第7話 トンネル

 ……確認しよう。ここは風呂場で、僕はゆっくり湯船にかっていた。こいつは一体どこから沸いてでてきたのか?

 そこまで考えた段階で僕は反射的に手で体を覆い隠す。エセ幽霊とはいえ、りんごはこれでも女子。なんというか……恥ずかしい。


「君なんでいるの? どっから入ってきたのさ!?」


『え? ふつーに一緒に入ってきましたよ』


 りんごはけらけらと悪戯いたずらっぽく笑いながら説明する。


『もぅびっくりですよ。翔くんったら、わたしの目の前でいきなりぱんつ脱ぎ始めるんですもの。わたし、恥ずかしくって真っ赤になっちゃいました。わたしが言うのもなんですけど……女の子の前で急にハダカになるの、やめた方がいいですよ?』


「いきなり出てきたのは君の方だろ! 人の入浴シーンを勝手にのぞくなよ! この、変態覗へんたいのぞき霊! もー、早く出てってくれよ!」


 するとりんごは風呂椅子に座ってしくしくとすすり泣く。

 白装束に身を包んだりんごがすすり泣く姿は一見、優美な雪女のようだったが、こと風呂場という場所に置いては場違いなこと甚だしい。

 りんごは鼻水をすすりながら、いかにも可哀そうな感じで上目遣いに僕を見て言った。


『ぐすん、ひ、ひどい……あんまりですっ。ぐすん……わたしは翔くんが心配だからついてきただけなのに』


「変態に心配される筋合いはないよ。ほら帰った帰った」


 りんごは顔を上げて僕の方をじっと見つめた。その顔に涙のあとはない。さっきのはどうやら嘘泣きだったらしい。



『――翔くんはいつもああなんですか?』



 不意にりんごがつぶやいた。


 質問の意図がわからない。僕の表情から察してりんごは言葉を付け加える。


『わたしの勘違いならいいんですけど……翔くん、なんだか無理してるように見えたから』


「君の勘違いだよ。もしそう見えたら、十中八九君のせいだ。いい加減出てかないと僕だって――」


『真面目に答えてください』


「……別に無理はしてないさ。けど、君がりついてから、肩こりしたり、若干だるかったりはするかも」


何を考えているのかわからないけど、りんごは口をつぐんだまま、しばらくそのままあわれむような目で僕を見つめていた。やがて口を開こうとしない僕につぶやく。


『背後霊として一言だけ言っておきますけど……道化を演じるのは、あなたには似合いませんよ。それに……そういうのはいつかきっと無理が来ますから』


「……別に僕は普通だよ。君のおかしな妄想に勝手に巻き込まないでほしい」


 りんごは返事をすることもなく、風呂場の戸をそっと開けて出て行った。



 彼女の去り姿になぜか途方もないむなしさを覚え、僕は浴槽に顔を埋めた。熱い湯に顔を浸しても、りんごが残していった虚無感は拭い去れなかった。



 りんごにはああ言ったものの、自分でもどうかしてると思う。

 普通の人にとっては当たり前のことでも、僕には当たり前じゃない。


 僕はどこまでも続くトンネルの中を彷徨っている。


 あの日、僕は長い、長い、先の見えないトンネルに足を踏み入れてしまった。そこは決して足を踏み入れるべきではなかったのに。

 トンネルの中は真っ暗闇だ。一歩先さえ見えないような、暗黒と呼ぶにふさわしい大きな闇が広がっている。どこまで歩けばいいのか、いつになったら出口が見えてくるのかさえ見当もつかない。


 そんな、トンネル。


 あるのかわからぬ出口を探して、僕は一人、暗黒のトンネルをあてもなく彷徨っている。

 そんな暗闇のただ中で、りんごは少し先を照らしてくれる、カンテラのように思えた。不思議なことだが、りんごに対しては正直な自分でいられる。そんな気がした。


 正直でいる、素直な自分を出せるというのは必ずしも良いことではない。

 つい、彼女に辛く当たってしまったり、無性に腹が立つこともある。今日だって、りんごのおかしな妄想に取りあったせいで、ゆっくりリラックスするはずだったのが台無しだ。

 だけど、それだけじゃない。彼女と会話をする中で、僕の中に存在する、今の状況を否定している僕の存在を再確認することができるもまた確かなのだ。



 今の状態を、「しょうがない」と感じて、あきらめ、流されている僕。



 それとは反対に「こんなのおかしい」と、現実にあらがおうとする僕。



 二人の翔はどっちも本来の僕で、だからどちらが間違いだとかいうのはない。

 ――結局、僕はいつまでも中途半端なんだ。

 本当は悩んでいるだけじゃダメなんだ。行動しなけりゃ何も始まらない。


 そんなことは頭でわかってる。わかってるさ! ……けど、やっぱり僕はどうしようもなく意気地なしだ。おかしな現実から逃げて、それでどうにかなる気でいる。

誰かが手を差し伸べてくれる? そんなのありっこない。ありっこない……けど、どこかでそれを期待している僕がいた。あるいは僕はりんごに何かを期待しているのか……?

 バカな……あの妙ちきりんな幽霊もどきに何ができるっていうんだ。あいつにできるのは僕の肩こりを増大させたり、わけわからん悪寒おかんを発生させたりするくらいが関の山だ。


 ぶくぶくと湯の中で考え事をしながら息を吐いていると、だんだん苦しくなってきて、やがて空気が恋しくなってぷはぁと顔を出す。

するとそこにはさっき出て行ったはずのりんごの顔。


「ぶへぁ! 君……さっき出てったはずでしょ? なんで戻ってきたの?」


 りんごはにへらっと笑う。


『いやぁ、わたし、翔くんの背後霊だったの忘れてまして……』


「それが何なのさ? いい加減に出てってくれ!」


『まあまあそう怒らないで。わたしだって別に翔くんの貧相な裸体を見たいわけで戻って来たんじゃありません。ただ……』


「……ただ?」


『要するにわたし、翔くんにくっついていなければならないわけで。翔くんから離れてしまうと、気がつけばこの通り元の場所に戻ってきてしまうのです』


 そんなバカな。いくら背後霊だからってそんな制約があるのか? 


「離れたら戻って来ちゃうって……君が自分の意志で戻ってきたんじゃないの?」


『誓って違います。証明する方法はありませんので、信じてもらうほかないのですが』


「じゃあ離れるってどの程度? 部屋まで行けないにしろ、風呂場の外には行けるでしょ」


 しかしりんごは絶望的なことを口にする。


『試しましたが、無理でした』


「そんなぁ~……。ひょっとしてご飯の時ついてきたのもそのせいだって言うの?」

『いいや、それはわたしの興味本位でついていきました』


 りんごの発言にため息で返す。


 要するにりんごと僕は離れることが出来ないということ。

 恋愛ドラマ的な意味でなく、物理的に離れられないのだ。そもそも幽霊が物理的かどうかは置いとくとして。りんごは彼女自身の意思とは関係なしに、いつも僕の後ろをついてくるということだ。ご飯の時はもちろん、寝るときだって、今のように入浴時だって。しかも、彼女が近くにいることで肩が重い不快な感じが付きまとう。やっぱり背後霊なんてロクなもんじゃない。


「せめて、あっち向いててくれない? そーやってまじまじ見つめられても困るんだけど」


『べ、別にまじまじと見てなんかいませんよ! わたし、翔くんのことはそんなにタイプじゃないですもん』


「あいにく、僕も君のことはタイプじゃない。どちらかと言えば嫌いだ。にしても……これじゃ先が思いやられるな。はぁ……」


『ため息つきたいのはこっちですよ。いたいけな美少女が不埒ふらちな少年にくっついていなければならないなんて……』


 誰がいたいけな美少女だ!?

 しかしもはや文句を言う気も失せてしまって、僕は黙って浴槽に顔をうずめる。

 厄介なことに関わってしまった、とあらためて思う。明日も学校あるし、学校での面倒なあれこれを考えると、今からすでに気持ちが重い。


 ついてくる? と言ったのは僕だが、まさか四六時中付きまとわれる状況になるなんて思いもしなかった。りんごに声をかけた、あの時の自分を呪ってやりたい気分だ。

 当のりんごは何を考えてるのやら、壁面をしたたり落ちる水滴をぼんやりと見つめている。

 彼女はこの状況をどう思っているんだろう。幽霊とはいえ、彼女は僕と年が近い思春期の女の子であることに変わりはない。彼女の口から年齢を聞いたわけではないけど、背格好や口ぶりから、僕とそう離れているように思えないし。


 そう考えると、僕みたいな男子にずっとくっついていなければならないのは、りんごにとっても苦痛なはずだ。そんな彼女のことを考えると、一方的に怒る気にもなれなかった。




   ◇ ◇ ◇




 皿洗いを終えた香織かおりは、テーブルに座ってぼんやりとテレビの画面をながめていた。

 お笑い番組をやっていた。芸人達の繰り出すネタに、どっと歓声がわく。この人達の何がそんなに面白いのだろう。ちっとも理解できない。

 テレビを見ていても内容はさっぱり頭に入らない。香織の頭の中は疑問と不安が入り交じった感情でいっぱいになっていた。

 ソファに座って雑誌を読みふけっている夫、吾郎ごろうの背中を見つめて、香織は一言ぼんやりつぶやいた。


「――いつもありがとうございます、だって」


 胸の内で押しとどめていた感情が、せきを切ったように湧いてきて、思わず両手で顔を覆い隠す。肩を震わせてしゃくり上げる自分を止められない。香織の変容に気づいた吾郎は雑誌を置いて妻の元に駆け寄る。


「香織?」


「あなた……私……」


「少し疲れているんじゃないか? 今日はもう休んだ方がいい」


 香織は廊下へ続く扉の蝶番ちょうつがいの部分をぼんやりと力なく見つめながら、ぽつぽつとつぶやく。五郎の言葉など聞こえてないかのような口ぶりだった。


「あの子……私に、『今日の料理、すっごく美味しかったです! いつもありがとうございます』って言ったのよ」


 何か問題でもあるのかという吾郎の言葉をさえぎって、香織が肩を震わせながら言う。


「おかしいでしょ? あなたにはわからない? 十四歳の、反抗期真っ盛りの中学生が母親に対して『いつもありがとうございます』だなんて言う?」


「それは……あいつにだって色々あるんだろ。もう子どもじゃないんだから。俺たちはそっと見守ってやろうじゃないか」


「わかってる、けど……。私は翔に自然に接してもらいたいのよ。だって……!」


「……香織、少し落ち着け。翔に聞こえるぞ。それに、お前の体にも触る」


「う、ん……ごめんなさい……」


 吾郎は香織の肩にそっと手をかける。彼女の肩はおびえる猫のように震えていた。



「あの子、気づいてるんじゃないかしら。頭の良い子だもの。ねぇあなた……私たまに思うの……」



 吾郎はじっと香織を見つめる。彼女の瞳がひどく虚ろに見えた。



「――私、あの子にどう接して良いかわからない」

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