第一幕 ゴミ捨て場のボーイ・ミーツ・ガール

第1話 ゴミ捨て場のボーイミーツガール

 校舎に鐘の音が響き渡る。号令係の声で帰りのホームルームを終え、生徒たちは皆、それぞれの放課後を過ごすために席を立つ。

 机の中の荷物を鞄に入れながら、ふと目に入ったのは、担任の堀口先生から渡された進路希望表だ。今度の三者面談の希望日程と志望校を書くようになっていて、クラスで未提出なのは僕だけらしく、堀口から早く提出するよう急かされていた。


「翔、何してんだ? 早く部活行こうぜ。上西はもう行ってるぞ」


 声をかけてきたのは級友の杉野だ。

はみ出た制服のワイシャツは、そもそもズボンの中に入れるという考えすら感じられない。杉野とは同じ小学校でしかも同じ部活という奇妙な縁がある。


「悪い。今日はちょっと用事あって、部活休む」


「用事? お前なんか呼び出しくらうようなことしたっけ?」


「すぐ呼び出されるお前と一緒にすんなよ。母さんから使い頼まれててさ」


「ふぅん。ま、いいや。明日はミーティングあるから、ちゃんと来いよな」


 杉野はそう言うと鞄を肩にかけて、駆け足で教室を出て行った。さて、僕も行かないと。




 つくつくぼーし。つくつくぼーし。

 蝉の声がどこからか聞こえてくる。

 夏はまだ終わっていない。




 ――僕はその日、不思議な女の子に出会った。中学三年生の最後の夏、忘れることのできない物語の幕が開く。もしも彼女に出会わなければ、幕は閉じたままだっただろう。ずっと……ずっと先まで。




   ◇ ◇ ◇




 用事。母の使いで僕は病院に薬をもらいに来ていた。

 この辺りでは数少ない総合病院なので、院内は連日大混雑している。今日も例に漏れず、受付のあるロビーはバーゲンセールさながらの様相を呈していた。平日のこの時間はいつもそうで、診察というよりかは僕のように薬をもらいに来る人がほとんどで、そのために薬局はとりわけ混雑していた。受付はすでに済ませたが、この分だと二十分くらいかかるかもしれない。患者さんで混雑したロビーにいるのもただ退屈なだけだ。そこで暇を持て余すため、僕は薬を受け取るまでの間、院内を散歩することにした。


 ここ、青葉病院は地元では結構大きな病院で入院患者も多くいる。病棟は大きく二つに分かれていて、僕がいる東病棟は主に外来担当の病棟だ。連絡橋で繋がっている西病棟は入院患者の病室がもっぱらで、手術部なども西病棟にある。僕は母の使いで薬をもらいに来ることが多いのだが、西病棟へ行ったことは数回しかない。なんとなく近寄り難い雰囲気があって、あまり行く気が起きないのだ。


 僕は廊下の窓枠から顔を出して、窓から見える景色をぼんやり見つめていた。

 院の外には一本の桜の木が植えてある。春になると桜の花が満開に咲いてとても見応えがあるのだが、残念ながら季節はすでに晩夏の候。桜らしさは欠片も残っていない。

 遠くの方からサイレンの音が聞こえてくる。救急車が来たのだろうか?

 ふと、鞄から紙のこすれる音がする。堀口に渡された進路希望表だ。



 進路、か――。



 中学三年生の僕らは否応なしに自分の進路を考えさせられる。多くは高校へ進学する。それが現代の日本という国では当たり前なのだ。もちろん家業を継ぐために高校へは行かなかったり、将来を見越して専門学校へ進学する人もいる。だけど、そういう人は圧倒的少数だ。

 ほとんどは高校へ進学する。そのために夏休みは塾へ通って夏期講習を受け、先生と相談しながら志望校を決めて、年明けの入学試験へ向けて必死になって勉強する。それが「普通」で当たり前の進路だ。


 だから――たまに思う。

 学校の進路希望調査に何の意味があるのだろう――と。


 進路と言っても、結局は第三志望までの高校を書くだけだ。果たしてそれは本当の意味で自分の進路と言えるのだろうか?

 希望する高校へ入学して、それでどうなる? 高校へ進学してそれで終わり? そうじゃない。入学してからだって僕の人生は続いていく。

 やりたいことがないわけじゃない。こんな僕でもやりたいことはある。けれど、それは人とは違う道で、「普通」じゃない。「普通」じゃない道を歩くことを両親が許してくれるだろうか……僕にはそうは思えなかった。いや、少し違う。許すとか許されないとかそういう問題じゃなく、僕は「普通」でありたいんだ。

 これからもたぶん――ずっと。


 そうして胸に苦いものを抱きながらぼんやり外を眺めていたときだ。

 



「あ――」




 目に飛び込んできたのは、窓の外を浮遊する白い物体。

 僕の目の前を横切ったそれは一機の白い紙ひこうきだった。

 風に乗ったひこうきはゆらゆらと揺らめきながら、やがて地面に落ちていく。

 誰かがいたずらで飛ばしたのだろうか。

 待合室はまだまだ混雑していて、僕が呼ばれるのは当分先だ。


 自動ドアが開いた瞬間、むせかえるような熱気が押し寄せる。夕暮れ時だというのに、気温はまだまだ夏の置き土産の影響が色濃く残っている。

 窓の下はごみ集積所。紙ひこうきはおそらくそこへ落ちていっただろう。

 なんのためにわざわざ紙ひこうきを探すのか自分でも疑問ではあるけど、まあ受付に呼ばれるまでの暇つぶしにはなるかもしれない。


 果たして紙ひこうきは予想通り、ごみ集積所に落ちていた。このあたりは日当たりが悪いせいか、いつもじめじめとして陰気くさい。職員の人がいたずら防止にと様々工夫をこらしているものの、カラス達には無駄だったようで、あちらこちらに袋からこぼれたごみが散らばっていた。


 僕は地に落ちている紙ひこうきを拾い上げる。

 何の変哲もない白紙で折られた紙ひこうきだ。手に持ってみると、つんとした理科室に似た臭いが鼻を突く。しかしそれ以外に特に不審な点は見あたらない、至って普通の紙ひこうきである。きっとこの病院の誰かが退屈しのぎに窓から飛ばしたのかもしれない。こうしてきちんとごみ集積所に落下したことを考えると、案外狙って飛ばしたのかもしれないな。


 さて、暇つぶしもこの辺にしてさっさとロビーに戻ろう。そう思って顔を上げた時。目に映ったのは紙ひこうきなんかよりもずっとおかしなものだった。



 集積所のコンクリートブロックの上に、白い着物姿の女の子が座っていたのだ。



 女の子はどこか憂いを帯びた顔で空の彼方をじいっと見つめている。どうやら僕には気づいていないようだ。

 いつの間にいたのだろう……。上から下まで真っ白な着物に身を包んだ女の子の格好はゴミ捨て場にはあまりに不釣り合いだ。まるで昔話に登場する雪女のような彼女の身なりは、人混みの中にいてもおそらく一目でそれとわかるものだった。


 僕は彼女がいたことに気づかなかった?

 そんなわけはない。少なくとも僕が紙ひこうきを探してここにやってきた時には彼女はいなかった……はずだ。

 ふと思う。この女の子はこんな、病院の片隅のゴミ捨て場で何をしているのだろう? 誰かを待っている? いや、それはないだろう。普通、待ち合わせの場所にこんな所を選びはしない。だとすれば彼女は一体――。


 その時、一筋の風が吹き抜ける。薫風は女の子の黒く長い三つ編みを穏やかに揺らし、僕の手中にある紙ひこうきの翼をはためかせた。


 かさ、という紙のこすれる音がして女の子の視線が空から僕へと移る。しかし、彼女は目をぱちくりさせただけで、すぐにまた視線をどこか遠い空へと移す。その動作がどことなく不自然で、遠い目をした彼女を見ていると、自分でも意識しないうちに話しかけていた。


「あのう……そこで何してるんですか?」


 その声で女の子は初めて僕の存在に気づいた様子で、驚きはっとした表情で言った。


『――も!』


 何だろう……うまく聞き取れなかった。

 僕の渋面を見つめ、女の子はしどろもどろに言う。


『も、もも、もももしかしてわたしのことが見えるんですか!?』


 わたしのことが見えるんですか――って何を今更そんな当たり前のことを聞くんだろう。変な人だな……。


「み、見える……けど、それがどうかした?」


 すると女の子は見る見るうちに頬を紅潮させ、胸の前で小さく拳を握ってガッツポーズをとる。やっぱり変な人みたいだ。


『ついに……ついにわたしにも春が来たのですね!』


「……今、もう夏の終わりなんだけど」


 どうやらかなりひどいレベルの変人らしい。僕は今更ながら話しかけたことに後悔していた。


『そんなことはどうでもいいです! それよりあなた! わたしが見えるだけではなく、これ声も聞こえちゃったりしてますか?』


「あのさ、君さっきから何言ってるの? 僕には君が見えるし、声だって聞こえる。けどそれって当たり前だろ。何、まさか幽霊だとでも言うつもり?」


 僕の発言の何かが彼女の心のセンサーに引っ掛かったらしい。長い髪に隠れた小耳をわずかにぴくりと動かすと、彼女は尊大な態度で平らな胸をそらせ、やたら偉そうにつぶやいた。


『ふふん……察しが良くて助かりますね。きっと信じられないと思うけど……こう見えてもわたし、幽霊なのです。正確には幽霊っぽい何か……とでも言いましょうか』

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