帝国歴741年 年初 コブの破裂

 世の中、様々な物に予兆があるとされているが、その大半はこじつけであったり、ただのカンであったりする。


 動物が急に逃げ出すだの、なまずが暴れるだの、掠れた筆で書いたような雲地震雲が現れるなどと色々言われているが、科学的な見地においては根拠とはならぬ。


 帝国の近隣では流れ星が凶兆の前触れ、山が火を噴く前兆とされ、強風が続けば地震が起きるなどと言われているが、新年の祝いを終えたあとの帝国には、斯様な兆候が現れることはなかった。


 験担ぎが大好きな、さしもの帝国人でも20歳も近い息子を膝に載せた母親が、宴席で若い娘を近寄らせないようにするといった奇行を“兆し”とは言うまい。


 ことが起こったのは帝国歴741年も明けて、僅か二十日のこと。


 白の月、或いは初月と呼ばれる帝国歴の一月で、祝いのムードも去って人々が普段通りの生活に戻る中、アウルスが帳簿を捲っている時だった。


 「……ん?」


 会館が妙に騒がしいのだ。防音が利いた社長室にあって尚、ざわめきを感じ取れるほどに。


 「今日なんかあったっけ……?」


 そう考えて手帳――神様から貰った物ではない――を捲って日程を確認しても、重大な発表や作戦の発令日ではない。夕方から何人か有力者を招き、夜まで天気が崩れなければ、そのまま屋上で夜会をやるくらいのもの。


 つまりは平常運転だ。


 ベリルが大がかりな物資搬入をする予定はないし、カリスも軍団の仕事で帝都外れの野営地で己が配下の面倒を見ているはず。


 前回の会合もあって、暫くはまた民生品に力を入れて、船の開発などを平和裏に進める縁故造りに専念し――つい先日、丁度良い工房をM&Aする目処が立った――探索者としての事業は慎むことになっていたので、会館が騒がしくなる理由が分からない。


 「はて。自主的に潜ってる連中が、何かデカい成果でも引き揚げたかな?」


 アウルスは一旦筆を置いて、会館から中庭を見下ろせる窓のカーテンを開けた。万が一狙撃などされぬよう、中庭以外から死角となった二重窓の下には、思わぬ光景が広がっているではないか。


 「うわ、何だアレ、怪我人だらけじゃないか」


 手傷を負ってボロボロの探索者が大勢騒いでいた。重傷者も何人かおり、医療の心得があるスタッフが担架を持ち出して救護室に運ぼうとしている様は、そこだけ戦場を切り取ってきたかのよう。


 装備から見たところ契約探索者はおらず、殆どがギルドに加盟している一般の探索者であるが、何があったのだろうか。


 人数は30人と少し。大した規模ではないが、先の合同遠征を参考に一時的な隊を組んで行動する者達が増えたと聞くので、大勢が怪我をして帰ってくることはあり得る。


 また、契約探索者になって大功をあげれば、市民権が手に入るという餌への食いつきもよかったので、この冬に大志を抱いた若人が大勢来たのだ。


 迷宮に不慣れな彼等が、勝手を知らずに怪我をすることも多く、新人研修をやっても死人が減らないのがアウルスの悩みとなるくらいに。


 だとしても、異様な騒ぎ方だった。


 アウルスは何かあったのか子細を調べるべく、伝声管を開けて秘書室に声をかけた。


 「サレハか? 何かあったかな? 下の騒ぎがここまで響いているよ」


 「その……氾濫が起きた、と帰還した者達が騒いでいるようで」


 「……何だって?」


 思わぬ報に間抜けな声を上げてしまうアウルス。既に心労で一派一杯の脳味噌が――今日の夜会も、結婚話の折衝が主題――文言を正しく咀嚼し損ねたらしい。


 「氾濫、とはアレか、迷宮の……」


 「はい、そうです。ただ、混乱しているようで話に要領がなく……」


 秘書室に詰めていた事務頭の犬狼人、サレハも事態を把握仕切っていないようで、返ってきた答えは曖昧だ。


 悲鳴を上げようとする精神を、アウルスは頬を強く挟むように叩くことで再起動させた。


 「アウルス様!? 今の音は!?」


 「何でもない、気付けだ」


 今、発狂している暇はない。自分に物理的〈心理学〉を試みて成功させた実業家は、頭の中で考え得る限りの最悪を想像する。


 氾濫と一口に言っても色々あり、迷宮内で完結する小規模な物が殆どだ。探索者が馬鹿をやった時に起こる現象で、アウルスは四人組の生存者にゾンビが群がってくるのホード、あるいはラッシュと同じ現象だと解釈している。


 それならば、カリス達の遠征隊が持ち帰った金塊のような物を欲し、過大な人員を投入している実業家配下の探索者がやらかし、巻き添えを食うこともあろう。事実として、合同遠征に備えた事前調査で、何度か迷宮内の小規模氾濫を起こしたことがあるからだ。


 だが、もし120年前と同じことが起こっているとしたら?


 心配した矢先に起こられると困るなぁ……などと内心で独り言ち、彼は一人芝居に終わってもよいからと最大限の手を打つことにした。


 「まず話を聞きたい。水でもぶっ掛けて冷静にさせて、当事者を二人か三人連れてきてくれ。又聞きした者ではなく、現地を見た者だ」


 「畏まりました」


 「それから、西棟に人をやって動ける者は全員武装させ、東棟に集結するように命じてくれ」


 「全員ですか?」


 「全員だ。契約探索者も加盟員も、古参から新人まで全員だ。外に出ている者も呼び戻させろ。ぐずるようなら日当を出すと言うんだ。怪我人も、念の為こちらに退避させておいた方が良いな……ただ、混乱されても逃げられても困る。氾濫のことは口に出すな」


 取り急ぎ、最優先で防備を固めねばならぬ。帝国勇猛社は何かあった際に立てこもれるよう、ベリルが念入りに設計しており、最悪正面玄関が突破されても曲がりくねった廊下を活用し、何段にも防衛線を敷ける。地下の鉄扉も分厚く、テルースの技術水準で作った衝車では破壊できぬ頑丈さなので、正しく要塞だ。


 頑丈な箱に戦士を詰め込めるだけ詰める。120年前の氾濫の記録が正しければ、今から避難などして間に合うかどうか。身一つで落ち延びることはできても、此方に生まれてから積み上げてきた物が根こそぎ焼けては、生きてるだけで丸儲けなんて空元気すら出せぬ。


 「それから、本邸と安閑社社屋に人をやれ。家族の皆に避難するように指示を出し、最低限必要な契約書と帳簿を守れ。馬車を全て使って構わん。遣いは戻らず家族に同行させるように」


 「承知いたしました。書簡を持たせますか?」


 「その時間すら惜しい。……そうだな、証拠として私の身の回りの物を持たせろ。懐剣でも換えの服でも何でもいい。余裕があれば、今から言う名の順に家々を回って、危機を報せさせろ。遣いは、そのまま逃げさせるんだ。褒美を渡すべき人間に死なれては困る」


 それから、家族や重要な株主を避難させる。氾濫と聞いて心配性のあわてんぼうが一人騒いだだけで済んだらいいが、迷宮外に及ぶような氾濫だった時、血族だけでも危険域から逃したい。


 120年前の大災いでは貴賤問わず大勢死んだ。それは、混乱した避難民が大路に殺到したせいで、碌な避難誘導も指示もできなかったから。軍団が真面に機動できず、道々で各個撃破される悲劇が起こったせいで走狗が暴れ廻り、終息するまでに帝都の半分が焼けたという。


 初動段階で動ければ、最低限必要な物を纏め、家人と当座の財産くらいは持ち出して安全に落ち延びられよう。


 「あとは屋上に何人か望遠鏡を持たせて歩哨を立ててくれ。迷宮前の要塞を見張らせるんだ。動きがあれば、逐一報告させるように」


 「畏まりました。ブレンヌス様にお伝えし、選抜を依頼してよろしいでしょうか?」


 「委細任せる。彼は会館に?」


 「練兵のため摸擬迷宮キルハウスを使っておいででした」


 できた部下と、不幸中の幸いにアウルスは胸を撫で下ろす。統率を取れる前線指揮官がいない今、探索者を統率するに足る能力がある者がいなければ、自分が組頭をやらねばならぬ必要があったから。


 鍛えてはいるが、帝国貴族としての嗜み程度で護身の域を出ない。理力を全身に巡らせれば――代償として、翌日酷い筋肉痛になるが――徒手では並の腕自慢でも倒せない力を出せるとしても、物の役にも立つまいて。


 「それと皇帝のコブを封鎖している要塞にも遣いを送れ。彼等が大急ぎで戦仕度をしているなら、戻らせて構わん」


 「現場での確認のためですね。機微の分かる者をやります」


 「任せた。情報を持ち帰ることを優先させろ」


 現地の情報が生で、そして素早く手に入らないことにアウルスは舌打ちしたくなった。前世の段階で文明が異常な発達を遂げると〝歪み〟が出るだろうとして、電気や電信を作らないことにしたのが今になってもどかしく感じる。


 「それから軍団にも遣いを。蓋の方から報せが行っているか確かめたい。情報が確実に届くよう、早馬で二人、いや三人だ。デヴォン氏族の本工房とベリル工房にも同じ人数を」


 「しかし、それではアウルス様がお逃げになる足が……」


 「私は退かんぞ」


 「何を仰っておいでですか!?」


 長年の付き合いがある奴隷は、珍しく声を荒げて翻意を促した。


 しかし、アウルスに逃げるという選択肢はなかった。氾濫への対応が空騒ぎに終わろうが、あって欲しくないが本当に起こっていようが示しが付かぬ。


 一度でも敵の前で芋を引いた総司令官に、荒くれ者の探索者は着いてこない。カリスが武人として持つカリスマで成立している節が多分にあるギルドは、組織として立ちゆかなくなろう。


 身を切るなら、まず社長からだ。民生においても軍政においても、責任者が実質的に格好だけであろうと体を張らねば、下の者は着いてこないし、やる気も出せない。


 なにも自分が戦う必要はない。ただ、諸君らと運命を共にすると、邪魔にならないところで見守るだけで士気は随分と違おう。


 「言い争っている時間が惜しい。兄弟同然の君に、こういった物言いはしたくないが……命令だ、迅速に熟せ。初動対応が全てだぞ」


 伝声管の向こうから、低いうなり声が聞こえた。犬狼人が感情を堪える時に漏らす、独得の声。威嚇とも違うそれは、主人が死地になるやもしれぬ場所に立つ、生存という点においては不合理な行動を飲み込めずにいるからだろう。


 然れど、アウルスは大局的に物を見る。三人の中で、それを己の仕事と任じているから。


 自分達は一枚のカードだ。特に自分は長生きしても100年ちょっとしか保たぬ、寿命の短い耐久消費財である。


 次代を用意することは、まだできていなかった。いずれ後継者を指名し、半ば洗脳に近かろうが教育を施して世界破却を防ぐ新しいコマを用意するつもりだったが、些かコトを性急に運びすぎたらしい。


 だから、土台は何があっても守らなければならない。金を稼ぐ会社、名声と信頼、帝国勇猛社という探索者の組織。


 これはA・B・Cの三人組で挑む事業だ。誰かが欠けたら、誰かが助けるという予定は常に考えて動いている。


 全てをご破算にしないためなら、彼は犠牲となることを厭わない。


 〝征服と統治〟の元ネタとなったTCGに準えるなら、コンボに必要な生物であっても、次のターンを得る為ならチャンプブロックを迷う必要はないからだ。


 LPさえ0にならないなら、未来がある。次のトップを捲れる。


 さすれば、可能性も現れる。


 ここぞと言うタイミングで全除去や大量ドローソースを引ければ、絶頂に近しい脳汁を出せるのが最初に手掛けた事業なのだから、諦める道理がいずくんぞにあらんや。


 最終的に勝てば良いのだ。そのためなら、墓地がどれだけ肥えようと安い物。


 これは、そういう構図の戦いだ。


 「私より、戦えぬ事務職を逃がせ。ハファドは経理書類と一緒に、ふん縛っても安閑社への馬車に乗せるんだ。ただ、絶対に騒がせるなよ。怖いのは民衆の混乱だ。大路が人で埋まれば、肝心の軍隊が救援に来られん」


 「……かしこまり、ました」


 万感の意が籠もった承諾を受け取り、アウルスは満足げに頷いた。


 「なぁに、サレハ、そう重く考えるな。私の取り越し苦労で終わる可能性もあるし、ここには数百人からの頼もしき醜男しこお共がいるんだ。要塞には一個中隊も詰めているし、一刻もあれば一個大隊が揃う体制を帝国は作った。120年前のようにはならんよ」


 言い聞かせるように、そして自分でも自分の言葉を信頼できるように喋るのには慣れたものだ。嫌な人付き合いばかりで、慣れざるを得なかった。


 空手形を切るに至って、アウルスは煙草が無性に欲しくなった。


 いつも、こんな具合に部下や同期を焚き付ける時は、会社の裏にある自販機が並んだ狭い小路で煙草を吹かしながらやったものだから。


 今なら一本に金貨一枚払っても惜しくない、あの紫煙とコーヒーの缶が愛おしくて堪らなかった。


 「アウルス様、私がお側に侍ることはお許しいただきたく。お言葉を伝えて回る者が必要でしょう」


 「個人的には、君にも逃げて欲しいのだがね。万が一があった時、社のノウハウを知る人間が減ると大いに困る」


 「体面を気にしてお残りになられるのであれば、逆に従僕の一人も伴っていなければ格好が付きますまい。お一人で具足を身に付けられますか?」


 「……参った、君に言い負かされるとは。じゃあいいさ、地獄に付き合え。とっくに自分を買い戻せるだけの金を与えているのに、奴隷を続ける酔狂者には似合いだろ」


 「感謝の極み。では、差配を終えたなら、鎧を持ってお伺いいたします」


 「ああ、良きに計らえ」


 伝声管はいい。声音は伝わるが、顔色と手の震えは伝わらないから。


 話し口調だけは、何があっても崩さぬよう生まれる前から鍛え、生まれてからも弛まず磨いた。笑顔も能面のように張り付いて、BとC以外の前では冷や汗一つ掻きはしない。


 しかし、手ばかりはどうにもならぬ。前世では後ろに組んで隠し、今生ではトガの中に忍ばせてきた。


 蓋が派手に鳴らぬよう意識して伝声管を閉じた後、アウルスは呻いた。


 「頼む、取り越し苦労であってくれ……」


 悪役めいた顔は、血の気が失せてより酷薄に見える。端から見ていれば、冷酷で果断な悪の組織を束ねる頭領にしか見えまいが、内面だけはどうあってもAの頃から変われないし、変わらない。


 「でもなぁ、私、ここ一番のトップ勝負ドロー対決に弱いんだよなぁ……」


 ランクで昇格を賭けた一戦にて、除去か生物さえ捲れればワンチャンという状況で、土地を引いて「gg」と相手を讃えた経験のなんと多いことか。


 逆に相手の手札を枯らして、次のターンで終わりだと思っていたら、状況をひっくり返される札を捲られた回数の方が多い。


 そんな不運で、どれだけ伝説の領域を逃してきたことか。


 「頼むよ神様、アンタが頼んだ事業なんだから、ちょっとくらいオマケしてくれ」


 かなりオマケをして貰っている方だとは思っても、懇願が溢れて止まない。


 前世も糞みたいな運を引いて事故死したのだ。せめて今生くらいは、ゲームでも仕事でも事故死は避けたい。


 アウルスは長く前線に止まれても、精々があと50年。歴史というタイムスケールでみれば微々たる時間。デッキに喩えるなら前のめりに突っ込む形アグロに近い。


 つまり、初動で事故ると何もできずに死ぬ。


 今は大事な序盤の立ち上がりで、土地を置き終わった塩梅なのだ。頼むから、上手く行ってくれとお願いするばかり。


 「しかし、私は前世でそんな悪いことしたかねぇ……」


 運が悪いにも程がある。しかも、相手の剛運でぶん殴られては堪らない。


 形而上学的に上位の存在が何を考えているか想像も及ばぬが、アウルスは多分コレ、対戦相手地上げ屋も初犯じゃないだろうなと思った。


 あまりに人間という存在の本質を知りすぎている。どれだけ悪辣に対策をすれば、こうも世界の自浄作用によって世界の地上げを防ぐことを妨げられるのか。


 盤面を強く整えているのに、予想外の総ざらい全体追放をされては困る。


 自分の差配が間違っていないこと、そしてトップが有効札であることをAは切に祈った…………。  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る