第11話 杉野の提案

 僕と上西の冷めた視線を意にも介さず、アホの杉野は話を続ける。


「まず、作るものなんだけど、俺は美術部らしく絵がいいと思う。俺はともかく、二人とも絵うまいし。そんで、こーんな大きいのをさ、A・Aホールにでん! と飾るんだ! インパクトあるだろ!?」


 杉野は両腕を広げ、製作予定の絵の大きさを示す。両腕を広げきったそれは、いつも使っているキャンバスとは比較にならないほどでかかった。

 青葉中学校には昇降口を入ってすぐのところにA・Aホールと呼ばれている広いホールがあり、学年の集会をしたり、卓球部の練習場になっているくらい広いホールだ。そんな場所にキャンバスを飾るとなれば、否が応にも学校の顔とも言えるぐらいに目立つ作品になるだろう。杉野が言ってるくらいでかいキャンバスなら十分に目立つ大きさだろうけど、自然、大きさに比例して作業量は増える。そして、学校のシンボルになりかねない大作を僕らの思いつきで勝手に作っていいわけがない。小学生だってそれくらい理解してると思うが、アホの杉野はやはり、僕らとは常軌を逸した思考回路をしているのだ。

 

 呆然とした表情の上西がつぶやく。


「でっかいのはわかったけど……そんなのどうやって作るのよ?」


「よくぞ聞いてくれた上西! いいか、よく聞けよ。俺のプランはこうだ。作業を始めるのは放課後、それも、先生たちも大方帰宅する夜八時以降。俺達はそれまでに晩飯を食べて学校に集合する。この時間なら、当番の先生一人くらい。場所はそうだな……プールの脇あたりがいいんじゃないか? 今の時期、プールに入ろうという輩もいないだろ」


 上西が眉根まゆねを吊り上げて発言する。


「そういうことじゃなくて! たった三人でそんなに大きな絵を書けるわけないでしょ!」


 すると杉野は楽しそうにくすくすと笑う。もはや僕には杉野一史という人間が理解できなかった。


「それだよ、それ。今お前無理って言ったよな?」


「え……うん」


「どうせ翔も無理だと思ってるんだろ?」


「そりゃそうだろ。大体、絵だけでも難しいのに、それを秘密で作るだなんて無謀にも程があると思うぞ」


「だよな。正直なとこ、俺も難しいと思う。けどな、だからこそ――」


 アホは椅子を蹴飛けっとばすかの勢いで立ち上がると、僕たちをびしいっ! と指差して言う。


「だからこそやってみたい。いや、やる価値があると俺は思う。お前らもそう思わないか?」


 男らしく言い放った杉野を見て、僕と上西は顔を見合わせる。


「別に」


「うん、私も」


 そんな無理難題に挑んでいるほど僕たちは暇ではない。僕も上西も、そして当然杉野のアホも中学三年の受験生なのだ。入試の日はじりじりと音も立てずに近づいている。今日も帰ってからは勉強しなければいけない。娯楽を捨て、勉学に励むのが受験生本来の姿なはずだ。上西がどう思っているかはわからないけれど、僕には杉野が勉強から逃げたくて言っているようにしか思えなかった。


 わざわざやつの現実逃避に付き合う必要もない。大体こいつは絵を舐めてる。一枚の絵を描くっていうのはそんな簡単なことじゃないんだ。

 僕は絵を描くのが好きだ。だからこそ、描くからにはきちんと自分の納得のいくように描きたい。勉強の合間にちょこちょこっと描くなんて……そんなの僕は絶対に御免だった。


 杉野は僕らがそっけなく返事をしたのが気に食わなかったのか、黒板の前まで大股で歩いていって、机をばしんと叩いて横暴に宣言した。


「この際だ。お前らの言い分は知らん。とりあえず今日の夜、学校に集合だから遅れるなよ! それじゃ、今日はこれで解散!」


 杉野はそのまま手をふって美術室を出て行った。なんとも勝手なやつである。

 美術部に残された僕らは顔を見合わせ、


「……だってさ。音羽くん、どうする? 杉野くん本気っぽいけど」


「あいつ昔から人の言うこと聞かないからなー」


「なんだか心配だし、私一応行ってみるよ」


 前から思っていたけど、上西はほんとにいいやつだと思う。杉野の暴走にしっかり付き合ってあげるんだから。そんな人、そうそういるものではない。


「上西一人で行かせるのも悪いし、はぁ……しょうがない。僕も面倒だけど行ってみる」


「ありがと。正直、私だけじゃ不安で」


「杉野のことだ。どうせ今回もノープランの気まぐれ発言に決まってる。きっとすぐに飽きるさ」


「ふふ。そうかもしんないね。じゃ、また!」


「おう」


 上西は鞄を持って美術室を出て行く。

 一人残った僕は、後ろで珍しく静かにしていた幽霊の方を向いてつぶやいた。


「りんごが黙ってるなんてひょうでも降るんじゃないか?」


『しゃべっていた方が良かったですか?』


「いや、助かったよ」


 よいこら肩に手を置き、りんごはにこりと微笑む。


『さて、わたし達も帰りますか。早めにご飯を食べて、学校に集合ですもんね』


「面倒くさいな、もう」


『えー? 三人でヒミツの卒業制作だなんてワクワクするじゃないですか』


「全然。ホントは勉強しないといけないのに、あいつが変なコト言うから」


『でも、昨日翔くん勉強しなかったですよね。わたし、ちゃんと見てたもん』


 うっ……それを言われると何も返せない。


 正直、受験勉強は退屈だ。僕の場合はまだ志望校も決まってないし、やる気も出るはずがないのだ。学校にいても仕方なく惰性だせいで勉強している感はある。そういう意味では杉野の提案は息抜きにはちょうどいいのかもしれないが、しかし……。


「一枚の絵を完成させるのって大変なんだよ? まずモチーフを決めて、それから書こうと思っているイメージに合わせた色の絵の具や、画材を選ばないといけない。りんごが思ってるほど簡単じゃないんだ」


『ふうん。わたしには絵心がありませんからねぇ』


 りんごは山のかげに落ちていく夕日を見つめてそうつぶやいた。


 太陽のオレンジ色は夏の頃と相変わらずで、むせ返るような熱気が過ぎ去る気配はない。けれど気づかないくらいゆっくりと、着々と日の長さは短くなっている。日が短くなることに気づいた時には季節はすでに冬に変わろうとしている。では秋とはなんなのか。夏と冬の間に挟まれたこの微妙なバランスの季節はなんなのだろう。日の長さも暑さも、何もかもが中途半端。まるで今の僕自身のようだ。


 卒業後の進路は決まっていない。自分のことだって、両親には何も言えてない。逃げるように自分の部屋でじっとときが過ぎ去るのを待っている。過ぎ去るわけがないのに。胸の奥で呼吸をする焦燥しょうそうはアスファルトにこびりついた熱のように一時的に消えることがあっても、次の日にはまた火傷やけどするくらい熱くなっている。


 黙っていても、きっといつかそれは白日はくじつのもとにさらされる。それが今日なのか、明日なのか、十年後なのかわからない。けれど「その日」は必ずやってくる。夏に終わりが訪れるように、「その日」は必ず僕の前に訪れるだろう。その時、僕は――。


 ふと、肩につかまっているりんごにちらと目を向ける。

 彼女は今、何を考えているのだろう。


 そういえば……出会った時、りんごは記憶が無いと言っていた。今も記憶が戻ったらしい気配はない。彼女はいつもどおりに僕をからかって笑っている。


 その笑顔を見ていると思う。りんごに不安や焦りはないのだろうか? もしも僕が彼女の立場なら気が気でないかもしれない。自分が誰なのか、それまで何をしていたのか思い出せないというのは、単純に怖い。僕自身、記憶喪失になったことはないから、あくまで想像でしかないけれど、じわりじわりと、まるでナメクジが壁を進むがごとく、胸中きょうちゅうに言い知れない恐怖がにじり寄るようなものではないだろうか。


 だが、りんごはそんな気持ちを感じさせず、いつも楽しそうに振舞っている。


 今もそうだ。机上においてある絵筆を勝手に手に取り、くすくすと笑いながら先っちょの毛で僕の鼻先をくすぐっている。


「りんご……なにしてるの?」


『え? い、いやあちょっと筆で遊んでみたくなりまして』


 常人ならこんな真似はできないだろう。りんごの精神は僕が考えているよりもよっぽどタフなようで、心配するこっちが馬鹿みたいに思えてくる。

 りんごは大丈夫。僕なんかよりもよっぽど強いんだから。彼女のようになれたら……僕も、少しは何か変わるのかな。

 それはそうといい加減に鼻先がくすぐったさに耐え切れなくなってきて、


「もーいい加減にしてよ!」


『あ、怒った。翔くんが怒った! わはは』


 無邪気に笑っているりんごを見て、邪気が取れたように肩の力が抜ける。いや、肩こりがひどいのは変わらないんだけれども。怒る気もどこかへ失せてしまった。


「帰るよ、りんご」


『はい!』


 鞄を手に斜陽の差し込む美術室を後にする。


 りんごは僕の背後霊で否応なしにずっとそばにいる。りんごにりつかれている限り、少なくとも僕は一人ではない。たとえこの世界が偽りでまみれていても、りんごだけは変わらず傍にいてくれる。そんなことを考えて、僕はふっとはにかんだ。

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