第5話 アレ探し


 電信柱の明かりがぽつぽつ灯りはじめた頃になってようやく、家の前まで帰ってきた。

 背中にりんごをおぶっているせいか、なんだかどっと疲れた気分だ。


『ふうん、翔くんの家はマンションなんですね』


 りんごにとってはマンションが珍しいらしく、あちこちをきょろきょろと、せわしなく視線を動かしている。駅からは少し離れていることもあって、騒々しさとは無縁の静かな町。

 僕が住んでいる樫木町かしのきちょうはそんな、絵にかいたような閑静な住宅街だ。戸建て住宅よりもアパートマンションの方が多いから、りんごが特別気にするほど珍しいものでもないと思うのだけど……彼女はエレベーターに乗っただけで子どもみたいにはしゃいでいた。

 僕の家はこの辺りでは別段珍しくもない、十階建ての集合住宅の三階。エレベーターを降りてからまっすぐ歩いて、角を曲がったところにある301号室が音羽おとわ家である。

 



「ただいま」


 靴を脱ぎながら言うと、リビングの方から母さんの声が聞こえた。


「あら翔。お帰りなさい。遅かったじゃないの」


 病院にお使いに行っただけなのに帰りが随分遅くなってしまって、心配していたらしい。母さんは夕飯の準備を中断して、エプロン姿のまま玄関まで駆けてきた。

 僕は薬の入ったビニール袋を鞄から取り出して母に手渡す。


「はい。これ頼まれてた薬」


「あら、ありがとう。……顔色悪いようだけど大丈夫? 具合悪いの?」


「大丈夫だから」


「そう……。あ、翔。お風呂も沸かしてあるからね」


「うん、ありがとう」




 母さんが台所の方へ戻っていくのを見て、僕は自分の部屋に入ってドアを閉めた。

 鞄を机の上に置いて、ベッドの上にどっかと腰を下ろす。


『翔くんのお母さん、美人でしたね~! しかも優しいし! 薬渡してましたけど、どこか悪いんですか? そんな風には見えませんけど』


 不意に話しかけられて少し驚く。背後にりんごがいるというこの状況にはまだ慣れない。見慣れた自分の部屋なのに、どこか少し緊張してしまう。


「心臓がちょっと、ね。……それよりさ、いい加減降りてもらえない?」


『あ、ごめんなさい!』


 りんごは肩に掴まっていた手を離し、机の椅子に背を預けて腰かけた。彼女が体から離れた瞬間、言いようもない高揚感が全身を巡った。憑き物が取れたとはまさにこのことである。気づけば肩が重い感じもすっかりなくなっている。


 家まで帰ってくる間にわかったことだけど、りんごをおぶっていると全身に若干のだるさを感じるのだ。背丈が同じくらいの女の子を背負っている割にはずいぶん軽い。質量的なものがそもそも普通の人間とは違うのかもしれない。りんごを背負った時に感じるだるさは、重いものを持った時の筋肉的な疲労というより、風邪をひいた時みたいなだるさに近い。


 だが、当のりんご本人はそんな僕のだるさなどお構いなしのようで。


『ふわぁ、男の子の部屋ってこんな感じなんだぁ~』


 などと言いながら、部屋主の了解を得ることなく、不躾ぶしつけにも部屋中をあれこれと物色していた。僕の部屋にはこれと言って女子が興味惹くような物はないと思うんだけど、何がそんなに楽しいのやら、りんごは無駄にハイテンションだった。


「別に面白いものなんて無いよ」


『いやいやいや! 翔くんは思春期の男の子ですよ? それなら絶対部屋にアレがあるはずですっ!』


「アレ……って何?」


 するとりんごはぐっと顔を近づけて言う。彼女の息遣いがすぐ傍に感じられて、なぜか無性に緊張した。そんな僕をよそに、りんごは高らかに探し物を宣言した。


『エロ本です!』


 真剣な顔をして何を言うかと思えば、くだらない。


「あるわけないでしょ、そんなの」


『いいえ、絶対あります! わたしが見つけて見せるんだから!』


 りんごは目を皿のようにして本棚やベッドの下、机の引き出しなど、ブツのありそうな場所を探して回る。探したってあるわけ無いのに……。


 でも――りんごの言葉でちょっぴり思う。


 僕の年なら普通はそういうものにも手を出すんだろうか。興味がまるきり無いわけじゃないけど、躍起になる程ではないっていうか。

 僕にはそういった一般的な中学男子の趣味よりも興味を引きつけてやまない物がある。文字通り夢中になれるもの。


『お……これは!』


 う、嘘だろ!? 僕は買った覚えないぞ! まさか……父さんの仕業か!? いくら父さんでも息子の部屋にいかがわしい本を放置したりしないと信じたいけど……!

 りんごはお宝を見つけたかのように目をきらきら輝かせ、押入に入っていた段ボール箱をいくつか引っ張り出してきた。


「あ……それは……」


『この怪しげな気配! そして翔くんの不穏な態度! これらの状況証拠が指し示すところはただ一つ! ええい開け段ボールよ!』


 りんごは勢いよく段ボールを開けた。中から出てきたのは、使い込んでところどころり切れてしまっている、たくさんの古びたノート。


『ふふんやっぱりこんなとこに……ってあれ? 全然えっちくない……?』


 ページをめくっていたりんごの手が止まる。


「それはスケッチブック。僕、絵を描くの好きなんだ」


『……絵? えっちな本じゃなくって?』


「だから違うってば。時間を見つけていろんな所でスケッチしてるんだ。ほら、これは学校の裏山。去年の秋ころ、木の葉の色が変わり始める時期できれいだったな。色も塗ってない鉛筆画でまだまだ下手っぴなんだけど……りんご?」


 りんごはいつの間にやら椅子に座って、不思議そうな瞳で僕を見つめていた。


『……翔くんがそんなに楽しそうに笑うなんて驚きました。期待はずれではありますが、結果オーライという奴ですね』


「結果オーライって、勝手な……まあいいや。それよりさ、この山の絵りんごはどう思う? ほら、この辺りの木々の色付きとか、陽の照り返しとかさ」


 ちょうどその時、りんごのお腹がぐぅ~っと食事を要求する。


「あ、そうかお腹空いてたんだっけ」


『すみません……』


「いや、いいよ。もうすぐご飯だと思うから、その辺でくつろいでて」


 僕が言うと、りんごは机の上にべったりと額を押しつける。よほど、疲れていたのだろうか。何しろ彼女はここしばらくあのゴミ捨て場から移動していなかったはずなのだ。今日僕におぶさりながら、家まで歩いてきたことで知らず知らずの間に疲れていたのかもしれない。


 不意にりんごが顔を向けてつぶやいた。


『そーいえば、翔くんは一人っ子なんですか?』


「……そうだよ。なんで?」


『いえ……わたしと違って立ち振る舞いがしっかりしてたものですから、てっきりお兄さんかと思ってました』


「……りんごもたまにはまともなこと言うんだね」


『失礼な! 人をなんだと思ってるんですか!?』


 そのとき玄関のドアが開く音がした。仕事を終えた父さんが帰ってきたのだろう。部屋の外からは両親の会話が聞こえてくる。


「お帰りなさい。翔も。ごはんできてるからいらっしゃいな」


 ごはんの声でりんごはむくりと机から起き上がって喜び始めた。


『やった~ご飯ですよ翔くん!』


「なんか浮かれてるみたいだけど……、君の食事は僕の後だよ」


『えっ!? わたしはおあずけということですか!?』


 りんごはまさに愕然とショックを受けている様子だ。でも仕方ないことだ。だって彼女が僕と一緒に食事なんてしたら……


 りんごは他の人には姿が見えない自称幽霊だが、壁をすり抜けたり、空を飛んだりといった幽霊っぽい動きはできない。この時点でだいぶ幽霊っぽくないけど、それ以上に幽霊っぽくない特徴がある。それは――普通の人間みたいに物に触れるってこと。


 筆箱から鉛筆を取り出すことだって当たり前にできるし、鞄からこっそり財布を抜き出すことだって朝飯前である。とはいえ、全部が普通の人間と同じわけじゃない。

りんごが手に取った物は本人の意思に関係なく、周囲の人の意識から消えてしまうのだ。


 病院の売店での出来事だ。りんごは棚に残り一本だった栄養ドリンクを物珍しそうに見つめて手に取ったりしていたのだが、りんごの姿が見えないとしたら、彼女が持っているドリンク瓶は空中にぽっかり浮かんでいるように見えるはず。なのに、近くの誰も驚いている様子はなかった。まるで初めから栄養ドリンクなんてなかったかのような顔をしてる人なかりだった。驚いている僕の方がかえって場違いな感じだった。


 帰り道でりんごに聞いてみたけど、本人にもよくわかっていないらしい。

 原理は不明とはいえ、この目で見てしまったのだから納得せざるを得ない。

 りんごが持っているものは、僕以外の周りの人の意識から消えてしまう……と、そう考えるしかないのだ。


 そんな妙な特性を持っているりんごがみんなと一緒に食事をしたら……ちょっと考えてみただけでも面倒事が起きるであろうことは想像に難くない。


「忘れてるようだけどね、りんご。君の姿は僕の両親には見えないんだよ。つまり、君がごはんを食べるってことは、盛りつけられたおかずが一人でに減っていくように見えてしまうってことだ。二人はきっと仰天して失神してしまうよ」


『なるほど、確かに。それではわたしはどうすれば』


「この部屋で待ってて。あとで何か持ってくるから……って言っても無駄か」


『わかってるじゃないですか翔くん。そんな退屈なのヤです。わたしもついていきますからね』


 言ってすぐにりんごは僕の背にかぶさる。両手を首にぐるりと回して、また背後霊スタイルだ。すぐにその影響は現れて、体がずっしり重だるくなる。


「うっ……頼むから静かにしててね。会話にりんごが紛れると混乱するから」


『わっかりました! 善処致しますです』


 はぁ。ひとりでにため息が漏れた。この、肩が重い感じはなんとかならないものか。背後霊とはかくも迷惑な存在である。ともあれ空腹の幽霊を我が家の食事に誘ったのは紛れもない僕であるわけで。僕は不安な気持ちを胸に押しとどめ、りんごを引き連れ食卓に向かうのだった。

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