帝国暦 741年 初頭 一家の会談

 「一体何があったのだ」


 会館の前でくたばっている巨大な異形と、計上不能なほどに積み上がった走狗の骸を前にして呆然と呟く父に向かい、アウルスも同じことを言いたかった。


 実の所、全容を掴み損ねているという一点において、この親子の立場はそう変わらないのだから。


 とりあえず倒れた母を寝かせるため、会館でもマシな状態の部屋を選び、折りたたみの寝台を展開して親族会議が始まった。


 アウルスからの説明は単純明快で、もう頑張って踏みとどまったとしか言えぬ。その間に今までの縁故によって色んな人が助けに来てくれて、辛うじて四肢欠損でおさまったのが現状。


 正に色々あったが何とかなった、いや、何とかした、なのだ。


 そして、説明されても色々突っ込むのが面倒になったからか、ガイウスとプリムスは、もうアウルスの言うことを全部鵜呑みで受け取ることにした。


 たった二夜で起こったにしてはコトが複雑過ぎて、細かい点にまで一々突っ込んでいては陽が暮れる。子細の確認が時という止めどない出血の使い道に相応しいかと考えると、断じて否だ。


 政治劇とは迂遠かつゆったりとしたように見えるが、実際は戦場よりも忙しく動かねばならない即興劇。根回しの早さと印象の強さが全てを決する。


 今、帝都を守り切った以上、爾後を上首尾に踊り始めたいなら、誰より先に舞台の真ん中に立たねばならぬ。


 「……揃って生き延びたのは喜ばしいことだが、これからどうするかだな」


 「まぁ、色々ありました、でも頑張りました、よかったねとはなりますまいな」


 アウルスが貼り付けているのが薄い笑みの仮面だとしたら、ガイウスが被ったそれは冷厳たる渋い顔であったが、頭の早い官僚は惨状を見て仮面を崩し、こめかみと腹に手をやった。


 どうにもならない状況ではないが、死ぬほど頑張った上で、胃の腑に穴を一つ二つ拵える覚悟で挑めば何とかなる、却って生殺しめいた状況を察して慢性化している胃痛が悪化したのだろう。


 これがいっそ、一族揃って属州に逃げるか、毒を酒杯に垂らすことが不可避の状況であったならば諦めもついたろうに。上手く踊りきれば、奇貨となり莫大な利益を上げられる状況というのも考え物だ。


 精神的な安寧がコストであるのは数字だけ見ればお安いが、生きている個人という観点においては何よりも費用対効果が悪い。


 「……アウルス、ここは私が預かる。そなた、オルジャタの砦まで行け」


 「オルジャタ? 帝都外縁の要塞群ではないですか。まさか」


 アウルスが驚いたのは、何も大怪我人にも拘わらずさっさと働けと言われたことではない。上げられた名が、帝都の外縁を護る要塞群の一つの中でも、恐ろしく帝都に近いことだった。


 馬でたったの数刻の場所に築かれた要塞は、氾濫から逃げるにしては近すぎる。少なくとも家財を担いだ大名行列でも、もっと遠くに行けるし、安全のため逃げたがる者達が斯様な半端な場所では安心できまい。


 むしろ、鎮圧後の疫病などに脅え、東の港から文字通り尻に帆を立てて逃げた議員も少なくないはずだ。


 「ヴェッキアやストリ帝都から数日の要塞でもなく、オルジャタ? よもや……」


 「陛下と主だった元老院議員、そして第Ⅰ軍団の第Ⅰ大隊、及び親衛隊が駐屯している。我々が帝都に居残ることを決めた前、議場で陛下がそう断言なさった」


 父親の渋面が更に渋くなることを分かって尚、アウルスは口笛を吹いて感嘆を表現した。


 よもや逃げ腰で銃後のぬるま湯になれきった議員を抑え込み、帝国皇帝が危害地域のギリギリに踏みとどまっていようとは。帝都奪還のために大部隊を遠ざけたくなかったにしても、何たる豪腕であろう。


 これ以上を望めない、超叩き上げ人材の面目躍如といったところか。


 「まだ、市中の者達は大半がおっかなびっくり状況を探っておる。そなたが陛下に詳細にして、確たる朗報を第一に運べ。それが強力に身を守ろうぞ」


 「勲功第一の報告を息子に譲ってやろうとは。お優しいですな、父上」


 「……誰がそんな面倒くさいことをしたがる。こんな時くらい、もそっと率直に者を言わんか貴様」


 では、遠慮なくと断った後、アウルスは臆面もなく吐きそうな顔をした。


 「あ、アウルス!? どうした!? 誉れ高いことではないか!? なんだその腐った葡萄酒でも飲んだような面は!!」


 驚く兄に、他の誰にも見せないような醜態を晒しながら親子は愚痴る。どうやら、この人が良い長子は父親から実直さと誠実さだけを受け継いで、実体は面倒事から逃げるために勤勉さを発揮するという怠惰な本性を遺伝しなかったらしい。


 「クソですよ、クソ……何で元老院みたいな魑魅魍魎の前に面だして、長調子の演説打たなきゃなんねぇんですか……味方も増えるけど、ぜってぇー敵も増える……やだー……」


 「そなたが行かずしてどうする」


 「父上行ってくださいよぉ……こんな無様な有様で人前に出たくねぇー……」


 「そんな面倒臭いことを父親にやらせるな」


 「うわ、この人遂に息子の前だからって、言葉を繕わなくなったよ……」


 とはいえ、事態の掌握という点においては最善手かと、アウルスは諦めて残った左手で頭を掻いた。二日前から粉塵と煤塗れの上、碌に洗えていないせいで酷く痒いのだ。


 「まぁ、そりゃいいとして、父上と兄上……なぜ帝都にお残りに? 私はさっさと家財を纏めて逃げろと進言したはずですが」


 酷い有様の息子からの問いかけに、胃が痛みっぱなしの父親は、魘されている自分の妻を顎でしゃくるように示す。


 「アレが我が儘を言ったのだ。私が元老院から戻り、第Ⅳ大隊を掌握した後、どうしてもアウルスを助けに行けと言って聞かなんだ」


 「また母上らしい無茶を」


 「まぁ、間に合わぬと言って宥めても癇癪を起こしたのでな。ならば、せめて其方の事業を護ってやればよかろうと矛先を逸らした」


 「あぁー……」


 ご覧の通り、氾濫の詳細な情報を武器にし、逃げを打てと言ったアウルスの進言は母親の我が儘によって妨げられた。


 しかし、そこは賢く現実が見えているガイウス。長年連れ添った妻の手綱の握り方は心得ているようで、アルトリウス氏族の私兵が集まる頃には、街路に走狗の小集団が彷徨くような有様だったが最適解を打ってくれた。


 護るに難いカエサル家の私邸を捨てて、帝国安閑社を護ったのだ。


 鍛え抜かれた第Ⅳ大隊の戦力、そして逃げ散ってきた軍団兵を吸収して指揮下におけるコーニュコピア総督の強権を用いて〝都市区画ごと要塞化し〟氾濫を凌ぎきったという。


 アウルスは簡単には倒れぬと粘り強く説得した末の妥協案が、彼の事業の中枢を守り、同時に走狗の勢いが弱まれば何時でも助けに行ける場所で耐えることだった。


 「この様を見るに、其方がここで食いしばっていなければ、帝都北方は完全に失陥していたであろうな」


 「現場を見ずとも、それでさえ〝楽観的〟でさえある状況だと、父上でも想像もついたでしょう。幾ら母上の癇癪とはいえ、そんな博打に乗りましたね」


 「……言わせるな」


 父の苦い顔を見て、兄弟は顔を見合わせてから笑った。


 そういえば、家の両親は、この時代には珍しく恋愛結婚だったなと思い出して。


 世界征服を目論む組織の副官でもやっているのが似合いの能吏が抱える、家族なればこそ知る弱点の一つだ。


 妻の懇願をある程度叶え、かなり危険だが現実性の高い方向で粘る。


 帝都の火災が小規模に留まったのは、偏にガイウスと彼が隷下に取り込んだ帝国兵、そして召集に応じた退役兵の尽力のおかげだ。


 会館から南に溢れた走狗を更に堰き止め、勢いが弱まれば討って出て徘徊している走狗を討ち取り、失火や付け火によって燃えた建物を崩すなりして類焼を防ぐ。


 結果的に母メッサリーナの我が儘は、帝国安閑社のみならず、帝都を大きく助けたのだ。母親の愛も存外馬鹿にしたものではないなと、アウルスは腹を抱えて大笑した。


 「はっ、はは、はは、父上も恋女房のお願いには勝てませなんだか!!」


 「笑うな! 何度死ぬかと思うたか! この私でさえ直に剣を取って走狗と斬り結ぶ有様だったのだぞ!!」


 「ふっ、くふ、そ、そうだぞ、アウルス、笑っては……ははは、悪い。私でさえ、くっふ、ポンプを押し、火消しを……あーはははは!!」


 「プリムス!!」


 次男は何の躊躇いもなく笑ったが、長兄は控えめに……しようとして失敗した。どうやら、常日頃父の側で引き継ぎを兼ねて家業の手伝いをしている彼のツボにはまってしまったようだ。


 父親達の努力は結果論的に効果大であったし、喜ばしい事態なので、アウルスは自分も大事に想ってくれていたのですねと更に弄るのはやめておいた。


 何より、功績を独り占めしないで済むのがいい。


 勇猛なのは探索者だけで、肝心のところで帝国軍はまるで役に立ちませんでしたなどと民草の間で囁かれ、アウルスに人気が一極手中しては事態が更に収拾困難となっただろう。アルトリウス氏族全体の利益ともなれば、小五月蠅い親戚衆や御宗家様の溜飲も下がるはずだ。


 そして、アルトリウス氏族と仲良くすれば勝ち馬に乗れますよと囁けば、大量の日和見主義者共が丁度良い壁になってくれる。帝都危急の大事件の時に、帝都から逃げ出したと後ろ指を指されたくない人間は、きっと庇に入れて欲しくてすり寄ってこよう。


 個々の力には限りが有れど、組み合わさると強力になる。人の行為が思わぬところでシナジーを作るとは、また面白い物だとアウルスは笑う。


 たった三人で世界が救える道理もなし。この調子で助けてくれて、助ける甲斐のある人々を増やしていけば、遠大で気が遠いにも程がある事業も何とかなるのではと思う社長であった。


 「ともあれ、父上の考えは承知いたしました。輜重に馬車が見えたので、お借りしても? まぁ、これが、ほら、この様なもので」


 馬には乗れないと空席になった右腕を指す末子を見て、帝国の能吏はコイツに当事者意識という物はないのだろうかと呆れた。


 普通、年頃の男児が利き手と目を失えば、もう出世街道からは外れるかもと悲観するだろうに。


 帝国は市民皆兵。軍役に応えられなくなった時点で、市民としての格が一枚も二枚も落ちてしまい、社会的な出世が難しくなるのは周知である。生まれた時から市民権を持っている者なら生きて行く道は幾らでもあるが、花道を上るのは難しい。


 痛がるでも嘆くでもなく、笑うとあっては、もう豪胆だと褒めてやる他ない。


 「……脅えているであろう元老院共の尻を蹴り飛ばしてこい」


 「ええ、帝都まで届く勢いで吹っ飛ばしてやりますよ」


 アウルスの冗談に父の渋面が微かに緩み、プリムスも微笑んだ。


 「腰が重い連中には似合いだな。思いっきり恨みを込めてやれ」


 帝国安閑社の関係者として、アウルスからの陳情が無碍にされたことに対して、彼等なりに思うこともあったのだろう。


 しかし、大声で笑いすぎたからか。小さな呻き声を上げて、メッサリーナが目を覚ましてしまった。


 一房、束ねたのが解れていた髪を掻き上げながら体を擡げた彼女は、室内を見回し、アウルスを見つけると顔色を悪くする。


 ああ、やはりあの光景は悪夢ではなかったのだと実感し、また精神に大きな打撃を受けたようだ。


 「アウルス、ああ、アウルス、可哀想に……痛かったでしょう、怖かったでしょう……」


 「母様、まだ横になっていなければ」


 寝台の脇に駆けつけて屈んだ息子の顔を、母親の震える手が撫でる。傷口に障らぬようにと左の頬を撫でる指には、ただ精神を反映した反射以上の感情が込められていると誰でも分かっただろう。


 「ごめんなさいね……だめな母様で……こんな、こんな……」


 「泣かないでください、母上。むしろ、この様は私が必死に帝都を、皆を護った勲章なのですよ。せめて、誇らしいと褒めてください」


 「でも、貴方には危険なことをして欲しくなかったわ……こんなことなら、こんなことなら、早い内に僧院に入れてしまった方が……」


 話が大分危うい方向に向かいかけているので、アウルスは伏せられた母の顔を顎に手をやって上げさせた。


 悲嘆から激怒に変わって、守り切れなかった者達を処罰しろなどと発狂されては大いに困る。特に専属の護衛官たるカリスあたりに矛先が向いたら、予定が大幅に狂うので困るどころではない。


 彼は良くも悪くも家族を愛しながらも、下準備の期間に学んだ人心掌握や心理学の講座において、身内のことを詳細に分析していた。


 だからこそ、ここで止めておかないと拙いことになるという想像は、決して的外れでもなんでもない。


 事実として、メッサリーナは一度アウルスの前で半狂乱に陥っている。化粧品の見本として綺麗に飾った奴隷の一人を披露しただけなのに、愛妾を紹介しようとしていると勘違いして、半狂乱に陥って衛兵に斬り捨てさせようとしたのだから。


 この程度の些事でも激怒して殺人を命じようとした彼女が怒らぬと考えるなら、それは楽観が行き過ぎて愚かというものだ。


 「全ての戦場で髪の一房すら失わなかったと伝わる、初代アルトリウス公のようには行きませんでしたが、母様が帰る場所を守れたことが私はとても誇らしいのです。ですから、どうか褒めてください。そして、私に付き従った配下にも御寛大なるお褒めの言葉でも……」


 「ああ、そうだわ、アルトリウス公、あのお方も絶断山脈を越えた北の夷狄から帝国をお守りになって、神格化を許されたのよ。アウルスだって神格化を……」


 「いや、ちょっ、母上!?」


 多分こうなるだろうなー、なんて考えて話術を組み立てておいたアウルスなれど、発想が斜め上の方向にいかれると反応に困る。


 帝国の神群は、帝国において偉大な功績を残した個人の神格化を認めている。魂が実際にどのように差配されているかは不明だが、これは帝国と似ている古代ローマでも同じく行われていた。


 時にただの親馬鹿が夭折した子供を悼んで行ったり、非業の死を遂げた恋人を想ってするローマのそれとは違い、帝国での神格化は皇帝や議会からの提案を僧会が詮議して認定される。


 ただ、基本的に〝故人〟に贈られる称号であって、生前での神格化など全く笑えぬ。あの帝国を打ち立てた尊厳者でさえ、生きている間は帝国を愛する一個人であると周囲からの勧めを頑なに拒み、遺書にも神格なんぞしてくれるなよと書き残している。


 まぁ、結局は遺された者達の熱望もあって、尊厳者の遺志は半ば聞き流された結果、神格化されて神殿も立派なのが建っているのはさておくとして、僧会に太い太いパイプを持っている母親が言い出すと洒落にならない。


 やれるかやれないかで言えば、ギリギリ出来そうなのが何とも性質が悪いのだ。


 「そうよ、そうだわ、それがいい、いいえ、むしろ相応しいわ」


 「落ち着かんかメッサリーナ! 斯様な横紙破りをすれば元老院が……」


 「今、大神様が、800年ぶりにおわしているので、面会さえ適えば!!」


 「は?」


 あまりに間抜けた声を上げるアウルスを見て、父と弟は「しまった」という顔をする。


 彼等はメッサリーナまで連れて会館に来た理由の説明を、彼の惨状と予期される政治的案件の厄介さに上書きされたせいで伝え損なっていたのだ。


 帝都の大抵の人間は、あの天を突く蒼い蒼い、清浄なる光を吉事の前触れだとは悟っていたが、母がもう大丈夫だから息子の安否を確認しに行きたいと強弁し、夫に呑ませたのには、氾濫が明確に終わったという裏付けがあったからだ。


 それは、強大な神格の顕現。神職であり、高位の僧であったメッサリーナには、指向性のない託宣が撒き散らされたことを察知していた。


 即ち、大神ユーピティウスあるいはディーアナー、亜大陸の暦が帝国歴に移って以降始めて主神が〝化身〟をこの世に遣わされたという福音である…………。


【補記】

 夭折した娘や死んだ恋人を神格化した皇帝。前者はネロ、後者はハドリアヌス。ローマでは割とよくあること。しかし、その度に神殿を建てる予算を都合したり国中に設置する石像を作ったりの予算を集める官吏達が可哀想なことこの上ない。

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