第16話 真っ白なキャンバス

 りんごが背後霊となって以来、僕は彼女に付きまとわれるようになった。りんごは僕が行くところには必ずついてくる。それは一定の距離を空かすことができないから。そして、それはどうやらの僕も同様のようで、


「りんご、そこで何してるのさ? 僕、早く帰りたいんだけど」


 りんごは自動販売機に向けていた視線を僕の方に向けた。そして再び自販機へと視線を戻す。まさしく目は口程にものを語っていた。


「飲むの?」


 りんごがこくりと首肯しゅこうする。

 僕は財布から120円取り出して自販機に入れる。ボタンを押してガチャリと出てきたコーラを、足元のりんごに渡してやる。

 誕生日プレゼントを前にした子どものように満面の笑みを浮かべ、りんごは僕からコーラを受け取ると、栓を開けてぐびぐび豪快に飲み始めた。


『ぷへー! 生き返るぅ~!』


「のど、渇くんだ……お化けのくせに。しかも、おっさんみたいだし……」


『わたしがコーラ飲みたいってよくわかりましたね!』


「自販機の前でじっとコーラ見つめてたら、誰でもわかるって」


 りんごは着物のそでで口元を拭うと、手に持っていた缶コーラを突き出す。


「?」


 思っていた味と違ったのか? しかし、りんごは思ってもないことを口にした。

『はんぶんこです。わたしはもう飲みましたから、あとは翔くんの分です』


「え……ありがとう」


 あの腹ペコお化けが僕に分けてくれるなんて……!



 僕はりんごから中身の半分入った缶を受け取って口をつける。先ほどの全力疾走の影響か、冷たいコーラが喉を伝って体中に染み渡っていくのが心地よい。今まで飲んだどんなジュースよりもおいしく感じられて、僕は缶の残りをそのまま一気に飲み干した。

 りんごは自販機横の空き缶入れにちょこんと寄りかかるように座ると、ぼんやり夜空を見上げながらぽつりとつぶやいた。


『嘘、つきましたよね。杉野くんと上西さんに』


 りんごの言葉に僕は無言で返す。彼女は思わし気に目を閉じて、ゆっくりと、しかし耳にはっきり聞こえる声音で話を続ける。


『わたしは今日一日、あなたの学校での様子を見ていました。察するに彼らは同じ部活の仲間というだけでなく、あなたにとって大事な友達……なんですよね?』


 りんごは目をつむったまま空き缶入れに寄りかかっている。腕組みの姿勢で沈黙し、僕が話すのを待っている、そんな様子だった。


「……それで? 君が言いたいことはわかる。二人には嘘をつくなっていうんだろ?」


 彼女の耳がぴくりと動いて、りんごは片目をうっすら開けて僕を見る。

 彼女は何も言わなかったけど、その瞳に映った自分がひどくちっぽけに思えてきて無性に心がささくれ立つ。


「けど、なにも真っ赤な嘘じゃない。模試の判定は、その……嘘だけど。でも、北城を受けようと思ってるのはホントだよ。進路希望にもそう書いて提出するつもり」


 りんごは小さなため息をついた。半目だけ開いていた目を完全に見開き、切り捨てるように言った。


『……ぜんっっっぜん違います』


 りんごは怒っていた。目尻こそ柔らかだったが、頬を染める朱色は照れや喜びではなく、怒りの感情を表しているのだということが、彼女と向かい合っている僕にははっきりと感じ取れた。いつも笑顔で飄々ひょうひょうと人をからかっている彼女が、こんなに怒りを露わにするのは初めてだった。


『わたしが言いたいのはそんなくっだらないことじゃないです。翔くんの志望校がどこだろうと、そんなのはどうでもいいです!』


「じゃあ、なんで怒ってるんだよ」


『まだわかりませんか? わたし昨日も言いました。どうしてあなたはそうやって自分に嘘をつくんですか!』


 自分に嘘……僕がいつ自分に嘘をついたっていうんだ!?

 父さんと母さんに余計な心配をさせたくない。砂上の楼閣になりつつある平穏をどうにかして維持する。そのための選択と行動、北城高校を第一志望にするのは紛れもない僕の本心だ。


『絵を描くのは趣味の範囲? 人並みの高校生活を送りたい? ……はっ。反吐へどが出ます』


 缶をぎゅっと握りしめる。力を込められた赤い缶は真ん中からぐにゃりとひしゃげた。

 りんごは両袖を振りながら言う。彼女の三つ編みが揺れている。口から出てくる言葉には、彼女の怒りの意志が反映されていて、強い語気に僕はじり、と気圧けおされた。大きな瞳はまっすぐに僕の目に向けられている。りんごは真剣だった。


『隠し通せるとでも思ってるんですか? ムリムリムリ! 翔くんが本気で絵が好きなことくらい、わたしにはバレバレですよ! 馬鹿にしないでくださいっ!』


 僕は彼女から目をそらすことができなかった。

 彼女が真剣につぶやいている言葉から目をそらしちゃいけないような気がした。


『絵のことを話すときの翔くん、わたしはあれが翔くんの本当の姿だと思います。杉野くんが言うように、本当はもっと絵を描きたいんでしょう?』


 りんごは勝手だ。僕の心を見透かしたように、胸の奥にしまっていたものを全部洗いざらいき出しにしてしまう。だからかな……僕は彼女と話していると、つい、本音で話さずにはいられなくなってしまうんだ。


「……そりゃ僕だって、もっとずっと絵を描いていたいよ。時間が過ぎるのも忘れて、ずっとキャンバスに向かっていたいさ。……でも無理なんだ! 色々なことに気づいちゃって、昔のように楽しく絵が描けないんだ」


 りんごは黙って僕の話に耳を傾けている。彼女の沈黙がありがたかった。


「一人で絵を書いているとさ、手が、震えるんだ」



 キャンバスの真っ白な画面が話しかけてくる。



 ――いい気なもんだよな、絵なんて描いて。


 お前がそうしてる間に、家の方はぐっちゃぐちゃになっちまうぜ。


 進路は? 将来は? 本当にそのままでいいのか?


 ぐちゃぐちゃのスクランブルエッグになった後、後悔しても遅いんだ――。



 筆が震える。キャンバスに自分の顔が映し出される。キャンバスの僕は、筆を持つ僕を嘲笑ちょうしょうする。現実逃避してどうする? お前に逃げる場所なんてない。そう言われたように感じる。


 続いて杉野と上西がキャンバスに映る。二人は今とは違う制服を着ていて、後ろ目に僕を見つめている。そしてそのまま何かをつぶやいて立ち去ってしまうのだ。


 二人がいなくなって、聞こえてくるのは母さんがすすり泣く声だ。テーブルの上に突っ伏した母さんは、両手で顔を覆うようにして泣いている。僕はそれを黙って見ていることしかできない。


 現実に引き戻されて眼前のキャンバスを見れば真っ白な画面のまま。

 握っていたはずの筆は、キャンバスの下に落ちている。

 床に落ちた筆はぽっきりと折れてしまっていた。


「筆は折れていた。地面に落ちて折れたんじゃない。きっと、僕が自分でも知らないうちに筆を折ってしまったんだよ」


 空になったコーラを空き缶入れに放る。缶はりんごの横を通り過ぎて、缶入れに吸い込まれた。ゴミ箱の中で空き缶同士がぶつかるカシャランという音が、付近の塀に反響して、やけに大きく耳に聞こえた気がした。

 りんごが奥歯をぐっとみこむようにして叫んだ。


『でも、わたしは白いテープでぐるぐる巻きになった絵筆を見ました! あれは翔くんが、折れた筆を拾って直したんですよね!?』


「それは、まぁ……勿体もったいないと思ったから」


『違いますよ。まだ絵を描きたいと思っているから、だから筆を直したんです! 確かに翔くんは色々なことを背負しょい込んでます。けれど、本心はやっぱり絵を描きたいんですよ!』


「そんなことはない。僕はもう、絵はやめたんだ」


『それならどうして卒業制作の誘いを受けたんですか?』


「あれは、二人に話を合わせたんだ。特に杉野は本気でやりたがっているようだったし、邪魔したくなかったから。大体、まだやるって決まってないし……」


 りんごはそれでも納得しない。つんざくような声で叫び続ける。


『そーいうのは本当の友情って言いません! 適当な気持ちで二人と一緒に卒業制作をするつもりなら、翔くん、あなたは最低ですよ』


「悪かったね、最低なやつで。大体りんご、君には友達がいるのか? いないのなら友情とか、知ったように言うなよ」


 言ってしまって、後悔がちくりと胸を刺す。こんなこと言うつもりじゃなかったのに……。りんごは記憶をなくしてて、僕以外に知り合いらしい知り合いもいない。そんな彼女の身の上を知っているからこそ、触れちゃいけない部分もあるってわかってるのに。ああもう……いつもこうだ。りんごと話していると心のどこからか醜い自分が湧いて出てきて、いつの間にか自分のことがどうしようもなく嫌いになってきて自己嫌悪の渦にさいなまれるのだ。


『わたしは翔くん以外に知っている人はいませんよ。だから友達がいる翔くんには今の友達を大切にしてほしい。その一心でわたしは』


 りんごは僕の自分勝手な後悔や自己嫌悪なんかまるで意に介していないかのようで、少しもたじろぐことがない。本人だって辛いに決まってるんだ……きっと僕なんかの想像が及ばないくらいに。なのに、それを微塵みじんも出すことなく、僕のことを案じてくれる彼女の優しさが、呪いのように僕の胸に痛く突き刺さってくる。


「余計なお世話だよ。前にも言ったけど、君はおせっかいが過ぎる」


『おせっかいで結構です。わたしは背後霊として、憑き主の望まぬ行動を止める義務があります』


 この場でりんごと顔を突き合わせているのが辛くて、走り去りたい衝動に駆られた。このまま彼女のおせっかいに甘えてしまいそうになる自分が嫌だった。

 だけど、りんごは頑としてこの場に居座るつもりだ。彼女の眼光に囚われた僕は、視線を合わせたまま一歩を踏み出すことができずにいた。ここで目をそらせば、それはりんごから逃げたことを意味する。


 くっきり開かれたりんごの瞳には一点の曇りさえなかった。その目に見つめられていると、卑怯に言い繕ってこの場をごまかそうとしていた自分が許せなくて……だけど結局何も踏み出せないまま胡乱げに地面を見つめていた。


『翔くん。何があってもわたしはあなたの味方です。だって背後霊なんだもん。悩み事ならわたしも一緒に背負います。だから……教えてくれませんか。あなたが何に悩んでいるのか、わたしも知りたいんです』


 ぐっと唾を呑み込んだ。喉の奥から雪崩なだれこむ言葉の波をせき止めるので精一杯だった。あらいざらいぶちまけてしまいそうだった。

 だけど、僕は知っている。本音をぶちまけたその後に、地獄のような後悔が待っているって。


 りんごのように素直に感情をさらけ出すことができたならどんなに楽だっただろうか。

 僕も小さい頃は何も知らず無邪気に笑うことのできる子どもだった。あの頃の僕はある意味では無敵だった。何も知らなかったから、恐怖も、それに付随する息苦しさも、何も感じなかった。気づかなかった。


 それがいつの頃からだろう……、いつしか家の中は僕には窮屈で仕方のない場所に変わった。僕は息苦しさから逃れようと、必死に嘘の自分を演じるようになった。偽りの自分はやがて僕の心の中で存在を肥大化させていく。


 僕は音羽翔。でもその中にもう一人、音羽翔がいる。


 本当はありのままにすべてを吐き出してしまいたいけど、思うように行動できない自分。現実に押しつぶされ、打ちひしがれる弱い自分が心の中に確かに存在している。


 もう一人の僕はいつもどこかで泣いている。でも決して他人に涙を見せようとしない。涙は他人の安易な同情を買うからだ。同情や情けなんて、立ちはだかる現実の壁を前には何もできない無用の産物だ。まして余計につらくなるだけ。だからもう一人の僕は誰にも涙を見せずに泣いている。見えない涙はいつしか心の中に偶像を作り出し、偽りから生まれた偶像はやがて、心の中に確かな支配領域を作り出す。


 推理小説の名探偵は常に真実を追い求めている。彼らは謎を解くために、事件の真相をあばくために、証拠を収集し、情報収集に奔走する。真実を探求することが探偵たちの使命であり、それは存在意義とも呼べるものなのだ。


 僕はあの日、知らない方がいいことを知ってしまった。

 偶然に好奇心をき立てられ、僕は知るべきではないことを知ることになった。何も知らない無知な子どものままでいられたら、どんなにか幸せだったことだろう。



 現実の世界は小説の世界とは違う。

 ――世界は、そんなに単純にできていない。



 やがて、りんごは小さくため息をつくと、夜空に浮かぶ星々を眺めながらつぶやいた。


『……わたしは難しいことを考えるのが好きではないので、翔くんが何をそんなに悩んでいるのかわからないです。それでもやっぱりわたしは、翔くんは自分のやりたいようにやるべきだと思う。だって自分の本当に好きなことを見つけられたんだもの。やめちゃうなんて……もったいないですよ』


「りんご、君は何もわかってない。美術科の高校へ行く、なんて世間じゃ普通に見てもらえないんだ」


『普通じゃなくても、進路は人それぞれだと思いますけど。翔くんは何か、普通であることにこだわり過ぎている気がします』


「普通でありたいと願うのは当たり前のことだよ。超能力者や世界を救う英雄に憧れるなんていうのは、何も知らない無知な子どもに許された特権なんだよ。僕はもう……そんなに子どもにはなれない。普通じゃなきゃダメなんだ」


『わたしから見れば、翔くんも十分、夢見がちな子どもと同じですけどね』


 僕と同じ年頃のはずのりんごがつぶやく。思えば、僕は彼女の年齢すら知らない。りんごは記憶を失くしていて……だからこんなふうに自由な物言いができるのだろうか。


「それなら君だって僕と同じさ。ともかく。僕は人と違った進路に進みたくない」


 どうして? と訴えかける彼女の眼差しを見て、僕は続けた。


「父さんも母さんも……その方が安心すると思うから」


『――本当にそう思ってるんですか?』


 りんごはそれ以上何も言わなかった。ただ目だけはじっと僕を見つめていて、まるで僕の言葉を待っているように見えた。けれど、僕は何も答えない。答えられなかった。愚直ぐちょくなまでにまっすぐなりんごの言葉に、僕は返す言葉も見つからなかった。口を開けば本音が溢れてしまいそうで、怖かった。


 本音を言えばりんごの言う通りだ。今でも絵を書きたいという気持ちは残っている。ただ、諸々の感情が邪魔をして筆を持つ手を震わせてしまうのだ。

 臆病な僕は、だから黙ってきびすを返して歩き始める。するとりんごは黙ってついてきてくれた。遅い足取りで一歩ずつ歩いてくる。

 欠けた月が浮かぶ夜道を、僕らはゆっくりゆっくりと歩いて帰る。二人共何も言わなかったが、それでも考えていることは何となくわかる。りんごは結局、僕の本音をさらけだしたいのだ。大したおせっかいだ。一方で僕は、どうあっても自分を出さないようにしている。本音を出せば目の前のあれこれが全て木っ端微塵になってしまうと思うから。


 それが怖くて、僕は己のからに閉じこもる。りんごは必死にその殻を開けようとするけれど、殻は彼女が思うよりもずっと硬い。

 それでもりんごは諦めない。この先僕が何を言おうとも、彼女のおせっかいは止まらず僕の殻を破りに来るのだろう。事実、殻は緩みかけていた。

 あと一つきっかけがあれば、否応なしに僕はずっと胸に秘めていた本音を吐き出してしまうかもしれない。その時何が起こるのか、僕にも、きっとりんごにもわからない。

 だが、今までと同じではいられない――それだけは確かだ。

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