第20話 第一志望と静かな幽霊

 こうして、杉野の提案した卒業制作計画は三条先生を加えいよいよ動き出す。


 平日は学校の授業もあるし、個々人の勉強もある。毎日集まるのは難しいということで、毎週末の土曜日に学校の美術室に集まろうということになった。三条先生は僕らの作業のために休み返上で出勤してくれるらしい。先生のためにもいい作品を仕上げたいと胸が熱くなった。何しろ、中総体も終わったこの時期に活動している三年生は美術部の僕らだけなのである。他の皆は受験に向けて塾へ通ったりしてるし、少なくともこれから部活に精を出そうなんていう三年は僕ら三人くらいのものだ。


 昼休みが間もなく終わることを告げる予鈴が鳴って、そこで作戦会議はお開きになった。

 杉野と上西が美術室を出て行こうとする中、三条先生は僕だけを呼び止めた。


「音羽、ちょっといいか。あ、二人はもう戻ってよろしい」


 先生は扉の方へ歩いていき、二人が美術室を立ち去ったのを確認してから僕の方を向いて言う。


「さっき杉野から聞いたんだが……音羽、君は本気なのか?」


 先生が何の話をしようとしているのかわからない……と、僕はそういうふりをする。本当は何のことを聞かれてるのかわかっていたけど、素知らぬ顔で返事をする。


「何のことでしょうか?」

 

 三条先生はまた美術室前面にある長机のところまで戻ってきて椅子に座り直す。机の上で両手を組み合わせると、やけに真剣な表情で僕を見つめた。


「君の進路のことだ」


「僕の、進路、ですか?」


「そうだ。君の第一志望校は北城高校らしいね」


「はい、その通りです。……何か問題でも?」


「いや……別に問題というわけではない。ただ、あれほど絵に打ち込んでいた君が普通科の高校への進学を希望するなんて……少し意外だと思ってな」


 言い終えて先生は物憂げに天井を見やる。その顔からは何とも言いようのないやるせなさを感じた。


「先生。心配してくれてありがとうございます。でも北城は……僕なりに悩んで出した進路です。絵は高校でも描けますから」


「……君はそう言うが、美術科で専門的に絵を学ぶからこそ見える景色もある。だが、誰にでもチャンスがあるわけじゃない。君にはそんな環境に挑戦するに足る実力もある。それは理解しているか?」


「そのつもりです」


「後悔しないのか?」


「はい」


 先生は組んでいた手をほどいた。そして鷹のように鋭いその目で、じっと僕の瞳を見定めた。目を見ることによって僕の考えをくみ取ろうとしているかのような、そんな目をしていた。


「……それなら、もう俺も何も言わん。自分で決めた進路だ。しっかり頑張れ」


「はい」


 僕が短くつぶやくと、三条先生は少しだけ寂しそうな表情を浮かべて話す。


「市のコンクールに美術部として君の作品を出品した時のことを思い出すよ。君の絵の実力は市の小さなコンクールに収まるものじゃない。もっと全国規模の大きなコンテストに出しても遜色そんしょくない。そう思って俺が油絵の全中コンクールを薦めた時も、君はすぐさま拒否したもんな」


「べつに……ただ目立ちたくないですよ」


 三条先生は何も言わずにじっと僕の目を見つめている。直接言葉で言われてはいないけど、三条先生の鋭い目で見つめられると、まるで心の中を見透かされているみたいで、僕がどう取り繕ってもこの先生にはバレてしまってるんじゃないかと思えた。


 その時、昼休み終了を知らせるベルが黒板の上に設置されたスピーカーから流れ出す。


「先生、すみません。僕、授業があるんで」


「ああ、引きとめて悪かったな」


 次の授業が体育とかじゃなくて助かった。急いで教室へ向かおうと、美術室を出る。その背中に三条先生が声をかけた。


「音羽、あまり無理するなよ」


 はい、と振り向かずに答えて僕は美術室を出た。

 ふぅ……なんか疲れたな。三条先生は優しいけれど、妙に勘が鋭くて、油断ならないところがある。これ以上、僕の進路のことで三条先生にあれこれ聞かれる前にいいタイミングでチャイムがなってくれたおかげで、余計なことを聞かれずに済んで助かった。


 そういえばりんごはどこ行ったんだ……と後ろにあんパン五個分の不快な重みを感じて振り返る。


 りんごが気づかぬうちに、僕の肩に掴まっていた。


 彼女は何も言わない。美術室にいる間も、りんごは一言も口を開かなかった。ただじっと僕の側、足下のあたりで体育座りをしながらじっと僕の目を見ていた。

 何も言わずにただじっと、無機質な表情のまま、虚ろを称えたまなざしを僕に向けていた。

 一言もしゃべらずに、それでもただ黙って僕の傍にいる彼女に、僕は正体不明の薄ら寒さを感じた。



 考えてみれば――僕は未だにりんごのことを全然知らない。


 彼女は自分のことを幽霊と呼ぶけれど、そもそも幽霊という存在自体が常識から逸脱した存在だ。彼女がなぜ青葉病院のゴミ捨て場にいたのか……あれから僕も考えを巡らしたものの一向に手掛かりの片鱗すら掴めずにいる。りんごの記憶は断片的な景色を思い出せるだけで、自分の本当の名前すら思い出せずにいる。


 りんごはおせっかいで僕の事情に首を突っ込みたがるけど、自分の方が大変な状況だってわかってるんだろうか。記憶が曖昧で不確かな状態のままでいいわけがない。

  

 だけど……僕にはどうすることもできない。僕は探偵じゃないし、敏腕刑事でもないから、小説の主人公みたいに僅かな手がかりから彼女の記憶を呼び覚ますような芸当はできない。


 僕にできるのはせいぜい、彼女の話を聞いてあげることくらいだ。りんごはどういうわけか、僕以外の人には姿も見えないし、声も聞こえないらしいから、僕がたった一人の話し相手なのだ。

 だから――なのかわからないけど、りんごは凄くおしゃべりだ。授業中だってお構いなしに、誰それがノートに落書きしてるだの、校庭に猫がいただの、関係ないことをあれこれと、頼んでもないのにずっと話しているのだ。はっきり言って授業妨害もいいところである。だけど……そんな彼女に救われている部分もある。


 部屋で一人で宿題をしていると、りんごがいつの間にか後ろから覗き込んできて、口やかましくおしゃべりを始める。部屋で一人で勉強しているはずなのに、友達と一緒に勉強しているみたいで、つまんない勉強のはずなのに楽しく感じる。まぁ……勉強の効率は落ちてるんだけど。


 りんごの正体は未だ掴めていないけど、いつかきっと彼女の記憶を取り戻してみせる。この時の僕はまだ、そんな風に思っていた。



 

   ◇ ◇ ◇




 その日。家に帰ってからいつものように夕飯を食べてから風呂に入って、部屋に戻ると、りんごが机の上で何かを必死に書いていた。僕が入ってきたことに気が付くと、彼女はくるっと椅子を回してこちらを振り返る。近くにあった座布団に座ると、向かい側に置いた座布団を指さして言った。


『そこ、座ってください。翔くんに話があります』







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