第31話 怖れと覚悟
僕はりんごを背負って家路を駆けていた。
頬に当たる雨粒が鋭く、冷たい。
僕が話を切り出した時、父さんと母さんはどんな顔をするだろうか。今の僕には想像もできない。
「――可能性ならあるんだ」
『可能性?』
僕は背中のりんごに向けて、走りながら言う。
「あれからヒトの血液型について自分でも図書館で調べてみたんだ。インターネットで見たように、B型とAB型の親からO型の子が生まれる確率はゼロだ……基本的には」
『基本的には……? つまり例外があるということですか』
僕はりんごの言葉に首肯する。
インターネットの情報が信じられなくて、あの日から僕は図書館で血液型についての文献を読みあさった。多くは専門用語がたくさん出てくる難解な文章だったりして内容もほとんど理解できなかった。それでもわかったことがある。
――血液型診断には例外が存在する。
「B型の父さんと、AB型の母さんから、O型の僕は生まれ得ない。けれど、突然変異やそもそもの診断が間違っているという可能性だってある。あの時も、看護師さんは言っていたんだ。『血液型診断の間違いはけっこうあるもんだ』って」
『診断が間違っていたっていうことですか?』
「それもある。献血の時の検査は簡易的なものだったからね。ホントのとこは精密検査をしないと正確な結果は出ないと思う」
りんごにはこう言ったものの、確率が低いことには変わりない。
それでもわずかな可能性があることは、希望となる。だから僕は父さんと母さんにホントのことをずっと聞きたかった。でも……希望が絶望に変わってしまうのが恐ろしくてどうしても口に出そうとは思わなかった。
りんごに言われなければ、僕はこれからも父さんと母さんに聞いてみようなどとは思わなかっただろう。
◇ ◇ ◇
見慣れた電信柱が見えてくる。電球が古くなった外灯が点いたり、消えたりを繰り返す。
僕は家のあるマンションの前までやって来た。あとはエレベータで上って少し歩けば、ウチだ。
急に足取りがずしりと重くなった。
『翔くん、怖いんですか?』
りんごが後ろから声をかける。僕にはわかる。人をからかったような言い方は、僕を挑発して前に行かせようとするため。りんごはいつもそうなんだ。
「……バカ言うな。怖くなんか無いさ」
ホントはやせ我慢だ。
足を踏み出す。雨の中走ってきたから、髪も服も全身びしょ濡れだったけど、不思議と寒さは感じない。寒さなんか感じている余裕がなかった。
エレベータが2階を通過する。上昇速度がひどく遅く感じた。電子盤の表示が3Fに近づいていくにつれて心臓の鼓動が加速していく。
汗が滲んだ手でドアノブに手をかけると、いつも軽く開けられるはずの扉が重くて動かない。鍵がかかっているわけではないのに。風が吹きつけているわけでもないのに。
心臓がかつて無いほどに拍動する。心臓が飛び出るという表現は、自分で実感してはじめてわかる。今の感じはまさに、心臓が胸の内から飛び出して、扉にあたってぐちゃぐちゃにひしゃげてしまうような、そんな感覚だった。
けれど、背中にはりんごがいる。逃げることは出来ない。
後ろを見れば、りんごは僕の首筋に手をかけようとしている。
「り、りんごやめてよね」
彼女の手に触れると謎の悪寒が発生するのだ。
『じゃ、早く開けてくださいよ。ウジウジしても始まりませんから』
「だから今、開けようと――」
『えい』
りんごが伸ばした指先が僕の首のうなじのあたりに触れる。瞬間、膝ががくがくと情けなく震え始め、全身の毛が総毛立つ。たまらなくなって僕は扉の前で、情けなく両手を床について崩折れた。
『翔くんがいつまでもドアを開けないのが悪いんですよ』
「ばか、やろう……」
僕がつぶやいた、その時だ。
扉が開いた。
「翔……翔なの!?」
「母さん……!」
僕が続きをつぶやく前に、母さんが転ぶように走ってきて首に手を回す。
母さんは泣いていた。背中にあてがう手がぎゅっと強く締め付けてくる。
「こんなに濡れて……心配したでしょ!」
色々言いたいことはあったけど、その時の僕にはとりあえず「ごめんなさい」という言葉しか出てこなかった。
エレベーターの昇降音が聞こえてくる。
「はぁはぁ……翔……帰っていたのか……」
エレベーターから出てきたのは、レインコートを着た父さんだった。ひどく息が上がっていて、うちの前までやって来ると床にべったり座り込んでしまった。
「父さんはね、あなたを探して近所中駆けずり回っていたのよ」
「電話が来てうちに帰ったら、母さんが目を泣きはらしていてな。『翔が出て行っちゃった』の一点張りでさ。もう、パニックだったんだ。父さんも心配でなぁ、翔もあまり無茶はよしておくれよ」
父さんの雨合羽はびしょ濡れだ。僕が橋の下にいる間も、父さんはずっと走り回って僕を探していた。そのことを思うと胸が痛む。
母さんも父さんも、二人とも僕を心配してくれていた。そのことは嬉しい、けど、僕はそんな二人にとんでもないことを尋ねようとしている。二人をもっと心配させるようなことを、訊こうとしている。
父さんと母さんが心配そうに見つめる、その眼差しが針のように僕の胸に突き刺さる。
膝を組み直して、父さんがつぶやいた。
「翔、話してくれないか。どうして家出なんてしたんだい?」
「留学のことなら気にしないでいいのよ。そりゃあびっくりしたけど、翔が本気なら、母さんは応援したいもの」
話さないといけない、家出をした理由を。
「違うんだ、母さん。僕は……」
声がどもってしまって、思ったことを上手く口に出せない。
怖い。いざ父さんと母さんを前にして、僕の決心は揺らいでいた。
目の前にある玄関が、手の届かない途方もなく遠い場所であるように思えた。
あの時、決心したはずだ。僕はりんごに誓ったんだ。ホントのことを知るために、父さんと母さんに質問する、と。だけど、やっぱり怖い。
僕はどうしようもない意気地無しだ。どれだけ決心しても、真実への道を前に足が竦んでしまう。震えた足を踏み出すことが出来ず、言葉は
その時、背中に白い手が触れた。
全身に戦慄するような寒気が走って、僕は電気ショックを受けた魚のごとく、びくりと
「翔、大丈夫?」
僕は心配する母さんから視線を外し、後ろを見た。
そこには白装束の女幽霊が口をへの字に結んで立っていた。
『安心してください翔くん。わたしが後ろについていますから』
どの口が言うか。りんごのせいで、二人とも僕を見る目が変わっている。当然かもしれない。服はびしょ濡れ。顔色は真っ青。そこに
実際には寒気は一瞬のことだっただろうけど、僕が何か重篤な状態であると二人が勘違いしてもおかしくはない。
だけど不思議なことに、僕の覚悟は決まっていた。りんごの手で作られた、もはや言い逃れの出来ないこの状況が、怖れを覚悟へと変貌させたのだ。
目の前で顔色が青ざめて痙攣したのだ。今更普通の言い訳を並べ立てたところで、かえって二人に不信感を抱かせるだけだ。
訊くしかないんだ。
「父さん、母さん。僕はホントのことを知りたい」
二人とも僕が言っている意味がわからない様子だった。
だから僕は言った。ずっと長い間、胸の内に秘めてきた言葉を吐き出した。
「――僕は本当に二人の息子なんですか?」
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