第32話 真実の先へ

 その瞬間、時間が止まったような気がした。本当の放心状態ってこんな感じなんだろうか。辺りの背景が真っ暗になって、もう何も映らない。そこにあるのは僕と、父さんと、母さんと、そしてりんごだけだ。

 二人の驚くのがはっきり見て取れた。

 父さんの眉毛が一瞬逆立ち、両目の瞳孔が開くのが目で見てとれる。母さんにとっても衝撃的な質問だったのだろう、両手で口をおおって、見たこともない表情をしていた。


 母さんが声を震わして言った。


「翔……何を言ってるの? あなたは私たちの息子。当たり前じゃない! ねぇ、あなたからも何か言って」


 母さんの呼びかけに、父さんは応じなかった。腕を組んだ姿勢で座ったまま、じっと目を閉じている。


「あなた! 何黙ってるの!」


 叫ぶ母さんを横目に、僕は自分が二人と血縁関係がないのだと思い至った経緯について話し出す。


「――はじめは献血だった。その時の血液検査で自分がO型だってことを知ったんだ。単なる思い過ごしかもしれないけど、なんだか不安になって自分でも調べてみたんだ」


「…………」


 二人とも黙って僕の話に耳を傾けていた。母さんの顔からは血色が失せていた。


「調べてみて、ぞっとした。父さんと母さんの血液型から、O型の子が産まれることは通常あり得ない。特殊な例外だってこともある。けれどその確率は恐ろしく低い。僕は驚くほど低い確率を素直に受け入れられような楽観的な性格じゃないんだ。僕は、自分が何者なのかわからなくなった」


 父さんは微動だにしない。腕を組んだままじっと考えにふけっている。


「そのうち、一つの考えに思い至った。僕はもしかしたら、音羽家の養子なんじゃないかって。本当は二人と血が繋がっていない、赤の他人なんだ。そう思うと、家にいるのが息苦しくなって、いつしか逃げるように部屋に籠もるようになった」


「翔、私は……」


 母さんの言葉を遮り、僕は目を見開いて言う。


「本当のことを知るのが怖かった。けれど、このままじゃ自分が自分でいられないようなそんな気がするんだ。だから僕は真実を知りたい。僕は一体――誰なの?」


 言いたかったことを僕は全て口にした。

 事実は受け入れるしかない。僕は二人の口から語られることがどんなに残酷な現実であっても、ありのままに受け入れようと決めていた。


 昔、偉い人が言った。人は人生の局所で必ず試練が訪れる。試練は乗り越えられる者にしか訪れない。だから、臆さず進め。希望はその先に必ずある――と。


 最初にこの言葉を本で見つけたとき、耳障りの良い言葉にしか思えなかった。 

 けれど今になってその通りだと思う。臆していては何も進まない。前進するにはぶつかるしかない。


 二人の顔をじっと注視する。

 父さんも母さんも口を開かず、沈黙を続けていた。

 それは実際にはほんの数十秒間のことだったろう。

 けれどその数十秒は、この時の僕にとって、永遠にさえ思えるほど長かった。


 やがて、母さんが言った。


「あなたは音羽翔。正真正銘、私たちの息子よ」


 母さんの口から出た一言は僕を困惑させた。本当ならば手放しで喜びたい気持ちだ。けれど、そうできない訳があった。


 父さんが腕を組んだまま黙っているのだ。


「ねえ、あなた。そうよね?」


 母さんが父さんに話をふる。それまでずっと目を瞑って考え込んでいた父さんは、開いた眼光の先に僕と母さんを捉えている。ようやく開いた口から漏れた声は低く、重い声だった。


「だめだよ、香織。誤魔化してはいけない」


「あなた、何を言っているの?」


 慌てる母さんとは対照的に、父さんはいつになく冷静だった。


「翔の目を見ろ。この子がこんなに真剣な瞳をして聞いているんだ。俺たちが目を背けて誤魔化すような真似、しちゃいけない」


「父さん、どういうこと?」


 父さんは淡々とした口調で答える。


「母さんの言ったことは、正しくもあり、間違ってもいる」


「父さん……それ、どういうこと?」


 母さんが沈黙する。顔が死人のように青ざめている。両手をお祈りするように組みあわせ、小さく震えていた。

 父さんが長いため息をついた。


「翔。お前は俺たちと血が繋がっていない。それは事実だ」


 父さんの言葉には重みがあって、それが事実であると告げているように思えた。


 両親と僕は――他人。

 僕は音羽翔じゃなく、ただの翔だった。父さんと母さんは僕の……何なんだろう? これから二人のことをなんて呼べばいいんだろう。


 ふと、自嘲の笑みがこぼれた。

 僕は今更何を考えているのか……二人と他人だと知った以上、もう僕が二人と一緒に暮らす資格なんてないじゃないか。ちっぽけで孤独なただの翔になったんだ、僕は。


 不意に自分が落下しているような感覚を覚える。コンクリートの持つ冷たい、ひんやりとした感触は消え失せ、そこに底の知れぬ穴が空いた気がした。僕は穴の中を落下している。大穴は光も闇も全てを飲み込んでしまえるほどに大きくて、それまで抱いていた薄らかな期待だとか、これからどうすればいいのかという不安だとか、そうしたもろもろの感情は泡となり、光の飛沫となって、足下に空いた途方のない穴へと落ちて行った。


 僕は泣いていなかった。


 実際、両親から、自分は血縁関係のない他人であると告げられた時、僕は自分が涙を流すと思っていた。あまりのショックに、それまでの思い出が頭を巡り、男なのに情けないと思うけど泣いてしまうと思った。


 けれど、僕は泣かなかった。


 悲しくなかった?

 違う。悲しいとか、怖いとか、そういう次元の話じゃない。

 混乱してるとか、そういうんでもない。僕はただただ無心だった。もはや何も考えられなかった。

 想像はしていた。覚悟だってしていたつもりだ。

 それでも現実を今こうして突きつけられると、想像やら覚悟やらそんなものは無意味であるとさえ思えた。心の許容量を超えた感情の奔流に、僕は呆然とするほかなかった。

 積み木が崩れ落ちるように、様々な思い出が走馬灯のように脳裏をよぎる。それらは地面に落ちた卵の黄身のように、はじけてドロドロになる。やがて卵黄は砂塵や何やらと結合して、醜いものに変わってしまう。僕の胸中はそんなもので一杯だった。


 りんごが背後からじっと僕を見つめている。僕は彼女の姿を見たわけじゃないけれど、背中に視線が刺さる感覚がしたのだ。彼女はどういう気持で僕を見つめているんだろう?


 その時、おでこに冷たい感触が伝わった。

 顔を上げると、母さんが泣いていた。いや、もう『母さんだった人』か。


「関係ない」


 雨粒に混じって、嗚咽おえつのこもった声が胸に届く。

 香織さんが僕の手を両手に包み込む。雨に濡れてすっかり冷えていた僕の手とは対照的に、彼女の手は不思議なほどに暖かい。その手に包まれていると、なぜか、涙が溢れた。


「関係ないわよ、そんなの。確かに父さんの言うように、あなたは私と血が繋がった子じゃない。でも、そんなの何も関係ない。翔が私達の家族だという事実は変わらない。今までも……そして、これからもずっと、変わらない」


 何か言いたかったけれど、声が喉を通らなかった。自分の意志に反して涙は止まらない。顔がくしゃくしゃにして、僕は泣いていた。


 香織さんが……母さんが僕を抱きしめた。僕は彼女の肩でむせび泣いた。

 そうせずにはいられなかった。

 涙がとめどなく溢れてきて、止めようがなかった。自分はこんなにも涙を流せるのだということを知らなかった。


「やっぱり母さんには敵わないな。俺の言いたいことは全部、母さんが話してくれた。翔、父さんも母さんと同じだよ。誓って言う。お前のことを家族じゃないと思ったことは一度もないよ」



 そうか――ぜんぶ僕の一人相撲だったんだ。



 僕は無意識に両親を避けていた。僕が二人の子どもじゃないと知った時、二人はきっと僕を突き放してしまうだろうと思ったから。


 ホントはもっと単純なことだったんだ。


『翔くん』


 その声に僕は顔を上げた。

 すぐ横にりんごがいた。彼女は笑っていた。言葉をかわさずとも、彼女の言わんとすることは伝わってくる。

 雨に紛れて、蝉がどこか遠くでカナカナカナと鳴いた。

 口を開こうとすると体が震えた。香織さんが……母さんが震える僕を見て、頷いた。父さんも何も言わずに首肯した。


「僕……はっ」


 声がどもってしまうのがもどかしい。自分の気持ちを素直に表現するのが今の僕には至難のことだった。


 母さんがまた、両手でぎゅっと握ってくれた。

 手は暖かかった。

 母さんの手がこんなにも優しげな温もりに満ちているのを、今の今まで僕は知らなかった。見ようともしなかった。一方的に遠ざけて、関わらないようにした。だから僕は母さんの手が温かいという、そんな単純なことさえ知らなかったんだ。

 真実を知るのを恐れてばかりで、その後ろに隠れている気持ちを知ろうともしなかった。


 でも、今は。


 今、僕は父さんと母さんからホントのことを聞いた。とても悲しい現実だった。

それと同時に、二人のホントの気持ちも知った。それは想像もしない奇跡だった。

だから今、僕は話さなきゃいけない。二人に自分のホントの気持ちを伝えなくちゃいけない。声がどもってしまっても、どんなに不格好でも伝えなきゃいけないんだ。


 りんごが僕の背にそっと触れた。背中の彼女に僕は目で返事をする。

 ありがとう。その気持ちで胸がいっぱいだった。りんごのおかげで、僕はどんなに……。



「僕、は……これから、も、二人と……一緒に、暮らしたい、です。僕が、それ、を、望む、ことは……許される、の、でしょうか」



「当たり前よ。あなたは私たちの息子なんだから」


「誰がなんと言おうとも、翔は俺達の家族だ。そうだよな、母さん?」


「ええ」


 母さんがまた、僕を抱きしめた。

 父さんも同じように僕を抱きしめた。

 僕は二人の胸の中で泣いた。






 少し離れたところで、りんごはむせび泣く翔を遠巻きに眺めていた。


 良かった。単純にそう思った。

 時間はかかるかもしれない。家で敬語を使う癖はすぐには抜けないだろう。それでも音羽家の歯車はようやっと、正常に回り始めた。翔もちょっとずつ時間をかけて、素直な本来の自分を取り戻していくことだろう。


 りんごはほっと胸をなでおろす。

 その時、ふと、頭の中にノイズが走ったような気がした。

 ガラスが割れるような音がした瞬間、奇妙な現象が起こった。


 りんごは知らない場所に立っていた。


 ついさっきまでは翔の家の前にいたのに、今は白い壁で囲まれた部屋にいる。ベッドが置いてあって、その側のテーブルに読みかけの本が伏せられている。一箇所だけ開けられた窓から入ってくる風が、クリーム色のカーテンを揺らしていた。


 知らない場所だ。でも、どうしてだろう。

 なぜか、懐かしい感じがする。まるで自分はこの場所を知っているような……。


 突然、痛烈な頭痛がやってきて、りんごは目をつぶる。

 目を開けた時、不思議な白い部屋はなくなっていた。

 わたしは、今……?

 虫の知らせとでも言うのだろうか……なんとなく、小さな胸騒ぎがした。


 翔が両親に連れられて家の中へ入っていく。何気ない、当たり前のようなその光景がりんごにはとても暖かいものに感じられた。

 白い壁で囲まれた部屋。たぶんあの場所をわたしは知っている。でも、今はとりあえず翔くんの後ろにいよう。それで、いいんだ。


 りんごはふぅと息をつき、翔の背中について行った。

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