第12話 視線
玄関の戸を開けると
ただいま、と言うと居間から母さんが顔をのぞかせる。
「おかえり。お風呂湧いてるから入っちゃいなさい」
背中のシャツが汗で
「すいません。ちょっと用事があって、すぐにご飯食べて行かないと」
「用事って?」
心配症の母さんになんと返事をしたらいいものか迷う。夜の学校で秘密裏に卒業制作をする、だのとありのままに話すわけにもいかないし……。
「えっと……ちょっと友達に参考書貸してもらう約束してて、今から行かないと」
考えた末の言い訳がこれだ。我ながら、嘘が下手だとは思う。
だが、幸いにも母さんはそれ以上追及しては来なかった。
「そう。
居間の戸が閉じるのを確認してから、僕は自分の部屋に入って息をつく。
さてと、準備するか。
押入れを開けて、奥の方にしまってあるバッグを取り出す。ジッパーを開けると、乾いた絵の具のにおいが鼻をつく。最近使ってなかったから、筆の先が固まってしまっている。後で手入れしておこう。
ふと、りんごが後ろからじーっと鞄をのぞき込んでいるのに気付く。
「何?」
『なんかたくさん詰まってますね。これ、全部使うんですか?』
りんごは鞄に手を伸ばしその中からおもむろに一つのビンを手に取る。ビンを下からのぞき込むようにしてしげしげと見つめている。
「それは
僕が油壷をパレットに取り付けてみせてやると、りんごはさらに興味ひかれたらしい。あちこち指で触っては、くんくんと匂いを嗅いでいる。その様子がおかしくて、僕は思わずくすりと笑った。
『わたし、絵の具と筆と水だけで描くもんかと思ってましたよ』
「普段絵を描かない人にはなじみが薄いかもね。僕がよく描くのは
『ふうん……わたしも、翔くんが絵を描くの見てみたいです』
胸がこそばゆい。絵を描いている最中、ずっと後ろで見られてるというのは……なんかヤダなぁ。
『やっぱりベレー帽とかかぶるんですよね?』
「そんなのかぶってたら悪目立ちするだろ。僕はやだね」
『残念です。翔くんにはきっと似合うと思うのに』
「余計なお世話」
ジッパーを閉めて鞄を机の上に置いた。
居間で母さんが呼んでいる。夕飯の支度ができたらしい。
テーブルの上には短時間で準備したとは思えない料理が並んでいた。
「ごめんなさい僕だけ早めにしてもらって」
「いいのよ。用事があるんだから早く食べちゃいなさい」
「はい。いただきます」
おかずを口に運びもぐもぐする。毎度のことだが、うちの母さんはお世辞抜きに料理がうまい。下手な外食店よりもおいしいと思う。母さんがどうやってこれほどの料理の技術を身につけたのかは気になったが、直接聞いたことはない。いつか、その
――その日が来ればの話だけれど。
卓を挟んで僕と向かい合うように座っている母さんは、所在無げに両手を遊ばせ、僕の食事をじっと見つめていた。その瞳の奥で何を考えているのだろう。
「ねぇ翔」
母さんのつぶやきに、僕は箸を止めて目をしばたたかせる。
「はい?」
母さんは伏し目がちになって、僕から視線を外す。視線の先にはちょうどりんごが立っていた。りんごの姿が母さんに見えるわけがない。ただの偶然だ、そうとわかっていても思わず胸がどきりとした。
そんな考えを悟られぬよう平常の顔をたもっていると、やがて母さんが首を小さく左右に振った。
「……ごめんなさい。なんでもないの、気にしないで」
気にしないで、などと言われれば人間余計に気になってしまう。
母さんの目の動きはどこか落ち着かない感じがした。つぶやく寸前、母さんの
なんでもないなんて嘘に決まってる。行動の裏には必ず意識が存在する。
――あなた私に、何か隠してない?
テーブルの向こうの母さんは何も言わなかったけど、何となくそう、言われた気がした。
せっかく着替えたばかりなのに、背中のシャツは嫌な汗で湿っていた。
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