第四幕 あんパン

第13話 夜の学校

 左側が少し欠けた月が空にあがるころ、僕とりんごは学校にやってきた。


 フェンスの外から見る夜の学校は、普段通い慣れている学校とは違って見えた。なんとなくものものしい気配が漂う怪しげな建物に見えた。昼と夜とで建物の表情はここまで変わるのかと驚く。りんごも僕の背中におぶさりながら、期待に満ちた目で夜の校舎を見つめている。


『夜の学校……ミステリアスですねぇ。わたし、こういうの大好きなんですよ』


「杉野たちはもう来ているかもしれない。僕らも行こう」


 校門をよじ登って降り立った瞬間、高揚感こうようかんがむくむくと沸き立ってきた。ゾンビゲームの主人公ってこういう気持ちなんだろうか。もちろん夜の学校に無断で立ち入るなんて御法度ごはっとだ。そんなのはわかってる。けれどやっぱりドキドキする。未知の冒険など待っているはずもないが、やはり心は沸き立ってしまう。


 それはりんごも同じようで『スリルとサスペンス……くうう~! いいですね~!』などと高らかに叫んでいた。


 待ち合わせ場所のプールサイドには、すでに二人が来ていた。二人とも私服姿で、杉野は涼しそうなTシャツに短パンで腰に小さなウエストポーチをつけていた。上西はワンピース姿で荷物のたぐいは持ち合わせていないらしい。二人と比べて、長袖長ズボンの僕は場違いに暑そうな格好だった。


 杉野は僕を見つけると、ぶっきらぼうに言った。


「よう翔。やっぱ来たか」


「それで……集まってどうするのさ。見たところ、画材も何も用意してないじゃないか」


「そういうお前は、画材鞄まで持ってきて準備万端じゃないか。さては……あれだけ不満を言っておいて、実は楽しみにしてただろ?」


「違うよ。僕は一応、念のために持ってきただけだ」


 後ろでりんごがくすくすと笑っている。幽霊は気楽なもんだ。


「でも、音羽くんの言う通りだよ。杉野くん、でっかい絵を描くんだ~って言ってたけど、どこにどうやって描くつもり?」


 杉野は手に持っていた炭酸ジュースの缶を飲み干すと、プールサイドにあがる階段に座って、やをら偉そうに腕組みをする。


「よし。役者が揃ったところで計画の詳細を話そうじゃないか」


 杉野にならって、僕と上西もそのへんのコンクリートブロックに腰かける。上西は僕を見てにこりと笑って肩をすくめて見せた。りんごは僕の周りを楽しげにうろうろと歩き回っている。正直、鬱陶うっとうしい。


「俺はA・Aホールに飾れるようなでっかい絵を作りたい。しかも他の奴らには秘密のまま、俺達だけで完成させてやろうっていう計画を考えてる」


 そこまで聞いたところで、体育座りの上西が待ったをかける。


「それはわかったけどさ、そんな大きいものどうやって作るのよ?」


「杉野、上西の言う通りだよ。お前の気持ちはわからないでも……いや、やっぱりわからない。無理なものは無理だって。大体、ただでさえそんな目立つものを誰にもばれないように作るなんて、いくら夜に作業するといっても難しいと思う」


 耳元でりんごが『そんなに否定しなくっても……』とつぶやいた。

 しかし、杉野がどう言おうとも無理なものは無理だ。ホールにでっかく飾るような大きな絵を誰の目にも触れずに完成させることなんて不可能だ。仮に夜の作業が順調に進んだとして、昼間はどうする? でん! と飾るなら、大きさもそれなりのはず。プールサイドには置いておけないし、これといった隠し場所も思いつかない。

 別に僕はやりたくないと言っているわけではない。杉野が掲げるような壮大な計画は今しかできないことにも思える。やれるものならやってみたい……けど、無理なもんは無理なのだ。


 真っ向から僕らに反論された杉野はふぅ、と息をついた。


「けどさ、俺たちはここにいるだろ」


 ポケットに手を突っ込んで立ち上がり、夜空に浮かぶ星々を見上げながらつぶやく。僕も上西も、りんごも黙って奴の話に耳を傾けていた。


「翔も上西も、どうせ無理って思いながらも今日、ここに来た。それは、無理って思ってても心のどこかでわずかでもできると思ったからじゃないのか?」


 杉野は僕たちの方に向き直ると、ポケットから手をだし僕らの方へと差し出した。


「……へっ悪かったな。俺だって、そんな大それたことは出来ないとわかってる。けど、卒業までにお前らと一緒に何か一つでもやり切りたくってさ。俺の無茶な提案に付き合ってくれるのかどうか、お前らを試してた。すまん」


 言って杉野はぺこりと頭を下げた。

 僕は上西の方に視線を向ける。彼女もにっこり笑って見つめ返す。こうなることがわかってたみたいだ。僕らはこくりとうなづき、差し出された杉野の手を掴んで立ち上がる。


「杉野くんてさ、たまに青臭いこと言うよね」


「同感だよ」


「お前ら……ありがとな」


 三人はふと上を見上げる。夜空にまたたく星たちは、何故だろう不思議といつもよりずっと輝いて見えた。


「やべっ」


不意に杉野がつぶやいたとほぼ同時に校舎の方からばたばたという足音が聞こえてくる。


「誰かいるのか!?」


 暗くて顔はわからないけど……まだ学校に残っていた先生だろう。僕らの話し声が聞こえてきて、何事かと思ったに違いない。今この人に見つかれば厄介なことになる。僕たちは顔を見合わせ、逃げる準備を整える。

 先生は懐中電灯で辺りを照らしながら歩いていた。まだ暗闇に目が慣れていないのかもしれない。この辺りは外灯の光も届かなくて、僕らも先生の顔が見えない。背格好と声から男の先生だってことしかわからない。


「逃げるぞ、急げ!」


 杉野と上西は懐中電灯に照らし出される範囲を注視しつつ、そろりそろりとその場から立ち去る。慌てて走ってしまっては、足音でバレるかもしれないからである。僕も続いて逃げようとするが、りんごを背負うのにもたついて二人と離れてしまった。


(りんご早く!)


『そ、そんなに急かさないでくださいよぉ』


(見つかったらまずいことくらいわかってるでしょ!)


 小声でひそひそ言っているのも束の間、草を踏み分ける音はすぐ後ろにまで迫っていた。

 ライトの明かりが今にも暗闇の僕を照らし出そうとしている!



 ようやく背中におぶさったりんごがすぐそばにあった木を指さす。

 考えている暇もなく僕は木の根元にしゃがみ込んで息を殺す。

 かさりかさりと草の根を踏み分け、足音が近づいてくる。目と鼻の先には懐中電灯から漏れる光明こうみょうが伸びている。


「おかしいなぁ……気のせいか?」


 いまや、呼吸の音が聞こえるほどに懐中電灯を持った先生は僕に接近していた。僕は息を止めたまま、じっとその場で先生が過ぎ去るのを待っていた。全身の毛が逆立つような感じがして、手のひらは汗でびっしょりになっていた。


 このまま見つかったなら、僕はどうなるのか? 担任の堀口から指導されることになるのだろうか? そうなればきっと家に連絡がいく。お宅のお子さんが、夜に学校でいたずらしてたみたいなんですがどうなってるんでしょうか~、とかいう電話が来る。母さんは驚くだろう。そして同時に僕が嘘をついていたことにも気づくだろう。母さんはきっと、嘘をついた理由を問い詰めてくる。その時、僕はまた冷静に嘘をつける自信がない。


 ――どうしてこんなことを……。翔、何か悩みがあるなら母さんに言ってごらんなさい。相談に乗ってあげるから。


 母さんがそう聞けば、僕はきっと言ってしまうかもしれない。


 ――自分だって、嘘つきのくせに。今更、偽善者ぶるのはやめてくれよ。


 そしたらもう全部終わりだ。今までぎこちなくはあってもギリギリのところで保っていた僕と母さんの関係は白日の下にさらされ、待ち受けるは無常の真実のみ。僕の居場所は完全に無くなってしまう。


 だから、今ここで見つかるわけにはいかないのだ。絶対に。


 けれど足音は着実に音を上げて否応なく近づいてくる。


 実際には一分にも満たない出来事だったのだろう。しかし、その時の僕にとっては永遠にさえ思えるほど長い、長い、時間だった。


 カランコロンと何かが転がってきた。

 杉野が持っていた空き缶だった。


 缶が転がってきた方向に目を向けると、校門のところで二人が僕のことを待ってくれていた。空き缶は、先生を僕から遠ざけるために杉野が放ったのだ。

 その狙い通り、缶が転がってきた音で先生の意識が僕かられた。その隙に乗じて、そろりそろりと茂みから抜け出し、校門に向かって駆け出した。やつが作ってくれた脱出のチャンスをみすみす捨てるわけにはいかない。校門までの道を必死で走った。鞄から小物がいくつか落ちた気がするけど、構っている時間はない。


「何してたんだ翔! 見つかるところだっただろ!」


「ごめん、ちょっと手間取っちゃって」


「安心してる場合じゃないよ二人とも! ほら!」


 校門の近くにいた僕たちに気付いた先生がライト片手に駆けてくる。


「くそっ……公園まで走るぞ! 二人とも遅れるなよ!」


 杉野が走る。上西も走る。僕も走る。

 後ろから先生が走って追いかけてくるもんだから、僕ら三人はかつてないほどに走った。見知った通学路を矢のように駆け抜け、公園を目指した。こんなにも本気の全力疾走をしたのは僕の生涯で初めてのことだった。はっきり言って三人ともクラスで足の速い方ではないけれど、この時ばかりは学校の誰よりも速いのではないかと思うほどだった。

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