帝国暦740年 秋 机との親密度/光呑回廊
如何にも権力者らしいと言える趣味があれば、少しは精神の回復も容易だったのではなかろうかとアウルスは思った。
此方に来てから楽しめている趣味らしい趣味といえば、前世にはなかった本を読み漁ることくらいで、魂を癒やす物が不足していることを実感していた。
これはA・B・C全員に言えることだが、三人が愛好していた物がこの世に殆ど存在していないからである。
カメラすら存在していない世界で映画を見たいなどと言っても妄言でしかなく、漫画も概念すら産まれていない。唯一それっぽい名残がある本でさえ、紙の高価さから娯楽のために読み捨てるような気楽な作品は出回っておらず、殆ど歴史書に近い叙事詩が精々といったところ。
かつては歴史書を読むことに面白みを感じていたが、大体の物は趣味として読み切ってしまったため、最早息抜きとして成立しない。小説ならば何度も読み返すAでも、学術書めいた歴史書を二度、三度と読むと娯楽の用を果たさなくなってくるのだ。
それ以外の出版物といえば、高名な哲学者の大論や小論、または専門的な学術書くらいで、辞典や論文を気張らしとして読める人間でなければ息を抜くのに適しているとは言い難い。
数少ない前世の血を汲む娯楽である征服と統治を触っても「ここ改良せんとな」や「ここを補えばプレイヤーが喜んで買ってくれるのでは」という制作側の感性がムクムクと起き上がり、結局仕事に行き着いて没頭できない。
そして、最後の頼みの綱である歌や演劇は、硬すぎて〝息抜き〟と呼ぶのは難しい。
何ともはや、悲しいことに前世のあらゆる娯楽がピカピカ光る板きれや、妙に電気代を上げてくる箱から、追いかけられる勢いで吐き出されてきたアウルスにとって、大抵の物が陳腐で“既知”に感じるか、高尚すぎて理解が及ばぬ。
ライトな読み物が好きだったらしいベリルや、見た目に反して文学少女然とした作品を好むカリスが社交以外で見に行こうとしない内容物揃いである時点で理解できるだろう。
アウルスは教養としてイリアスやオデュッセイア、アガメムノンにエレクトラを読んできたし、義務感だけで読んだ訳でもなく面白く感じてはいたが、これらは何処まで行っても教養を磨くための〝教材〟であり、脳味噌を楽しませる物とは認識できなかった。
「あぁー……電撃とまではいかないけど徳間くらい欲しい……」
要は文字が書いてあれば、全部が娯楽の本ではないという論法だ。ライトノベルと科学誌が同列に語れないように、読んでいて難しいことを考えたり、歴史書や人物列伝を頭に入れておかないと理解できない本は娯楽たり得ないのである。
設定が凝った程度の小説ならば、歴史的な経緯を一切省かれた登場人物やら、難解な専門用語が出て来てもよいのだが……。残念ながら紙が貴重な世界において、本とは高貴なるものの教養を磨く教材である側面が強いため、叙事詩であっても読むのに知識と教養が求められる。
それも現代の翻訳本のような、巻末の親切な注釈もなしにである。
これがまぁ、結構脳味噌を酷使するのだ。
反面、女や酒、博打が趣味であれば質の問題はあれど、どの世界でも割と気軽に充足できる。特にアウルスであれば、結婚前から妾を何人か抱えて好き放題していても、多少の放蕩や趣味程度で済まされる価値観がある帝国ならば、より簡単であったろうに。
息子LOVEが行き過ぎているきらいがある母メッサリーナは喧しかろうが、十分に達成できる金と権力、そして相手側からの印象はさておき――ベリル曰く、サスペンス映画の適役にピッタリな容姿――見目も悪くないため選ばねば相手は幾らでもいる。
が、残念ながら老成した精神が若い肉体に引っ張られて尚も、その手の遊びを許容しなかった。
端的に言って、遊んだ後で囁かれる浮名の処理が面倒臭いのだ。将来的に政略結婚が欠かせない身分だけあって、結婚前に瑕疵がついて相手のお家から突っつかれる要素になり得ると思えば、いきり立つ物も大人しくなろうというもの。
事業に不安を抱えて色々と囁かれるくらいなら、実は男色なのではと疑われる方がまだ気楽であった。帝国では大っぴらにではなくとも、同性愛は禁忌とされるような行為ではないからだ。
最終的には養子相手でも家が継承されればよい、という戦国時代めいた、いっそ無機質なまでの合理性が彼の理性を辛うじて保たせている。
「主の独り言に返答するのも無粋だけど」
机と親しくしている主人の背後に侍る、唯一の護衛官であったカリスが取り繕おうともしない醜態に溜息を溢す。
「そんなに嫌なら断れば?」
軍の人員再編期に伴って長期休暇を取り、主人の護衛に付いた低地巨人の無慈悲な言葉に、多数の事業を抱えて容量一杯になりつつある男は呻くことしかできなかった。
というのも、つい先日、帝国安閑社の最新作となるリヤカーを受領したアウルスの兄プリムスが「これは素晴らしい!」と大変に気に入ったことが問題だった。
リヤカーはベリルが探索者事業にも使うことを前提と設計したこともあり、重量に比べて大量の荷を簡単に運べる構造となっており、運輸業をやっている人間にとっては福音に等しい存在となる。
やろうと思えば簡単なアタッチメントの増設で騾馬や驢馬に牽かせることも可能で、迷宮内での運用に備えて後進しなくなるようギアを切り替えて階段の上り下りもできる――やろうと思えば、だが――高性能なリヤカーをプリムスは大いに気に入り、父親にも紹介するに至った。
ガイウスが領内でも使いたいと大量発注すると同時、いっそこれも会社にしてしまおうと筆頭株主にプリムスを据え、共同出資者として帝国安閑社が参加する〝合弁会社〟の設立が持ち上がる。
これ自体は悪いことではない。費用を賄うために出資は欲しいため、その内に輸送と通信を専業に行う会社を別途立てねばならぬなとは考えていたのだ。それこそベリルが腕木通信やら駅馬車の試験をやりたいとか性急なことを宣い始めたので、何かしら別の人間を責任者とする大がかりな組織は不可欠である。
とはいえだ。総会が終わってもまだまだ忙しい中、ようやく空いたキャパの一部をぶち抜いて、また社屋にカンヅメに逆戻りになる案件を持ち込まれると机との親愛度を上げたくもなろう。
「兄上の体面というものもある……それに、遅いか早いかで言えば早い内に欲しかったのも事実だ」
「それ、そんなに急ぐ必要があること?」
「大ありだとも。ファビウス家、マクシムス家、ブデオ家……」
熟々と挙がる名前は全て運輸に関わる氏族であり、帝国という巨大な国家の血管を作ることで利益を得ている名家達だ。地場の業者もいれば領邦を跨いで仕事をする家もあり、軍からの下請けで後方の輜重を担当する業務の幅広さから競走は激烈で、のんびり構えていれば準備万端整えた相手から食い殺されかねない古老の集まりである。
アルトリウス氏族はコネも資金も強力だが、運輸は本業ではないこともあって、この手の業務を得意とする議員や他家との繋がりは薄い。連携を組まれれば事業を軽く食い荒らされ、お手上げの段階で「助けてやろうか」と慈悲深い顔の仮面を貼り付けた禿鷹共に啄まれる危険性があった。
押しも押されぬ帝国安閑社、というイメージは既に出来上がっているものの、何もかもが完璧とはいかぬのだ。
「いずれは適当な家を抱き込んで提携し、全国展開する予定ではあるが、出だしを殴られて躓きたくない。だから……」
「株式をばらまいて議員方に胡麻を擂るわけね」
「そういうことだ」
貴族が関わる経済の中では、実際にどれだけ有能か、どれだけの技術を誇っているかよりも根回しが物を言う。仲間の数が揃っていなければ優秀な人材やアイデアを持っていても外から妨害を受けて地力が削がれ、最後には自分で立つことすらできぬ程に弱らされてからご馳走に仕立て上げられてしまう。
戦列を組むのと同じく、足並みを揃えた仲間で両脇をガッチリ固め、喧嘩を売れるモンなら売ってみろよ、という陣容を作ってから初めて何十年も続く仕事にできるのだ。
「もー頭痛い……ゲロ吐きそう……元々そんなに食えないのに」
「そういえば、いつまで経っても細いわね。背は……えーと……伸びた?」
「巨人と比べるんじゃねぇ!!」
アウルスは今年で一八になり、第二次成長期を終えたこともあってA・B・Cトリオの中で唯一外見の変化が顕著であった。
とはいえ悲しいかな、椅子に座った霊猿人が拳を振り上げようと、低地巨人の胸の高さにも届かない。些か痩せぎすではあるものの、胡散臭い笑みが似合う蜂準長目の悪役めいた美男は、身長が霊猿人の中では十分に長躯といえるくらいに育っても巨躯の低地巨人と比べられると形無しだ。
更に育って上背が2.5mにも達しようとしている相方の一人は、横幅も厚みもアウルスを二人束ねたより更に分厚い。その高みから見下ろす視界のせいで、成長が早い霊猿人の伸び方であっても成長が全く実感できないのであった。
「くそ、前世からのデカ女はこれだから……Bはつむじを見下ろしてやるという宿願が適ったってのに」
「あら、そんなこと考えてたの? 長い付き合いだけど初めて知ったわ」
くすくす笑いながら、胃が痛いと体を丸めつつも草案を纏める相方を見下ろして、さてこの状態の彼に〝爆弾〟を落とすのは可哀想かとカリスは腹に抱えた報告を出すタイミングを計った。
言わない訳にはいかない。下手に報告を逃せば時機を逸し、適切な行動が取れなくなるから。
アウルスの仮眠中に帝国勇猛社の重役として下から上がってきた報告書を読んで、こりゃ大事だと思ったが、さてはてどうしたものか。
「夏は成長の季節だから、伸びるといいわね」
「うっせぇ」
窓に目線をやれば、青々とした夏の高い天が覗いている。懐かしの故国で見られた雄大なる入道雲がないことに寂しさを覚えつつ、カリスは〝迷宮深層の発見〟という爆弾の引き金を弄ぶ…………。
時は少し前後する。株主総会が成功裏に終わって、十日ほどであろうか。
「なんだぁ、こりゃ……」
目下、帝国内で最有力の探索者の一党、〝地底人〟を率いる頭目にして誉れある帝国勇猛社〝契約探索者第Ⅰ号〟の名前で酒保の女の人気を一手に集めているブレンヌスは、短い期間ですっかり被り慣れた兜を脱ぎながら呟いた。
呆然と呟いた彼の前には、巨大な柱が林立する回廊が広がっている。
いや、左右にも奥行きにも果てが見えないそれを回廊と言ってよいのだろうか。銀を塗布した鏡によって光を収束させ、遠方を照らせるランタンを使っても果てが見通せない回廊は、その遠大さによって入り口からでは最早大まかな全景を掴むことすら難しい。
更には上にも果てしないのだ。天井を拝もうと上を眺めてみても、光が届く範囲で柱が途切れることはなく、ただ闇の向こうに光が呑み込まれていくばかり。
朽ちた石壁と途切れ途切れの石畳が足を取る第三層から、下に続く階段を見つけて勇み足で降りた先によもやこんな光景が広がっていようとはと、八人の探索者達は背筋を震わせる。
確かに数十段の階段を下ってきたが、ここまで高さがとれる筈がないのだ。広大な下水道が広がっている帝都の地下に迷宮がぶち当たっていない時点で分かっていたが、改めて〝空間が歪む〟という神さえ中々許さない偉業を実現している空間に踏み込んでいることに恐怖を覚えたのである。
「コイツぁ壮絶だなぁ、オイ……」
帝国勇猛社の発足以後、破却することを数百年間望まれながらも僅か第三層までしか踏破されていなかった迷宮探索事業は、僅か季節一つ分で今までの停滞が嘘のように進んだ。
全ては帝国勇猛社が〝地図買い取り〟を始めたためだ。
迷宮は深度を増すにつれ、探索者にとって魅力的な報酬をもたらす。それは帰還の難しい距離まで有力な敵を誘い込み、獲物に仕立て上げるために迷宮が用意した〝罠〟の一種だけあって人の欲を上手く利用した仕組みだ。
いい成果を奪われぬよう、探索者達は攻略度合いの共有をしない。敵の種類から対処法は勿論、効率的に奥へ向かう地図など以ての外だ。競い合う同業者も、利潤を求めて迷宮へ潜る者達にとっては走狗と何ら変わらぬ〝敵〟でしかないのだから。
しかし、それらを帝国勇猛社が買い取り始めると事態は変わってくる。彼等は目的が迷宮踏破である前提を正しく理解していることもあり、探索者の物理的な支援に留まらず効率的な攻略手段を構築していたのだ。
敵の情報が分かれば対処は容易くなり、地図があれば先へ先へ進んで深層への道を探しやすくなる。そして今までは飯の種として懐にしまわれていたそれを〝報酬〟で釣り上げて衆目に晒す。
奥へ向かい新しい情報を見つけ、珍しい資源を持ち買えれば金になるのだ。深層に行くことができずにいた探索者達も、下手な幸運を祈るよりも確実に金になると判断し、飛びついて地図を売るようになった。
大勢が持ってくる地図を並べて精査し、信頼度が高い地図と偽地図を区別して、数日の審査の後に認められた物が帝国勇猛社にて売り出される。この流れが一月程で完成を見せ、迷宮の踏破事業は格段に進んだ。
今まで運が悪ければ何日も踏破にかかる第一層が一日で抜けるようになれば、地図で稼ごうとする連中が二層、三層と深みに潜り地図を持ち寄って報酬のついでに提出する。
質の良い地図。罠や勾配、敵の分布から密度まで詳しく描かれた地図には銀貨が何十枚と出されるようになれば、それを専業として稼ごうとする者達が出るのは自明であった。
更に迷宮の変化が訪れたならば、また新しい飯の種として地図を作りに行けるのだ。やにわに地図製作を主眼に置いた探索者が集まるようになり、地図屋が急増する。
この流れと数々の新装備を積載したリヤカーを活用し、ブレンヌスの率いる地底人は第三層へ僅か二日で到達し、五日間で今までの探索者達が何百年も見つけられなかった〝第四層〟への入り口を発見した。
光呑回廊。後にそう名付けられる回廊は、今までの入り組んだ構造から全く近代的に整えられた、ある種厳かさえ感じさせる構造から探索者達に一つの予感を授ける。
ここからは、今までのやり口が通用しないぞという。
「た、大将」
「どうした」
「じ、磁石が……」
斥候が持つ方位磁針を見れば、一目で役立たずになっていることが分かっただろう。針があっちこっちへ無秩序に回転し、北を示すという役割を放棄しているのだ。
「こいつぁ参ったな」
「方向感覚には自信がありやすが、これ、多分ずっと同じ光景が続くんすよね? となると……」
「ああ、厄介なことになる」
人間の方向感覚は割とアテにならず、一方向に真っ直ぐ向かっているつもりでも方向がずれていることは珍しくない。街でも通りに従って進んでいるだけで、僅かに婉曲している道に誘導されて方角がズレることが間々あり、森でも木を避けている内に見当違いの方向に進んでいた事象が頻発する。
ここは迷宮。餌で釣った獲物を効率的に戻れなくする罠そのもの。ただ全く同じ柱が、延々と等間隔で並んでいるということはあるまい。
考えられるだけでも、柱の間隔がどこかで少しずつ狭まり、知らぬ内に進路が歪められる危険性もある。目測では同じ幅に見えても、ぱっと気付かない間隔で少しずつ歪められてはどうしようもないからだ。
そして、一度方角を見失ったならば、戻ることは極めて難しくなる。元来た道を見失えば、探索は遭難に変わるのだから。
「仕方ねぇ、軽く調べて引き上げだ。入り口が分かる範囲から出るんじゃねぇぞ」
ブレンヌスは第四層への到達という喜びよりも、ここに挑まされるのかという恐怖で背中が粟立った。
更には、まだここから先があるのだと思うと気が滅入って仕方がない。
走狗の強さは迷宮の深度が深まれば深まるほど増す。ここに来るまでに掛かる日数で消費する糧食に水、そして〝帰路が変貌する〟までの時間的制約を考えると相当に駆け足で進む必要があると分かった。
これは流石に今までと同じやり方で攻略するのは不可能だと判断したブレンヌスは、周辺の簡単な探索だけで引き上げ、実務面での責任者といえるカリスにお伺いを立てることとなる。
以後、契約探索者達は探索の抜本的な革新を求め、更なる試行錯誤を繰り返すようになった…………。
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