第6話 よだれ


 僕は一つ勘違いをしていた。このおしゃべりな幽霊が気を利かせてちょっとの間、静かにしてくれるなんて……そんなことは最初からありえなかったのだ。



『うわぁ~おいしそうですっ!』


 りんごは開口一番そう言った。父さんと母さんにはりんごの声は聞こえていないはずだが、耳元で叫ばれた僕はたまったものではない。あれほど静かにしててって言ったのに……。表情から妙なことを気取られないよう、僕は気が気ではなかった。


 う……肩にりんごのよだれが……。あとで拭いとこう。

 ごはんを口に運ぶたび、りんごのお腹はぎゅるりりゅりぃと音を鳴らし、ぎらぎらと飢えた野獣の目つきで僕のはしにらんでいた。もう勘弁してくれ。


 今晩のおかずは母さん特製の鶏唐だった。昨晩からしっかり味をつけた鶏はさくさくに揚がっていて、口に入れた瞬間、パリっとした衣の感触とともにジューシィな肉汁が舌の上で踊りだす。文句なしに美味しい唐揚げである。


 肩がしっとりれる。またりんごのよだれが落ちたのだ。空腹の彼女が揚げたての鶏唐を前に、指を加えて待っていなければならない状況は察するが、人の肩をべとべとにするのは自重じちょうしてもらいたい。

 しかし、彼女の空腹の叫び(よだれ)は止む気配がなく、肩のべっちょりとした不快感は増していくばかり。実際に濡れているわけではなく、彼女を通じて僕が感じるにすぎないのだが、不快なことには変わりない。早く風呂に入って着替えたい気分だ。

 箸を動かす手が自然と早くなる。気づけば僕は鶏唐を味わうことも忘れて、必死になって白飯をかっこんでいた。

 だが、普段やらないことをすれば、人間無理が来るというもので。


「ぐ……んっ……えほっ、げっ、ぐっ……っはぁ~!」


 喉にご飯が引っかかりそうになって思いっきりむせていると、父さんが心配そうに見つめている。


かける、なんだか顔色もすぐれないようだし……風邪ひいたか?」


 そんな父さんの言葉に、母さんも不安げな顔で続ける。


「やっぱりお父さんもそう思う? 翔、帰ってきた時からこんな感じなのよ」


 りんごが取りいている影響は思いのほか大きいらしい。だが、当のりんごは、心配する両親の視線には無関心で、なおも食卓の鶏唐から目を離さない。僕は若干わざとらしく咳き込みながらつぶやく。顔色が悪いのは、父さんの言うように風邪のせいにしてしまおうというわけだ。


「こほっ。実はちょっと体がだるくって……。残りは部屋で食べてもいいですか?」


「無理しないで残してもいいのよ?」


「ううん。もったいないし、母さんの唐揚げは美味しいから」


「そう……。あとでおかゆ持って行こうか?」


「大丈夫。たぶん寝ていれば治ると思うよ」


 まだ三分の一ほど残っている晩ごはんをお盆に乗せてそっと部屋へと戻る。

 父さんと母さん、二人の眼差しが背中に痛く突き刺さった。




 部屋に戻り、ドアを閉めてようやくホッと息をつく。持ってきた食事を机の上に置いて、ベッドの上に横になる。


『翔くん、あんまり食べてないですけど……お腹の調子でも悪いんですか?』


 心配のタネがよくもいけしゃあしゃあと。文句の一つでも言おうと思ったが、りんごの腹の虫がそんな僕の考えを邪魔する。


「だってよだれが……もういいや。机の上に置いたのは君の分。僕の残りで悪いけど今は我慢してくれる? 足りない分は風呂上がりにでも持ってくるから」


『うわあ~本当ですか? ええ、喜んでいただきますとも!』


 りんごは満面の笑みで颯爽さっそうと椅子に座り、いただきますも言わずに食べ始めた。

 よっぽどお腹が空いていたのだろう。幽霊っぽさを欠片かけらも感じさせない、凄まじい彼女の食いっぷりに驚かされる。りんごって実は変なカッコしただけの食いしん坊少女なんじゃないかと思ってしまう。


 一応、間接キスってやつになるんだろうけど……微塵みじんも色気を感じることはなかった。

 呆れるほどの早さで食事を終えたりんごはなにやら物言いたげな視線を僕に向けてくる。

 彼女が言わんとすることはわかる。心中は察するが、僕は心を鬼にして言った。


「おかわりなら無いってば。あとで持ってくるから待っててよ」


『あんなに美味しいご飯、久しぶりだったのにぃ……』


 りんごははたから見ても残念そうに肩をがっくり落とし、蒟蒻こんにゃくのようにふにゃりとベッドにへたりこんでしまった。


 大食いエセ幽霊はそのまま放置することにして、食器を片付けがてら風呂へ向かうことにした。りんごのよだれがべっちょり垂れてしまった服をとっとと着替えたい。

 実際に濡れているわけではないとはいえ、不快なことには変わりない。

 色々ありすぎて濃い一日だったし、熱いシャワーを頭から浴びたい気分だった。


 リビングでは食事を終えた両親がテレビを見ていた。ささっと食器を片付けようと思ったところ、僕に気づいた母に声をかけられる。


「翔? ずいぶん早いのね。具合は大丈夫なの?」


 う……確かに持ってくるのが早すぎたか。

 調子が悪いから部屋に戻って食べてるってことになってたのに、マズったな……。

 これ以上、母さんたちに怪しまれないようにするためにも、余計なことは言わないでさっさと片付けて退散した方がいいな。


「ちょっと休んだら少し良くなったかも。……これ、流しに置いとくね」


「お薬は飲んだ?」


「いや。もうだいたい治ったと思うので」


「そう……でも、今夜はお腹冷やさないように寝るのよ」


「はい。あ、母さん」


「なあに?」


「今日の料理、すっごく美味しかったよ! いつもありがとう」


 ぺこりと頭を下げる。苦笑いしながら母さんは少し困惑している様子で、苦い笑みを浮かべていた。父さんはテレビ画面から視線を外し、じっと僕らのやりとりを見つめていた。


「なあに急に?」


「別になんでもないよ。あ、お風呂もう湧いてたよね」


 何か言いたげにしていた母さんの視線を振り切って、僕は足早に風呂場へ向かった。

 母さんがぎこちなく微笑ほほえんだ顔が、背中にべったり張り付いているようだった。




   ◇ ◇ ◇




 熱い湯船にかっていると、ふと、堀口の言っていたことを思い出す。


 ――音羽おとわ、いつになったら進路希望出すんだ? クラスで未提出なのお前だけだぞ。このまま提出しないと親御さんに連絡せざるをえんのだが……なるべく早く持って来いよ。


 夏休み前に提出予定だった進路希望表は未だ、鞄の奥にしまったままだ。

 結論は自分の中ですでに出ている。どういう進路を選択すべきなのか、頭ではわかっている。だけど自分の中の小さな何かがそれに抗っている。誰がどう考えても合理的で平和的な進路なはずなのに、進路希望表はずっと空白のまま時間だけがずるずると過ぎている。

 とはいえ、このまま放置しておくわけにもいかないし、堀口がしびれを切らして家に電話をかけてくる前に、なんとか形だけでも提出しないといけないな。学校から余計な連絡が家に入るなんて、それだけはなんとしても避けたい。


 そんなことを考えていた時だ。

 ぽつ、と天井から水滴がひたいに落ちてきて。

 ふと、上を見上げると……


『おほ、やっと気づいた』


 天井に張り付く蜘蛛くもみたいな格好で、りんごがじっと僕を見下ろしていた。

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