帝国歴741年 初頭 闘争と勝利の女神
悪い奴ほどよく眠る、とは前世の映画のタイトルか何かだっただろうか。
理力の扱いを覚えて、自分の肉体へと簡単な式を傾けることができるようになって以降、アウルスはどれだけ忙しい日でも
理力を肉体全体に回し、まだ自分がやらねばならない仕事が多い段階であるので、我流なれど地球由来の医学知識を用いて効率的な休息を取れるようにしたのだ。
「……夢なんぞ久方ぶりだな」
そのせいもあって、帝国歴739年の夏以降、殆ど夢という物を彼は見なかった。
神経生理学において夢は記憶の整理を脳が行っている状態とされ、無意識下における整頓活動が自我にも認識できる、眠りが浅い状態での副産物。
いわゆる脳が行う代謝によって浮かんでくる〝垢〟のようなものだと認識しているアウルスは、自分を実験体にして以降、健忘症などの致命的な副作用を特段認識しなかったので夢を見ない良質な眠りだけを摂取していた。
効果は4時間睡眠で疲労を感じないようになったことから明白なので、今日に至るまで彼は延々と理力による眠りを用いてきた。
まぁ、それでさえ隈が癖になるような有様なので、本当はもっと眠った方が精神にも体にもよかったのだろうが。
「怪我したせいで緩んだかな?」
これは明晰夢であると、引きちぎったはずの右手、潰れた右の視界が残っていることから確信にいたる。
何より、ここはあの懐かしき下準備の空間だ。友人達と激論をぶつけ合わせ、青写真を山と用意し、時にシミュレーターの結果に打ち拉がれて卓に顔を叩き付けて自棄酒に浸った愛おしきリビング。
四人がけの机、簡素ながら必要十分の機能を詰め込んだシステムキッチン、静かな駆動音を立てる冷蔵庫や、各々の拘りに従って用意された飲み物の数々。
また随分都合の良い夢を見たもんだと思いつつ、Aは机上に置かれたスチールの灰皿を指で弾く。
ちぃんと甲高い音を立てるかつての愛用品の側には、ご丁寧にも愛飲の銘柄の煙草が置いてあった。
「こりゃ起きた時、もの悲しくて泣いちゃうかもな。夢で手に入っても、有り難みってもんがねぇ」
言っても手は胡桃材の煙草入れに伸びてゆき、中から全体が茶色い巻紙に包まれた、微かに甘いバニラ香が燻る煙草を摘まんでしまう。常の癖で煙草を指に挟み、フィルター側を煙草入れへ数度叩き付ける。巻紙の中で偏った煙草葉を均等にする仕草は、さていつ頃に身についた物であったろうか。
「っと、火、火……」
咥えたあとで、Aは火種を持っていないことに気が付いた。机上には愛用のジッポもないし、ポケットを探ってもマッチ一本見当たらない。
おいおい、ここに来て片手落ちも良いとこだろうと自分の夢に文句を付け始めた途端、つぅっと横から現れた手が、小洒落た銀色のライターを弾いて火が灯る。
「ああ、こりゃご丁寧にどうも……」
反射的に煙草を寄せて、着火するため軽く吸ってから気付く。
いや、誰だと。
「おぁぁぁ!?」
「慌てる必要はありませんよ。火傷したいのですか?」
火が移った煙草が落ちかけたのを、慌てて拾おうとしている醜態を眺めていたのは一人の女性だ。
背は前世の姿をしているAより明らかに高く、体高に見合った豊かな肉付きの体を白い装束で飾った麗しい女性。顔はつんと高い鼻が秀でて、顎が細く、切れ長の目も相まって些か酷薄な印象を受けるが、名を知ればむしろ似合いの雰囲気であろう。
「だっ、誰だ、人の夢へ勝手に……!?」
「夢は古来より神が人に詔を告げる大事なツールですよ。それを地球の人間も、テルースの人間も忘れかかっていますけどね」
悠然とした足取りで彼女はAの対面の椅子に近づき、手を触れることもなく引かせると静かに腰を下ろした。曙光を思わせる、膝丈にまで伸びた金髪は、それでも不思議と尻に敷かれることはなく背もたれの向こうへと流れていった。
「まぁ、私の神格は夢の領域にはないのですが、寝ているなら都合が良いと権能を借りました。状況的に、私が一番降りやすいというのもありましたけども」
「か、神様……?」
「ええ。といっても、貴方達に世界救済の事業を任せた大神ではなく、世界の内側に存在しているに過ぎない矮小な神格ですけどね」
軽い自嘲の笑いを作った後、彼女は名乗った。
「身共の名はウィクトーリア。同時にサモテリィアニケーであり、ヴィカ・ヴァグナでもある、世界の内側の神格。あと幾つか、まだ生きている名前がありますが、長ったらしいのでいいでしょう」
世界の内側の神格が如何なるものか、三次元空間に生きている普通の人間には理解が難しい。一個の個我のようでありながら、それは外界の有り様によって多様に変質し、同時に司る形而上学的権能によっても区分されるため、理論的かつ本義を理解することは困難である。
何より理解が難しいのは、彼等、彼女等が自己の本質的な変質を観測する第三者の手に委ねられていたとしても、また信仰を分けられて〝同時併存〟していることになっても、何の感慨も抱かず、矛盾も生じないという高位概念的な存在たることだ。
本物の神にとっては、高々卑小な人間が思いつく「万能の神は、自分が持ち上げられない石を作れるのか」などどいった
神格にとって、三次元空間にて現在進行形で表出させる自我や記憶すら、人間にとっての着替えと大差ないのだろう。本質的な核はもっと、哲学的かつ形而上学的な深淵にある。
ただ確実に言えるのは、彼女がアウルスが寝ている時間軸においては帝国で広く尊崇される〝闘争と勝利〟の女神にして、かつては帝国の属国だったこともある小半島に起源を持つ神だということ。
「貴方が理解し易いように言うなら、共有部の警備部署を束ねているくらいに思ってください。神格としては、課長かそのあたりくらいに敬っていただければ」
「わぁ、急に俗っぽくなった……」
勝利の女神がAに気を遣ったせいで、急に格落ちした感があるが、テルースにおける闘争や勝利を司っている事実は変わらない。
だからこそ、局地的に血で血を洗う戦にて名を叫ばれ、御名の加護の下に勝利をと希われて信仰が高まったため、顕現できたのだ。
「さて、挨拶などは抜きで本題に入りましょう。まず簡潔に言いますと、氾濫によって外神は形而上学的熱量の在庫をかなり吐き出しています」
「……ああ、やはり、迷宮の外に派遣するのには膨大なリソース消費があるのですか」
「迷宮自体をテルースが持つ形而上学熱量を掠め取って作っているのですよ。氾濫はいわば、それを一時的に外へ広げているのです。走狗を作るのも、それらが一時的に外で生きていけるようにするのにも、大量の熱量を使います」
他人の土地を
「本来は存在するだけで恐怖という感情を汲み取り、立ち入った者の魂を食らい、また余力が生まれたら深度を増すか、討って出て更に魂を食らうのが迷宮の本旨ですが……」
侵略によって奪った熱量をそのまま自分の世界に持ち帰らず、現地でもっと勢力を拡大するために使うのは何ら不思議ではないものの、今は頑張って貯め込んできた流動資産で火消しに掛かっている状態であると女神は言った。
「形而上学的熱量は、いわば魂と感情が生む減衰しない熱量です。帝都のような大勢の人間が生き、生活し、増えていく場所にある迷宮は、存在しているだけで暴利を貪れる。外神にとっては一等地の不動産なのですよ」
「必死に破却させまいとする訳ですな。本来はテルースを運営し、貴方方の利益となる熱量を転用して攻勢をかけている……何ともまぁ、悪辣な」
「魂は貴重なものです。この世において殆ど唯一、投じたエネルギー以上の効率で熱量を増やす概念。これを奪われ続けると世界から熱が奪われ滅びるのですが……ただ基底現実に生きている人間には知覚できないので、真面目になれというのも難しいのでしょうね」
お湯を沸かしてタービンを回すくらい、視覚的に分かりやすければ理解も及ぶのでしょうが、などと宣って女神は笑った。
実存を知っていても知覚できなければ、その認識は難しい。魂云々を説かれても、我々普通の人間が腹の中に数兆以上も別の生命が存在する、一個の環境を作っていると言われるのと同じくらいに実感が行かぬだろう。
「しかし、我々は確実に弱っています。かつて可能だった代理構成体の顕現は疎か、今や託宣をくだすのにも、かなり“仕上がった”信徒が必要という為体……」
「代理構成体……?」
「基底現実に働きかけるための触覚のようなものです。厳密にはレギュレーションやらがあるので違うのですが……まぁ、かなりザックリいうと化身でしょうか」
長年の地上げの結果、世界の中に存在する神々は力を喪い続けた。
今では世界が世界としてあり続けるための、物理法則が存在する地球と同じテンプレートを使って創造された世界の基盤を維持するのが精一杯だという。
その上で余計に減らされる魂を減らすべく、災害の小規模化や疫病の蔓延を食い止めるのに力を回しているせいで、言葉一つ届けるのに難儀していた。
「ですが、ヤツ、あるいはヤツらは焦りすぎましたね。走狗が斃され、迷宮の力が弱まることは、リソースが我々の手元に帰ってくることに他なりません」
「金でぶん殴るということは、市場に金が流れること。下手をすると、相手の手元に使った金が入ってしまいますからね」
経済の基本だ。株式を買い上げて会社の占有権を奪うのは結構だが、買い上げるために使った金が何処でどう悪く働くかも考えねばならない。
この場合、一等地の不動産を維持するべく大金を出して補修しようとしたが、その金が敵対資本によって運営される建設会社に注入されたせいで、却って敵が息を吹き返し裏目に出たようなものだろう。
自前の建設会社があれば話は違うが、敵はこちら側に来て奪うことしかしていない。本来はレギュレーションに従って、世界に〝恵みをもたらす〟ことで制限をかける報酬で以て現地人を争わせる悪辣さは流石と言うべきだが、ここに来てボロを出してしまった。
やり口としては、ダラダラした持久戦で世界を壊すことこそが最適解だというのに、一箇所が破綻しそうになった途端に大慌てして、損失を埋めようと欲を張ったのがケチのつき始めになろうとは。世界を蚕食して暴利を貪る地上げ屋も、悪辣ながら全てが完璧とはいかぬようだった。
どこかで近視眼的なコンサルタントにでも騙されたのだろうか。
「むしろ、ここまで頑強に抵抗され、瀉血を意図して戦われることを想定はしていなかったのでしょう。現に貴方達は、走狗を斃すことも形而上学的熱量の還元になるとは、知らされていなかったのですから」
「怪我の功名、にしては負った傷が大き過ぎるきらいがありますがね……最初から教えて下さっていたなら、方針も変わったのですが」
「迷宮の破却は絶対必要条件なので、貴方達の仕事は何も変わりませんよ。それに、宇宙規模の管理をする神格にも縛りがあるのです。貴方の派遣元は、かなり贔屓して横車を押している方ですが?」
Aとしては片手と右目、そして会館のリフォームと大事な熟練兵と装備の喪失、更には終わったとしても待っているであろう政治的舞踏の労苦を思うと、本当に割に合っているかは微妙だが、一応は朗報だと諦めることにした。
「……で、そろそろ本題を伺っても? 態々大怪我して寝ている人間の眠りを浅くしたのが、やったー、ちょっと本気出せるようになったー、って自慢したかったから、なんてこたぁないでしょう?」
「そこまで暇でも稚気に溢れてもいませんよ……」
いっそ酷薄そうなまでに美人の神は、心底心外だと言わんばかりに溜息をテーブルに垂らした。
「力が少しなりとも戻ったので、助言に来たのです。貴方達人間は、終わりが見えない戦いに耐えられないでしょう?」
「……氾濫の終わらせ方、ですか」
「正確には、勝手に終わります。貴方達がこの調子で頑張っていたならば」
女神が机上に手をやると、Aが知覚できない素早さ、あるいは認知できぬ力が働いて一つの模型が現れた。
精巧な掌より少し大きいくらいのプラスチック模型は、民間航空機に特段の興味がないAでも知っているような代物。
「コンコルド……ああ、コンコルドの誤謬ですか」
それは時代に咲いて、美事に散り去った浪漫の徒花。超音速旅客機。
悲しいことに、その名を〝投じた予算を惜しんで、破綻が見えているのに撤退ができなくなる状態〟の代名詞とされてしまった機体。
なぜその知識をテルースの神が知っているかは不明だが――大方、Aの記憶でも攫ったのだろう――起こっていることだけは分かる。
外神は引き際を誤った。アレはまだまだ迷宮を氾濫させるつもりなのだ。帝国会館がガッチリと防備を固めて、時間さえ稼げば第Ⅰ軍団が帰ってくるような状態になって尚も。
既に氾濫によって得られる利益がコストには見合わなくなった。
走狗が殺す数よりも殺される数が増え、安くない大物も大量に破壊されている。帝都は焼けきらず、奪うことができた魂の数も、振りまかれる絶望も想定の幾段も低かろう。
大量の走狗の死体がテルースに渡るのは誤差の範疇であろうが、今まで神託を下すことさえ難しくなっていた神々が、異邦人の夢に遊びに来られるだけの資源を回収させてしまったのは失態以外の何物でもない。
仮にAとCを会館で殺せても、もう神託は止まらない。これまで以上に神殿勢力が神の名の下に政治への横槍を入れられるようになろう。最悪、奇妙な相似性を見せる帝国が神聖ローマ帝国のように、教皇の下にある国家になりかねぬ。
異邦人三人組にとって、現体制の崩壊くらいは何てこともないが、外神にとってはやりづらかろうて。
今の絵図を必死に描いたのだ。迷宮は攻略する旨みが難度に合わず、上手くいっても国体を揺るがし、奇跡と神託の頻度が減ることによって人々の信仰も衰える。何百年とかけて丹念に作った構造に、大きな罅が走っている。
迷宮の破却を目的とした個人の存在より、国是に据えた大国が生まれるのは悪夢に違いない。
況してや二人を殺せずに生かして帰して伝説を作らせた挙げ句、実効力を持つ神のお墨付きがついたならば?
爾後の政治的折衝や軍事的アレコレ、戦災復興なんぞで三人とも文字通り忙しさに殺されかけるだろうが、軌道に乗った瞬間に大戦略は破綻しよう。
「アレはもう、自棄になっているのでしょうね。貴方達が皇帝のコブと呼ぶ、大深度迷宮の維持程度には熱量を残していますが、同迷宮が上げてきた収益を無に帰する勢いで吐き出しています」
「……少し安心しましたよ。これだけの出血を重ねて、痛打の一つも与えられていなかったと言われたら、流石に心が折れました」
「我々とて無から有を生み出せはしないのです。人間からすると一見、無に見えるところから熱量を引っ張り出してきているだけで、お財布の底はあるんですよ。大枚叩いて買った賃貸物件が燃えたら、貴方も悶えるでしょう?」
さっきから一々俗な物言いで神々しさを殺してくるなぁ……と脱力するAだが、ふと、これは一種の気遣いではなかろうかと思い至る。
ここで本物の神々しさを撒き散らした結果、まかり間違ってAが凄まじい熱心な信徒になったら、それはそれで差し障りも出てこよう。全財産を投じてデッカい神殿だの黄金の像造りなんぞにかまけて、迷宮破却が進まなくなると困るのだから。
だから政治担当は、努めて目の前の女神が、素でノリが軽い訳ではないのだと思い込むことにした。
「そして、走狗が理不尽にまで強いのは、迷宮の中だからこそ。こうやって馬鹿みたいに外に吐き出し続けても、軍団と真正面からぶつかり合うと向こうも分が悪いでしょう。兵站が伸びきれば、ただの怪物に過ぎないのですから」
「つまり、我々が四層突破によって解放した形而上学熱量を取り返そうと、帝都を焼こうなんて無茶を起こした結果……」
「破産寸前、とまではいきませんが、遊興娯楽費くらいは使い果たさせたでしょうね。まだ家賃にまで手を付けていない分、理性は残っていたようなのが残念でなりませんが」
人類のスケールから見ると起こっていることは凄まじいのに、それを負け分を取り返そうと必死でパチンコに金を突っ込んでいるアホみたいな形容をされると、Aは体の芯から力が抜けそうになる。
いやまぁ、図式はずばりその通りなのだが、もうちょっと物の言い方というものがだね、と物申したい気分で一杯だった。人が死んでるんやぞと。
「そういうことで、夜まで持ちこたえなさい。そこまで耐えれば、運命の岐路が訪れるでしょう」
「具体的に何が起こるかは、教えていただけないので?」
「生憎、私は闘争と勝利の女神です。戦うことに意義を持たせることはできても、確約はしません。管轄や縄張りというものは、神にだってあるのですよ」
悪戯っぽく笑ってから女神ウィクトーリアは立ち上がり、机の上を滑らせてライターをAに寄越す。
「あと一本吸ったら目覚めるのに良い塩梅でしょう」
「サービス精神旺盛なことで……夢の中でも、恋しい紫煙に再会できたことに感謝しますよ」
「言ったでしょう。私は闘争と勝利の女神。片腕と片目を失って尚、勝利にしがみつこうとする人間は最高にタイプです。ちょっとくらいは贔屓しますよ」
それでは、よい目覚めをと言い残し、立ち去るでもなく、瞬きの暗転の間に消えた神を見送って、Aは煙草に火を付けた。
炎は闘争心を燃やすが如く、煙草の先端に赤々とした炎を灯す…………。
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