第3話 空腹と契約

 彼女の視線は僕の方に向いていたが、その瞳に僕は映っていない。どこともない空間に独り言をつぶやいているみたいに見えた。


『よく……わかんないの。気がついたら、このゴミ捨て場で座っていた。名前も、どこで何をしていたのか……どうして死んじゃったのかも覚えてない』


 ぽつり、ぽつりと言葉を途切れさせながらも少女は話を続ける。

 彼女の口からこぼれた死、という言葉がぎゅっと胸を締め付ける。


『ここを通る人を見つけては何度も声をかけてみたんです。けど……誰一人、見向きもしてくれなかった。まるでそこにわたしがいないかのように、淡々とゴミの詰まった袋を投げ捨てて帰っていく。それでわたしは思ったの。わたしは普通の人には見えない、お化けや幽霊みたいな存在になっちゃったんじゃないかって。そう考えれば、誰も返事をしてくれないのも納得できる。だって、わたしの姿も声も、匂いも、気配すら、相手には感じ取ってもらえないのだから、反応しようがないもんね』


「…………」


『ここを通って行く人たちは――考えてみればゴミ捨て場なんだから当たり前なんだけど――わたしを、ゴミでもみるような目つきで見ていた。わたしを見たわけじゃないって頭ではわかってるけど、そう簡単には割り切れないよ。人ってあんなに冷たい目になれるんだって、わたし知らなかったなぁ……』


 彼女の話を聞きながら、僕はずっと口をつぐんだままだった。


 氏も素性も、自分が何者かもわからぬまま、人気のない病院のゴミ捨て場にひとりぼっち。たまに通りがかる人はいても誰も彼女の存在に気づかず、誰一人、彼女の言葉に耳を傾けるものはいない。世界の誰にも知覚されずにゴミ捨て場に取り残される。それはもはや、捨てられたゴミと同等ではないか。

 彼女が孤独に心を痛めていたであろうことは、話を聞いていた僕にも理解できる。だからこそ、軽はずみな同情の言葉をかけちゃいけないと思った。きっと彼女の孤独は僕が想像するよりずっと、ずっと辛いことだろうから。


 少女の視線がすっと僕に向く。久しく人と話していなかったせいか、肩はぷるぷる震えていて、瞳にはうっすらと涙の雫が溜まっていた。僕はそんな彼女を見ていて、なんと声をかけたらいいのかわからなかった。たった一人の女の子を元気づけることさえ出来やしない。

 こういう時、杉野だったら冗談交じりに明るく励ましたりできるんだろうけど……僕はかける言葉が見つからず、彼女の言葉に耳を傾けることしかできない。


『――翔くんが初めてでした。初めてわたしに声をかけてくれたんです。だから、わたし……ごめんなさい変なこと言って。忘れてください。翔くんには関係ないことだもの』


 つぶやく彼女は憐憫れんびんに満ちた横顔で僕を見つめていた。胸が無性にざわめいた。関係ないなんて、そんなの嘘に決まってる。彼女が僕を頼っていることは嫌でもわかった。

 だけど、どうしろっていうんだ。幽霊なんて会ったこともないし、そんな僕が彼女に対して何かできるなんて思い上がりも甚だしい。だからと言ってこのまま彼女をこの場に捨ておくなんて冷酷になれるわけでもなく、どこまでも中途半端な僕はその場に立ち尽くして、彼女から視線を外して、病棟の窓々をなんともなしに、ぼんやりと見つめていた。


 二人とも何も言えずに黙りこんだまま時間だけが過ぎていたところ――不意に、ぎゅるぎゅるぐりゅりぃぃと腹の虫がいなないた。直後、女の子は頬を急列に紅潮させてしどろもどろになって。


『はっ!? ちがっ、これは――』


 突然の出来事に僕は思わず呆けた顔で唖然としてしまう。


「……もしかしておなかすいてるの?」


 僕の問いかけに少女は、朱に染まった顔で小さくつぶやいた。


『ちが……わないです、はい』


 ――幽霊にも空腹があるなんて。そんなの聞いたことない。


「幽霊もお腹って減るんだね……」


『し、しょうがないでしょ!? わたしだって、幽霊になったの初めてでよくわかんないし……翔くんがわたしをバカにする権利はないと思いますっ!』


 いつの間にかふっと笑みがこぼれた。逆切れした自称幽霊の少女は腹にぎゅっと手をあてがって、必死に空きっ腹をごまかそうとしている。しかし、いくら我慢しようと思っても、体は正直だ。再び空腹のラッパが鳴って慌てる少女の姿は滑稽で、可愛らしくもあった。


 彼女はあくまで自分のことを幽霊だと言い張っている。しかし、腹を空かせる幽霊などいるのだろうか? お仏前が消えて無くなったという話は聞いたことがないし……。

 一般的に、幽霊には負のイメージが付き纏う。陰鬱だったり、背筋がぞっとするだとか……そんなイメージである。だが、そんな幽霊のホラーなイメージとは対照的に、腹の虫をごまかす彼女からはひどく人間味あふれた感じを受ける。少女は真っ白な頬を紅潮させてきょろきょろと目を泳がせている。


 僕は物語に出てくるような探偵ではないし、何らかの主人公的異能を持ち合わせているわけでもない、ただの無力な中学生だ。そんな僕に彼女が生前の記憶を取り戻すような手立てはない。けれど……空腹を満たしてあげるくらいなら出来るんじゃないか。


「……ついてくる?」


 僕の言ったことの意味がわからなかったのか、少女は目をぱちくり瞬かせる。

 僕はズボンに付いた汚れを手で払いながらつぶやく。


「あ、あのさ……ここにいても、その……暇なんでしょ? 先のことはとりあえずお腹を一杯にしてから考えてみたら? 売店で売ってるパンくらいなら、僕でも買えるし」


『そ、その……いいのですか? わたしなんかが翔くんについていっても……』


「僕は。別に迷惑でもないし」


 ブロックの上でじっと鎮座する少女にそっと手を伸ばす。


たとえちっぽけなことでも、彼女のために自分ができることがあって嬉しかった。とはいえ、自称幽霊の彼女は未知の存在だ。怖さと好奇心とが混じりあって、きっと変な顔をしていただろうなって思う。


 少女は柔らかに微笑んで、伸ばした手を掴み立ち上がる。その時、また不気味な悪寒が全身を貫いて、僕はあっけなく尻餅をついた。

 痛んだ尻をさすりながら起き上がりざまに言った。


「悪い。それだけは勘弁して」


『触れるだけでこうなるってのもまた難儀なものですねぇ』


「ホントだよ。少なくとも君は普通じゃない」


『えへへ。ま、ひとまずわたしは翔くんと契約した背後霊ってことになりますね』


「契約って……何? 僕は何も結んだ覚えはないぞ!」


『ノリですよ、ノリ。こういうのって大事だと思いません?』


 背後霊なんて……物騒な響きだけど、てへっ、と冗談をつぶやく彼女と話していると、それこそ学校で友達と話しているのと変わらないように思える。


「……そういえば、まだ名前聞いてなかったね」


『だから言ったじゃないですか。自分の名前もどこで何をしていたのかも思い出せないんですよ』


「でもなぁ……呼び名がないっていうのも不便だし……」


『アレクサンドリア伯爵三十二号でどうでしょう?』


「なんか色々おかしいと思う……しかもむちゃくちゃ呼びにくいし」


『じゃあ、翔くんが決めてください』


 僕は横に並び立つ少女を観察する。

 自称幽霊である少女は人混みでは一際目立つような真っ白の衣装を羽織っており、おろした後髪は腰よりも長い。こんなに髪が長い人を見たのは初めてだ。


『あんまり女の子の体をジロジロ見ないでくださいよ。えっち』


 そう言う彼女の頬はぷくーっと丸く膨れて、朱に染まっている。半目で僕を睨み、すぐにでも理不尽な文句が飛び出しそうだ。そんな彼女を見ていた時、ふと思いついた。


「……よし、決めた。君の呼び名は――りんごだ!」


『なにそれ! やぁですよ!』


「それだよ、それ。君ってちょっと丸顔だし、すぐ顔赤くなるし、林檎みたいじゃん。だから、りんご!」


 ――りんご。呼びやすいし、女の子の名前と言えなくもない。我ながらいい名前を思いついたものだ。


『ちょっと! わたしはそんな名前、納得してませんからねっ!』


「いいや、もう決めたから。君の名前はりんごだ! いいじゃない可愛らしくって」


『ぜんっ……ぜん可愛くないです! むしろダサい! どっかの田舎町のPRキャラクターみたいですっ!』


「ちぇ……人がせっかく考えたのに……」


『んもぅ……わたしはやっぱり納得できません! それはそうと、つい聞きそびれちゃってましたけど、翔くんは何しにここへ来たんですか?』


 彼女の言葉ではっとする。想定外すぎるりんごの存在で、すっかり忘れてしまっていた。


「やべ……受付のお姉さん怒ってるかも……」


 受付で母の薬をもらうために待っていたことをすっかり忘れてしまっていた。

 僕はすぐさま地面を蹴って駆け出す。受付のやり直しは、またも大渋滞の中待つことを意味する。それだけは避けなくては。


『ちょ、待ってくださいよ~翔く~ん!』



   ◇ ◇ ◇



 ――思えば、この約束がすべてのはじまりだった。

 蝉の鳴き声も落ち着いてきた晩夏の頃。

 紙ひこうきを追いかけた先で彼女に出会ったのは……偶然だったのか、あるいは必然だったのかわからない。

 彼女と交わした約束。売店でパンを買ってあげるという小さな親切心が自分の人生を変えることになるなんて、この時の僕はまだ知る由もなかった。

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