第30話 慟哭
りんごの言葉は白石で埋められた碁盤上に、突如現れた黒石のようだった。極めて異質な言葉を僕の脳は理解できない。りんごの言っている意味がまったくわからない。
「わたし……って、それ、どういうこと!?」
『
呆気にとられた僕の顔を見てりんごは淡々とした口調で話しだす。
『簡単な話です。わたしがあらかじめ用意しておいたもう一枚の進路希望とすり替えたんです』
「……もう一枚の進路希望?」
『はい。提出用と保管用とで、先生に二枚もらったじゃないですか。そのうちの一枚を抜き取って、あらかじめ第一志望のところに留学と書いておきました。あとはタイミングを見てすり替えるだけ。今日の休み時間に提出した進路希望、わたしがこっそり授業中に職員室へ行って中身をすり替えてきました。翔くんが、授業に集中してくれていたおかげで随分動きやすかったですよ。家に帰ってからは、翔くんが手を洗いに行くタイミングで、クリアファイルに用意していた留学希望の紙を入れました。だいぶ慌ててたから、気づかなかったでしょう?』
「……嘘だ。だって君は僕と契約してるから、背後霊みたいにずっと近くにいなきゃいけない。そう言ってたじゃないか!」
知らぬ間にりんごと交わした契約で、彼女は僕から離れることができない。自分でそう言っていた。それこそ学校にだってついてくるし、風呂の時だって声が聞こえるくらいの距離にはいる。だけど、もし。もしも僕の想像する通りだったなら……。
りんごが邪悪にニタリと笑う。絶望を感じさせるに十分な笑みだった。
『そう……嘘です。わたしは翔くんとずっとくっついてないといけないなんて制約は、最初からなかったわけです』
「そんな……冗談でしょ、りんご?」
『じゃあ聞きますけど、翔くん。わたしから離れてみようと試したことありますか?』
出会った時からりんごは僕の背後霊になって、だから絶対憑き主である僕から離れられない存在なのだと思っていた。いや、そう思わされていた。背後霊という言葉が持つ先入観によって、僕はりんごがついた嘘をすっかり信じこんでいた。だから試そうとすらしなかった。よく考えればおかしい話だって気がつくはずなのに。
りんごは僕から離れられない。大前提とでもいうべき僕らの関係が砂上のごとく崩れ去っていく。
「もしかして、今朝、僕が遅刻したのも……」
『やっと気づきましたか。ええ、そうです。翔くんを遅刻させるために、昨日のうちに目覚まし時計から電池を抜いておきました。念のため、金縛りもかけました。あなたが今朝のホームルームで先生に進路希望を提出できないようにするためです』
僕はもはや呆然とした顔でりんごの言葉を聞いていた。
『朝の提出するタイミングをつぶせば、後はどうとでもできますから。移動教室の時間は把握してますし。一番大変だったのは翔くんの文字を真似るところですかね。これでも毎晩、翔くんが眠ってから練習してたんですよ』
今にして思えば、りんごは夜寝る前もずっと机の上にルーズリーフを広げて書き物をしていた。暇つぶしだろうと考えていたけど、あれはずっと僕の文字を真似る練習だったのか。
『付け加えるなら、わたしだって好き好んで学校で悪戯してたわけじゃないですよ? 私自身、幽霊って存在をよくわかっていないので、自分がどこまで、どういう行動ができるのか……些細ないたずらを通して試行錯誤してたわけです。あ……さすがに呪殺はできませんが』
「……からかってるんだろ、りんご。僕はもう騙されないから」
『唇が震えてますよ翔くん。自分でも気づいたんでしょう。職員室での先生の様子が変だったのも、全部わたしの計画通り。まあ危うく口滑らせて留学のこと言われちゃうと困るので、強引に翔くんを退出するよう誘導しましたけど』
堀口の言葉が脳裏に蘇る。『英語の勉強頑張らないとな』『急だが面談の日程組ませてもらった』『本気なのか?』自分が担任している生徒がいきなり留学志望だと言ってきたら、先生だって慌てるだろう。そんな素振り一切なかったんだから、当然だ。だから僕が放課後会った時あんな顔してたんだ。
りんごの言葉を聞いていると、これまでの小さな出来事の一つ一つがパズルのピースのように綺麗に組み合わさって、一本の線で繋がっているみたいに感じる。だけど、僕はその事実をどうしても認めたくなかった。
「……りんご、笑えない冗談はいい加減にしてくれよ!」
僕は叫んだ。それでもりんごは身じろぎ一つしない。どこからか冷風が吹いてきて、彼女の長い黒髪をふぁさりと揺らす。
りんごは足音に運ばれてきた木の葉を踏みつけた。潰された落葉は音を立てて崩れ、散らばった破片は、また、風に吹かれて何処かへ消えた。りんごが突き刺すような鋭い眼差しを僕に向けた。
『誤魔化すのは結構ですけど、逃げたところで現状は何も変わりませんよ。それは翔くんが一番わかってますよね?』
りんごと一緒にいると、背中に寒気が走る瞬間がたまにある。今がそうだ。普段、おちゃらけているようでりんごは意外と鋭い。彼女は人の胸の内を透かして、そこからぞくりとする言葉を摘み取る。
『目的はなんだ、とでも言いたげですね。わたしの目的は最初から変わりません。わたしは翔くんの本音を聞きたい。ただそれだけです』
いくら考えてもわけがわからなかった謎が、彼女の発言一つでこうもあっさり解けてしまうなんて。確かにりんごが今まで言ったことは、彼女なら実現可能だと思う。いや、幽霊である彼女にしか不可能だ。
「……ははは」
はじめは小さな薄笑いだった。僕は結局、りんごの考えた計略の上で踊らされていたのか。
りんごの話した仕掛けの全ては驚くほどきれいに僕の胸に落ちた。胸にストンと落ちて、先の見えない靄が晴れていく。すると、まさに彼女の言葉が鍵だったように、僕の心の奥底から、底なし沼のごとく黒い、常闇のような何かがどっと吹き出してくる。
突然、体が何かに操られているかのように勝手に動き出した。腕が勝手に動いてりんごの胸ぐらを掴み上げ、口がひとりでに語り始めた。
「りんご! 君は自分が何したかわかってるの? 君のせいで、僕は……僕は……っ!」
とうとう僕は胸の内をさらけ出して慟哭した。りんごが仕掛けた理不尽な仕打ちに僕はそうせずにはいられなかった。
「君はいつだってそうだ! 勝手に僕に取り憑いて、勝手に学校についてきて! 勝手に食事を横取りするし、勝手ないたずらばかりする! 今日だってそうだ! 僕は、君のせいで家出するはめになったんだ!」
りんごは何も答えなかった。なぜ口を開かないのか……沈黙を続けるりんごを凄く、ずるい、と思った。
「ふざけんな……ふざけんな……ふざけんなよっ! 自分は関係ないくせに! 他人のくせにどうして僕に関わるんだ! おしまいだよ。もう、全部。僕は母さんの信頼を失った。見ただろ母さんの顔。信じられないような顔してた」
りんごは口を開かない。目だけはじっと僕を見据えている。
「黙ってないでなんとか言えよりんごっ!」
りんごの両肩を握って乱暴に揺すった。激しく首を揺らされながら、彼女は何も言わずただじっと僕を見つめたままだ。
もう嫌だった。僕を見つめるりんごの瞳がどうしようもなく嫌だった。目玉を繰り抜いて握りつぶしたい衝動に駆られもした。けど、できなかった。なぜかわからないけど、りんごの目を見ていると……涙がこみ上げてくるんだ。
彼女の肩を握っていた手が、思い切り前に強く押し出される。りんごは雨空の下に派手に倒れた。倒れた際に泥がはねて、顔が黒茶色に汚れていた。
雨脚は止むどころか強まっていた。ごうごうと吹き寄せる風が橋桁をギイギイと鳴らす。
りんごは文句の一つも言わなかった。立ち上がるともせず、目だけはじっと僕を見つめている。嫌になる。とことんまで自分が嫌いになる。りんごの計画に踊らされて。あげく自己嫌悪に陥って、りんごに八つ当たりをしている自分が情けなかった。
りんごは待っているんだ。大雨の中倒れながら、僕に汚く罵られても無抵抗を貫いて、それでもじっと僕を見据えて待っているんだ。彼女はずっと待っている。顔に泥がついても表情一切変えず、眼光の先に僕を見据えて、僕が自分の言葉で話すのを待ち続けている。
「――僕だって本当は北城高校なんて行きたくないさ。無難な進路だと思ったから、だから選んだんだ」
『翔くんは絵が描きたいんですよね? なら、素直に美術科のある高校へ行けば良いじゃないですか』
「絵は、好きさ。自分の見たものをキャンバスに写し取っていると時間を忘れてしまうくらいとても楽しい。けどさ、ダメなんだ。今の僕は、真っ白な画面と向き合っていると、頭のなかに次々と疑問が湧いてきて、とても絵に集中できやしない」
『無難な進路を選び、好きな絵にも真剣になれないで……それならあなたは一体何がしたいんですか? わたしには翔くんが、ただ自分から逃げている臆病者に見えます』
「臆病者……か。確かに君の言うとおりかもしれないな。僕は自分自身から逃げてるんだ」
りんごは何も言わないけれど何を言いたいのかはわかっている。彼女は知りたいんだ、僕の本音を。薄っぺらな言葉で繕ったものなんかじゃない、誤魔化しのない僕の本心をつまびらかにしたいのだ。
「自分が何者なのか、知りたいという気持ちを抑えられない。何をしていても、いつも頭の片隅でそのことばかり考えてる」
あの日から、僕はいつも疑念を持っている。両親と自分の関係に疑いを持ちながら、それでも知りたい気持ちを封じ込めて生活してきた。しかし、抑えこまれた気持ちは胸の内で膨張を続けていた。そうしていつしか、僕の中にもう一人の僕というべき存在が生まれた。
僕はりんごの目をじっと見つめた。彼女のくっきり開いた瞳はまっすぐ僕に向いている。……降参だ。やっぱりりんごに嘘や誤魔化しは通じない。向き合うしかないんだ、自分の内に潜む本当の自分と。
「――可能性ならあるんだ。だから僕は知りたい。知りたくて、知りたくてしょうがないんだ! 自分が持ってしまった疑念が正しいのか、間違っているのか」
吐き気がして思わず口を手で覆った。ずっと押し込めていた気持ちが、胸の内からどっと溢れだす。声を震わせて僕は
「父さんと母さんが、本当の両親であって欲しい。当たり前だ……ずっとずっと僕は音羽の家で育ってきたんだから! でも聞けないよ……。今更聞けるわけ無いだろ!?
『父さんと母さんは本当に僕と血が繋がっているの?』なんてさ。
声には出せないけど、それでも隠しれるようなもんじゃない。いつからか家の中で敬語を使い始めて、どんどん家が窮屈になっていく……。それで逃げるように僕は部屋に引き篭もるようになった。絵を描いていても、二人の顔が頭の隅にちらついて疑問の渦に苛まれる。――君は自分の気持ちに素直になれって、そう言うけど……素直になったところで何も変わらないよ。僕はもう、自分でも自分がわからないよ!」
その時、不意に背中に温もりを感じた。
りんごが僕を抱きしめていた。
華奢な細腕を僕の首筋に回し、おでこを僕の背中に押しつける。
「――りんご?」
僕は首もとにあったりんごの小さな手を握った。普段なら、触れた瞬間に尋常ならざる悪寒が走る彼女の右手。それがどうしてか……冷たい雨夜にもかかわらず彼女の手はあったかくて、りんごの手の温もりが心地よかった。
背中交じりにりんごがつぶやいた。
『――知りたいのなら、知ればいい』
橋の下に彼女の声がよく響く。
『うちに帰りましょう。そして両親に聞きましょうよ、翔くんがホントに知りたいことを』
「でも……無理だよ。僕は母さんに合わせる顔がない。それに、本当のことを知るのはやっぱり怖い……」
りんごが背中のシャツをぎゅっと握りしめた。
『それは確かに怖いと思いますよ。けど、怖がってばかりじゃ何も始まらない。それはあなたが一番わかってる』
そうだ。疑念が晴れなければ、この先もずっと僕は何もかも中途半端な気持ちでいるのだろう。あの家が居心地悪いことは変わらないし、これから先も、ずっと、ずっと……父さんと母さんの顔色を伺って生きていく……。
――そんなの嫌だ。僕にだってやりたいことがある。そのためには前へ……怖くたって、なんだって前へ進まなきゃいけない。
「りんご、君はやっぱり凄いヤツだよ。僕なんかとは比べようもないくらい……」
『まぁ背後霊ですからね。わたしは。知ってます? 背後霊ってまたの名を守護霊とも言うんですよ』
りんごがすっくと立ち上がる。篠突く雨が彼女の頬についた泥汚れを洗い落としていた。りんごは普段と変わらぬ悪戯っぽい笑みを浮かべ、僕に手を伸ばした。
『安心してください。翔くんの後ろにはわたしがついていますから』
にっこり笑うりんごが僕にはとてもまぶしく見えた。りんごは何が起きたって、りんごだ。どんなときも彼女はこんなふうに笑える。僕もそんな風になりたいと思った。
「頼りにしてるよ」
僕はりんごの手を取り立ち上がる。
雨は止まない。轟々と吹き付ける風雨の音が橋の下にまで聞こえてくる。
だけど一瞬だけ。所詮目の錯覚だろうけど、ほんの一瞬だけ、雨が止まった、気がした。
分厚い雨雲の中から、三日月のきれっぱしが顔をのぞかせたのだ。一瞬だけ降り注いだ月光がりんごの瞳を照らしだす。まっすぐに僕を見つめる彼女の瞳には、やはり僕が写っている。
りんごの瞳に映し出された僕の瞳は、
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