第2話 悪寒

 この子は今、幽霊と言ったのか? 

 世迷言を……人をからかうのも大概にして欲しい。

 幽霊なんていうのは、所詮、人が生み出した想像の産物に過ぎない。僕は年末の特番でやってるようなUFOとか黒魔術とか、そういった下らないオカルティズムには興味ないし、その手の話はどちらかというと苦手だ。神妙な顔をして何を言い出すかと思えば……。くだらない戯言に付きあうんじゃなかった。


『あ、その顔、信じてない?』


「だって……ねえ。目の前の人が幽霊だって言われて、いきなり信じる人の方がどうかしてると思うよ」


『まあ、確かにあなたの言う通りかも。失礼ですが、お名前は?』


音羽翔おとわかける。近くの青葉中学に通ってる」


『なるほど、翔ね。それでは翔くん、今からわたしが幽霊、少なくとも生身の人間ではないことを証明してみせましょう』


 自信満々に言ってのける彼女の顔は怪訝な顔の僕とは対照的に、不思議と嬉しそうだった。


「証明ってどうやって?」


 少女は僕の問いには答えずに、手近にあった空き缶やらが入ったゴミ袋を手に取り、おもむろにブロックの上から立ち上がるとにっこり微笑んで言った。。


『これを持って、わたしに思い切りぶつけてみてください』


「ば、バカなこと言わないでよ、そんなことできるわけないでしょ!」


『なんで?』


「なんでって……あのね、どこの世界に見知らぬ女の子にゴミ袋を投げつける奴がいるのさ!?」


『あ、そうか』


「……君、どうかしてるよ。一度医者に見てもらった方がいい。ちょうど、この病院は脳ドッグもやってるみたいだし。それじゃ、僕はこれで」


 そろそろ受付に呼ばれる時間だろう。いつまでも変な子の与太話に付き合ってやる義理はない。さっさと待合室に戻ろうと思ったところ――。


『あ、ちょっと待ってってば!』


 歩き出す僕を引き留めようと女の子が僕の肩に手をかける。その瞬間。


「――ッ!?」


 思わず悲鳴をあげそうになった。

 彼女が僕の右肩に触れた瞬間、今まで知覚したことのない、身の毛もよだつ悪寒が全身を貫いた。雪や氷の冷たさとはモノが違う。それは、決して触れてはいけない禁忌に触れてしまったような――悪寒の一言で片付けてしまうにはあまりに得体の知れない冷たさだった。理屈ではない、本能が何かに怯え、何かを拒絶している。いつしか背中は汗でじっとりしており、制服のシャツが肌に張り付いて気持ちが悪い。


『どうしたんですか、青い顔して』


「いや……」


 少女は無垢な瞳で僕をじっと見つめている。澄んだ瞳からは、敵愾心てきがいしんだとか、憎悪心だとか、そういった感情は受け取れない。だとしたらこの不気味な悪寒の正体は、一体……?


 すると、僕の様子を見ていた女の子が突然、はっとした顔でつぶやいた。


『あ! もしかして、ブルっときた?』


「な――君、わかってやったの!?」


『以前、ゴミ捨てにやって来たおばさんの肩に触れてしまったことがあったの。その時、おばさんの顔はぞっと青ざめて、頓狂な悲鳴を上げて走り去ってっちゃいました。あなたの顔がその時のおばさんの豹変具合にそっくりだったから、もしやと思ったんだけど……もしかすると、わたしにはそんな力があるのかも。幽霊だもんね!』


 触れると悪寒に襲われるなんて、幽霊というやつはなんと迷惑なのだろう。いや、まだ幽霊って認めたわけじゃないけど。


『そんなことより、さ、早くこの袋をわたしに向かって投げてみてくださいよ』


「だからヤダってば! なんで僕がそんなことしなきゃいけないんだよ!」


『だってこうでもしなきゃ翔くんはわたしの言うこと信じないでしょ。わたしなら大丈夫。幽霊なんだもん、袋はわたしをすり抜けて後ろのゴミ箱に入るだけよ』


 女の子はやたら自信満々な顔つきでそう言ってのける。この場からテコでも動かない様子で、睨むように僕を見つめている。彼女の言う証明とやらに付き合うほかなさそうだ。


「……わかったよ。この袋を君にぶつければいいんだね?」


『そうです』


「思ったより痛くって泣いても知らないからね」


『ふふん、余裕余裕! やるなら本気で! 殺すつもりで投げてみてください!』


 空き缶の入ったゴミ袋を投げつけたくらいで人はそう簡単に死にはしない――と、心の中でつぶやきながら、僕は両手でゴミ袋をがっしと掴み、投球フォームに入る。とはいえ本気で投げるわけじゃない。いくら思い切り投げてくれと言われても、僕にはそんな真似はできない。ちょっと離れたゴミ箱にちり紙を投げるくらいの気持ちでゴミ袋を放った。

 ジュースの空き缶やペットボトル等様々なごみの詰まった袋がいよいよ少女の顔面に到達しようという時、思わず自分の目を疑った。ぶつかるはずのゴミ袋は、どういうわけか彼女を文字通りすり抜けて、ぼすっと音を立てて集積所のストレージに吸い込まれていく。少女はその場から一歩たりとも動いてはいなかった。つまり、僕の投げたゴミ袋を彼女が咄嗟に避けたのではなく――。


「な……すり抜け、た……?」


 ぽかんと口を開け放つ僕に、女の子は上から目線で誇らしげにつぶやく。


『これで信じてもらえますよね? わたしが幽霊だってコト』


 僕はまぶたをこすりながら、整理のつかない頭でつぶやく。


「……ちょっと疲れてるのかもしれない」


『だぁもう! 翔くんの強情っ張り! 石頭! オタンコナスっ!』


 女の子は両腕を振り回し、僕に対する罵詈雑言を吐きまくる。それにしてもオタンコナスとは……古風なワードである。


「君が幽霊だってことには納得できないけど、その……かなり変わった、特殊な人なんだなってことはわかった」


『なによそれ!? 翔くん、あなたわたしのことバカにしてますね?』


「若干、してる」


『……なるほど、あなたがそういう気なら、わたしにも考えがあります』


 何をする気だろう。女の子は自分の足元を見下ろしたまま動かずにその場に突っ立っている。……かと思っていた矢先、電光石火のごとく右手を僕の首筋へと伸ばした。

 彼女の指先が首筋に触れた瞬間――


「わっ、わああっ!」


 思わず声を上げてしまうほどの強烈な悪寒が全身を貫いて、腰が抜けてしまい、情けなくその場に尻餅をつく。彼女は僕の真っ青な顔を指さしてけらけらと楽しそうに笑っている。立ち上がろうとするも、思うように足に力が入らない。


 僕は蛇が大嫌いだ。あの、にょろにょろした形や舌をぺろぺろ出す仕草を見ただけで、鳥肌が立つ。彼女に触れられた時の感覚は、蛇を見た時の恐怖や焦りを百万倍したようなものである。いや、それでも足りないかもしれない。僕には到底表現し得ないような、不気味で理解不能、正体不明の悪寒だった。


 しかし、彼女にとっては単なる悪戯の一種のようなものらしく、にんまりと小悪魔じみた笑みを浮かべて、再び僕にその手を伸ばそうとしている。


「わかったから! 幽霊だって認めるから! 頼むからそれやめてくれ!」


『ふふん、わかればよし』


 僕の必死の嘆願に、少女は手を引っ込める。悪寒が多少和らいだ。心臓の動悸も治まってきたが、膝はまだがくがくと震えている。悪寒の余韻は全身のあちこちに残っていて、体中が絶えず震えてしまう。

 少女は僕の様子がよほど可笑しかったのか、笑いを堪えるのに必死な様子だ。


『にしても翔くんの顔ときたら! そんなにブルっとするんですか? ともあれ、これでわたしが幽霊だって信じてもらえましたね』


 それから少しすると、膝の震えはいつしか止まっていた。僕は尻餅をついた格好のまま、眼前の少女を見やる。


 背の位は僕と殆ど変わらない。着物は真っ白な和服。袖がちょっとブカっとしている印象を受ける。三つ編みに編まれた黒髪は嘘みたいに長くて、肌は着ている衣服同様、真冬の新雪のような薄白さだ。草履は新品のようにも見えるし、長年使い古したもののようにも見える。陽光を反射する瞳はキラキラと輝いていて、見ている自分までもが吸い込まれそうなほどに深い。


 何が言いたいかといえば……、目の前に立つ少女の容姿はホラー映画なんかで出てくる幽霊のイメージとは全然違って、それこそ生きている人間と変わらないように思えるのだ。足だって、ちゃんとある。


 ――幽霊。


 ホラー映画では定番中の定番の登場キャラクターで、真夏の風物詩にもなっている。

 よく絵本なんかに出てくるものは頭には三角巾を巻き白い着物で足がないというものが多い。さらに壁をすり抜けたり、人を呪ったり金縛りにするような幽霊もいる。

 まあ……全部、創作物のうそっぱちなんだけどさ。現実に身の回りで、幽霊に出会っただとか、幽霊に取り憑かれているだとか、そういった話は聞いたことがない。所詮は創作物の中の存在で、自分には関わりのない縁遠いものだと思っていた。


 ――今日、彼女に出会うまでは。


 彼女は自分のことを幽霊だと言った。

 僕の視線に気づいた女の子が真っ赤な林檎りんごのごとく頬をぷっくりさせてつぶやく。


『そっ、そんなに人の体じーっと見ないでくれます?』


「人を変態みたいに言わないでよね。あのさ……一つ聞いてもいい?」


『はい? 何でしょうか?』


 僕には彼女に聞いておきたい疑問があった。

 彼女の正体が幽霊かどうかに関係なく、ずっと気になっていたこと。


「君が本物の幽霊かどうかはこの際置いておくとして、ここで何をしていたのさ?」


 そう。仮に彼女が幽霊だとして、こんな病院の片隅で何をしていたのか。誰かを待っているようには見えなかったし……。ここで自殺した怨霊? まさか、そんな。


 しかし、返ってきたのは僕の予想を遥かに上回る答えだった。


『――知りません』


「……え?」


『わからないんです。わたし、自分がどうしてこの場所に座っていたのかわからないんです。それどころか、わたしは自分の名前さえも、どこで何をしていたのかさえ思い出せないんです』


「思い出せないって……記憶喪失ってこと?」


 その問いかけに、彼女は伏し目がちな表情で小さく首肯する。

 白い着物の女の子は近場に合ったブロックに腰を下ろすと、頭上の青い空へと視線を向けた。膝の上で両手をぎゅっと組んで、虚空を見つめている。僕の目に映る彼女の瞳がひどく哀しげだった。

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