くのが好きになった……なんて都合が良すぎるし、偶然が重なっただけだ。だけど、スケッチブックに向かって筆を動かしていると不思議と心が落ち着くんだ。

 ……思えば僕は、どうして絵を書き始めたんだろうか。今思い返してみてもきっかけはよくわからない。


「君の実のお母さん、佐奈はとても気立ての良い人でなあ。こうして見ると、翔は母親に似たな。目元や笑った顔なんかそっくりだ。なあ母さん」


「ええ……ほんとにそうね」


 写真で見る佐奈さんはまるで僕なんかとは似つかない。けれど実際に彼女と接したことのある二人が言うんだから、似ているんだろう。実感は、ない。不思議な感じだ。


「翔。お前さえ良ければ、今度、皆で司と佐奈さんのお墓参りに行かないか」


「はい。僕もぜひ行きたいと思っていました。父さんと、母さんと三人で」


 司さんと佐奈さん。実の両親の墓の前で僕は何を祈るんだろう。

 本当は伝えたい事はたくさんある。月並かもしれないけど、学校のこととか友達のこととか、産んでくれた感謝とか。


 でも、今は……音羽の両親と一緒に、僕は元気でやっています、と。

 ただそれだけ伝えたいな。

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