第8話 下の口は見せられないよ、新妻くん

 部室のある四階から階段を降りるところで廊下を振り返ってみたが、千波先輩が追いかけてきてはいなかった。さすがに情報が入ったからといって考えなしに飛び出すような人間ならこの学校で偏差値五十以上を維持はできないだろう。


 そんなに話しこんだつもりはなかったけど、自分の教室に戻っていると廊下から西日が強く差し込んでくる。茜色に染まる空をこうして見上げるのはなんだか久しぶりのような気がする。


 中学まではこの時間は日が暮れるまで塾か自分の部屋で自習するしかなかった。生徒会に入ってからはどうやって逃げるかばかりを考えていて、夕日なんて気にしていられなかった。もしかすると、僕はこの高校に進学していながら、生徒会に入って勉強というものから少しだけ距離をとってしまっているのかもしれない。


「なんだよ、悪かったって言ってるじゃん」


「どうせ俺のこと勉強しても無駄だって思ってんだろ」


 せっかく感傷的な気分で窓の外を眺めていたのに、似つかわしくない荒れた声に邪魔をされた。声の方を見ると、廊下で男女が言い合いをしている。後ろ姿で顔は見えないが、あの不自然にウェーブのかかった髪の女の子はたぶん中山さんだ。


「どいつもこいつも俺をバカにしやがって。球技会だって? もう俺には先がないから諦めろって言ってんのか!」


「暇そうな顔してたから声かけただけだって。別にアンタの成績なんて興味ないし」


 中山さんは呆れたように自分の髪をかきあげる。まったく会話が噛み合っていないどころか、中山さんが一方的に煽り倒しているようにしか聞こえないんだけど、本人はその自覚がまったくないみたいだ。


「ふざけんな!」


 男の拳が大きな動きで振り上げられる。さすがの中山さんも驚いたのか、後ろから見ても体が強張るのがわかった。振り下ろされたがむしゃらな拳が頬を捉えて、口の中に鉄の味がいっぱいに広がる。


「ちょ、新妻!?」


 背後から中山さんの驚く声が聞こえた。

 想像していたよりも痛みはなかった。とっさに割り込んだ僕は顔で思い切りパンチを受けることになったけど、無様に倒れなかったことだけは自分を褒めてやりたい。頬をさするとまだ残っている熱が手のひらに返ってくる。


「女の子に手を上げるなんて、間違ってると思わない?」


 少しずつ痛みを自覚し始める口で、ぼそりと言った。殴った男は急に出てきた僕に驚いたままで、まだ状況が理解できないでいるようだった。


「お前、誰だよ。って、生徒会か!?」


 僕の首にかかったチョーカーに気付いて顔色が変わる。そのまま中山さんに謝ることもなく背を向けて逃げていった。


「大丈夫?」


「アタシより新妻の方でしょ。ちょっと血出てるし」


 言われて唇に触れると、指先に鮮やかな赤色の線が引かれる。口の中はもっとひどい状態なんだけど、中山さんには言わない方がよさそうだ。


「元はと言えば僕が球技会の参加者を探してもらったせいだから」


「そういう問題じゃねえし。あー、もう。保健室行くよ!」


「僕は大丈夫だから。球技会の方は僕がやっておくから、中山さんは帰りなよ」


 持っていた参加希望者募集の用紙には何人かの名前がある。これだけあれば、テニスとかバドミントンくらいならできそうだ。この学校でこれだけ人が集められるってことは、勉強はともかく人と仲良くなるのがうまいんだろう。僕にはそれが少し羨ましかった。


「あ、ちょっと待って」


 中山さんは僕からまた用紙を奪い取ると意外ときれいな字で、中山美由という自分の名前と友達二人、そして僕の名前を書き足した。


「参加するのは面倒かなー、って思ってたけど、やっぱやる。そのかわり、新妻も参加な」


「え、僕も球技会に出るの?」


「当たり前じゃん。生徒会副会長なんだから。絶対だかんね」


 会長からの命令がなければ普通に授業を受けようと思っていたのに。まさか中山さんに捕まってしまうなんて。でも怖い思いをさせてしまった以上、断りづらい。


「わかったよ。まだ開催されるとは決まってないけどね」


「っし。じゃあ早く決めてよね。そんだけいればバスケとかフットサルがいいんじゃん?」


 そういえばいつの間にか人数は十人になっている。さっき中山さんが一気に四人も足したおかげだ。いよいよやっぱりやらないなんて言えない状況になってしまっている。まだ心配する中山さんに別れを告げて、僕は集まった生徒の名前を見ながら、生徒会室へと向かった。


 すっかり下校時間ギリギリまで働くのが普通の学校生活になってしまった。生徒会館に向かうために校庭を歩いていると、まだ春先の少し冷たい風が頬を撫でた。肺に入った空気を吐き出すと、傷ついた唇が強く痛んだ。


 生徒会室では姫路会長が参加者の取りまとめを始めていた。なんとか十人集まった一年生とは違い、上級生の参加者はもう少し多いようだ。


「あ、新妻くん。なんとか開催はできそう?」


「えぇ、僕を含めて十人いますから。競技の選択肢は多くできそうですよ」


 僕が答えると、会長は顔を上げて手を止める。そのまま固まったように動かなくなって、僕の顔を探るようにじっと見つめている。


「あなた、本物の新妻くん?」


「そうですけど、何かおかしなところでもありますか?」


「まさか自分から球技会に出るって言うなんて思わなかったから」


 またわけのわからないことを言って僕をからかうのかと思ったら、会長は意外そうな顔で僕の顔と受け取った参加者の名簿を交互に見比べている。名前を書いたのは中山さんだから、僕の書く文字とはまったく違うけど、確かに僕の名前がそこにある。


「どうやって説得しようかと思って、作戦を考えていたのに」


「まぁ、参加者を集めているときにいろいろとありまして」


「わかったわ。この参加者には競技で何をやりたいかアンケートをとっておいてね。それから着替えてコーヒーを入れてちょうだい」


 もはやそれが当然、というように会長は生徒会室のハンガー掛けにかかっているメイド服を指差した。それを着てさらにコーヒーの給仕となると本当にメイドみたいだ。


「新妻くんも好きなもの飲んでいいから」


 服を手に会議室に向かおうとする背中に声をかけられた。口の中がこうじゃなければ嬉しい言葉だったんだけどな。


 着替えをすませ、生徒会室に戻ってくる。コーヒーを入れるならキッチンの方がいいかと思ったけど、なぜかこの生徒会室の一画にはティーセットや茶葉が入った戸棚がある。中のコーヒーメーカーは使われていないのか少しほこりをかぶっていた。


 近くには給湯用の狭いシンクがあり、その脇には年季の入った電気ポットが置かれている。


 その中からインスタントコーヒーのビンを取り出し、二つのカップに入れる。豪華な戸棚に入っている割には中の茶葉はどこにでも売っていそうなよく聞くメーカーのものだし、コーヒーもインスタントしかない。会長はそれほど飲み物にこだわりはないらしい。


 入れたコーヒーを会長の机に置き、僕は自分の分を持って応接用のテーブルに向かった。生徒会室なのに、ここには僕の机がない。生徒会はただの特権階級で、しかも会長以外の役員はただおこぼれにあずかっているだけとわかった今なら納得だけど。


「何これ、苦いっ!?」


 自分のカップに手をつけたところで、姫路会長には珍しい大きな声が生徒会室中に響いた。立ち上がった会長は目に涙を浮かべながら恨めしそうに僕を睨んでいる。


「どうしました?」


「これ、砂糖が入ってない!」


「あぁ、すみません。僕はブラックでしか飲まないので、つい」


「なんで!? 新妻くんは甘ーいカフェオレとか飲んでそうなのに」


 いつものクールな会長はどこへ行ったのか、と疑問に思うくらいに子どもみたいにわめいている。そんなに苦かったのかな。


 そういえば戸棚に角砂糖の入った容器があったはずだ。僕が来るまで会長一人だったんだから砂糖があれば入れるのは当然か。戸棚に向かって小走りで角砂糖の容器を持っていく。


「いくつ入れます?」


「三個」


「結構な甘党ですね」


 言われた通り、角砂糖を三個入れてスプーンで混ぜる。会長は少し口をつけて納得したみたいで、顔を逸らしたまま、左手を払って僕を下がらせた。


 また応接テーブルの前に座ってコーヒーをすすると、やっぱりというか唇と頬の内側がしみてくる。飲めないわけじゃないけど、痛いことには違いない。口の中に絆創膏を貼るわけにもいかないし、早く治ってくれるといいんだけど。


「ねぇ、新妻くん。ちょっと口を開けてくれない?」


 そんなことを思いながら、少しずつコーヒーを飲み進めていた僕の前に、いつの間にかいつもの調子に戻った会長が救急箱を持って立っていた。口の中に気をとられていたとはいえ、いつ近づいたのかわからないほど静かだった。


「えっと、なんですか?」


「いいから。黙って言うこと聞きなさい」


 姫路会長の指が、僕の口の中に強引に突っ込まれる。引き抜かれた指には赤い血が薄くついている。


「やっぱりケガしてる。一応消毒するから口を開けて」


 顎を引っ張られてたまらず口を開ける。コットンに染みこんだ消毒液の香りが喉を通って鼻に入ってくる。


「新妻くんが何も言わないなら、理由は聞かない。でも自分を大事にしないといけないわ。新妻くんは口が一つしかないんだから」


 赤く染まったコットンの玉を片付けながら、会長は少しだけ表情を硬くした。いつものよくわからない冗談もついてくる。救急箱を持って立ち上がった会長は僕の様子を窺うようにちらちらとこちらを見ている。


「二つも口がある人間がいるなら見てみたいですよ」


「見たい、って。そんなこと急に言われても。心の準備がいるから」


 会長はなぜか恥ずかしそうに制服のスカートを押さえる。表情がほとんど変わらない会長だけど最近は少しずつ表情の変化がわかるようになってきた。わかってきたんだけど、なんで今の会話から恥ずかしいという感情が出てくるのかはやっぱりわからない。


「会長の謎は多いなぁ」


「新妻くんってよくわからないわ」


 今何か僕と同じようなことを会長が言っていたような気がするけど、たぶん気のせいだ。飲み切ったコーヒーカップを持って会長のテーブルに向かう。色移りしないようにきれいに洗っておかないとね。

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