第六幕 仮面

第21話 黒い雫

 正座で座るりんごからは、普段の彼女のふにゃっとした印象はまるで消えてしまっていて、別人のようにぴりぴりとした静電気のようなものを感じた。

 なんだろう? タオルを机の椅子にかけて、りんごと向かい合うように座る。


「なんだよ、急にもったいぶって。話って……何?」


 りんごは思案顔で目をつぶっていたが、やがて意を決したようにつぶやいた。


『……そろそろホントのことを話してもらえませんか? ずっとわたしに隠し事してますよね?』


「別に何も隠してないよ」


『とぼけないでください。翔くんが何か隠し事をしてることくらいわたしにだってわかります』


「何がわかるっていうのさ。僕は君に隠し事なんてしてないし、する意味もない」


『……初めて翔くんの家に来た時、中学生の男の子にしては、随分しっかりしてる子だなぁ。わたしも見習わないとなぁって思ったんです。それと同時にちょっと無理してるんじゃないかって心配にもなったけど、翔くんは何でもないように言ってたから、わたしも言葉通りに受け取っていたんですが……。ここ一週間ほど、あなたと過ごしているうち気が付いたんです。翔くんは家の中で無理をしている。その原因はおそらく――』


 りんごはそこで言葉を切ってすっと立ち上がると、ハンガーにかけてある制服の袖を手に取った。


『……後ろからずっと見ていたわたしには、学校でのあなたと、家にいるあなたが別人のように思えるんです。』


 りんごはそれまで溜め込んでいた気持ちを一挙に吐き出すかのように、強い眼力をこめた眼差しで僕を見据えてつぶやく。


『……教えてください。どちらが本当のあなたなんですか?』


 一瞬の静寂。僕はごくりと生唾を呑み込んで口を開いた。決して悟られぬよう、鉄の笑顔を顔面に貼り付けながら。


「……バカバカしい。考えすぎだよ。おせっかいをこじらせて、もはや妄想だよ、君が言ってるのは」


 口ではそう言いながらも、僕はりんごの洞察力に驚いていた。のほほんとして見えて、彼女は意外にも僕をしっかり見ていたらしい。彼女の言っていることは……正しい。自分を殺して、誰かを演じる。今の僕はまさにそうだ。そうしなければいけない理由があるんだ。けど、それをりんごに話す気にはなれず、逃げるようにベッドの上に寝転がる。

 背を向けて不貞腐ふてくされたようになった僕を見てか、りんごは聞こえるくらいの大きさでため息をつくと、椅子に腰かけた。長い三つ編みをふぁさりと後ろへ流すと、腕組みをして言った。


『……ふーん、そうですか。翔くんはあくまでそういう態度を取るつもりなんですね』


 僕はりんごの言葉には何も答えない。手近にあった漫画を手に取ってぱらぱらとページを捲る。漫画の内容はまるで頭に入ってこない。こうやって時間が過ぎるのを待っていれば、いずれりんごも諦めて余計な詮索せんさくはやめてくれるだろう。


 だけど、彼女はだんまりを決め込む僕なんかお構いなしに話し始めたのだ。


『できれば翔くんの口から直接聞きたかったです。でも……あなたが頑固な態度を崩さない以上、仕方ないですもんね。恨むなら自分を恨んでください』


 機械的に無感情な物言いでそう言うと、突然、首筋にひんやりしたものが触れた。

 りんごが指先を触れたのだ。その瞬間、あの得体の知れない悪寒が全身を駆け巡る。そのショックで僕は無様にベッドから転げ落ちた。


「あのさぁ! それ、やめてくれって言ったよね!」


 だが、りんごは一切耳を貸さず、瞳を閉じてじっと座っていた。呼吸すら忘れているんじゃないかと思うほど、怖いくらいに集中している彼女の姿に僕は文句が言えなくなって、その場にぺたんと座って、りんごが口を開くのを待った。

 やがて、りんごは口の端を上げてニッと笑う。集中の余波で彼女の額が少し汗ばんでいた。


「りんご……?」


 普段のおちゃらけた雰囲気は微塵みじんも感じられない、ただならぬ様子のりんごに僕が声をかけると、彼女は小さな声でぽつりとつぶやいた。



『――養子』



 彼女が不意に発した短い言葉が、しずくのように胸中に落ちて波紋が生まれる。


『自分は本当の子どもではない。だから両親にはつい遠慮がちになってしまう……と。そういうことだったのですか。翔くんが言いたくないのも無理はない大変デリケートな問題ですね。そうとは知らずに、わたし……不躾ぶしつけな振る舞いをしてごめんなさい』


「りんご……? さっきから何、言ってるの……?」


 一滴の雫から生まれた波紋は徐々に大きく騒めきだす。背中のシャツが肌に張り付いていて、指先がかすかに震えだす。開いた口が塞がらなかった。


『背後霊だから、ですかね。触れた指先を通じて、憑き主の思いや考えがわたしの中に入ってくるんです』


突然饒舌じょうぜつに語り始めたりんごは、僕をじっと見つめた後、伏し目がちに机の上に視線を落とす。


『黙っていてすみません。接触した人の意識を読み取れる……自分にそんな力があるって、少し前からぼんやりだけどわかって――』


 椅子をくるりと回転させて僕に向き直り、りんごは遠慮がちにつぶやいた。


『完璧ではないけれど……わたし、翔くんの考えていることがわかるんですよ』


 ――はっ……なんだよそれ。


 渇いた笑いが無意識にこぼれて、僕は投げやりに自嘲じちょうした。全身の力がすーっと……風船からガスを抜くみたいにして抜けていくのがわかった。


『さっき翔くんに触れた時、指を通して翔くんの思いが伝わってきたんです。あなたは悩んでいた。指先から感じた翔くんは自分の置かれた環境に悩み、もがき苦しんでいた』


 触れただけで人の気持ちを読み取れるなんて……そうだとしたら、最初から。出会った時からりんごには筒抜けだったってことか。くだらない。僕が必死に取り繕っていた全ては無駄な労力だったんだ。

 りんごがずっと話しているけれど、彼女の声がだんだん遠くなっていく。ぼんやりした頭に流れてくるりんごの話が自分とは全く関係ない別の世界の出来事のように思えてきて、まるで冷たい湖の中に沈んでいるみたいに、目の前が真っ暗に縁どられていく。


『それでも、できれば私はあなたの口から本当のことを聞きたい。だから翔くん、話してくれませんか?』


 りんごは触れただけで、接触した者の考えていることがわかる。そんな超能力じみたものを持っている? なんだよ、それ。ふざけるなよ。知ってるならどうして黙ってた。知らないふりして、ほいほい僕に従ってたってか。大した悪党じゃないか。


 いや、違うか。油断していたのは僕だ。すべて僕自身が招いたことだ。


 幽霊なんていうファンタジーじみた存在を受け入れるんじゃなかった。りんごは僕以外の人間には見えないし、指先で触れると卒倒しそうな悪寒を発生させることができる。すでにこれだけの非常識な特徴・能力を持っているりんごが、SF小説に登場するテレパシーみたいに他人の気持ちに同調して意思や考えを読み取る能力があったって不思議じゃない。そもそも幽霊って時点で常識のらち外にいるんだから、気づけば普通の人間のように当たり前に接していた僕の方がどうかしていたんだ。


 はっ。笑えてくる。己の間抜けさ加減に、ほとほと呆れてものも言えない。


 なんだよ、それ。

 そんなの……そんなのって反則じゃないか!


 どす黒い何かが心の奥底から湧き上がってくる。それはまたたく間に僕の心を、脳を、全身を駆け抜けて暗黒に染め上げていく。自分の中にこんなに誰かを汚くののしる言葉や呪ってやる気持ちが隠れていたなんて知らなかった。自分が自分じゃないみたいだった。


 胸の奥でこだまする怨嗟えんさ呪詛じゅそはとどまるところを知らない。



 なぜか。



 それは――りんごの言ってることが全部本当のことだったから。

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