帝国暦739年 年初 星々との戯れ

 思ったより早かったな、というのがアウルスの正直な感想である。


 年も明けて随分と経ち、聖堂での行事や祝賀ムードも過ぎ去った頃に来客があった。


 六分儀を海軍に売り込んだ宴席にて知己を得た、理力の民のご令嬢である。


 宴から数週間。引っ込み思案の宴席嫌いが覚悟を決めて訪ねて来たと考えるなら、相当に早い期間と言えるだろう。アウルスとしてはお礼状が届き、そこからまた数ヶ月単位で間が空くことも想定していたが、余程望遠鏡の出来に感激したと見える。


 さて、理力の民は帝国の同盟国、その一つの主要構成民族であるが、源流は中央大陸中部にある。


 かつて理力式の力により、亜大陸を除いた中央大陸制覇目前までいったものの、他国家の大同盟、そして“魔王”と恐れられた強大な王が“勇者”を自称する暗殺者に討たれたことで崩壊した国家が源流である。


 しかし、この亜大陸の西方にて小さな国家を建てた者達は、他種族から“魔族”と畏怖された者達の末裔ではなく、魔王全盛期に「こいつにはついていけねぇ」と故国から脱出した穏健派の連枝である。


 北回りルートで船団を組んで脱出し、当時大した勢力のなかった亜大陸西方に拠点を築いた彼等は、戦争に協力的でないとして粛正寸前だったという。財と物資を持てるだけ持って脱出できたのは、殆ど奇跡であった。


 何が言いたいのかというと、遠方からの移民である彼等の文化や風土は帝国と全く異なっており、帝国の常識で物を考えていると面食らうことが多いということだ。


 その最たるものは、先触れもなく手紙もなく、何の前触れもなく訪ねてくることに一切の抵抗を覚えないことであろう。


 「よくぞ参られました」


 とはいえ、実力主義がまかり通る帝国には、一般の貴族であれば眉を潜めるようなフットワークの軽さを誇る人物も多い。皇帝でさえ“息抜き”と称してアポもなく帝国安閑社を訪れ、新商品はないかと聞きに来ることがあるのだ。


 それを考えると目の保養になる分、異国の美人が訪れるのをアウルスは歓迎したい気持ちであった。


 何より、A・B・Cトリオが持ち合わせない技術の専門家でもあるのだから。


 あわよくば取り込んでしまおうと考えるアウルスは、唐突な訪問に嫌な顔の一つもせず、事務所の応接間に歓待の場を整えて理力の民を通した。総会や大株主との付き合いで、勝手を知っている使用人が多いに越したことはないと悟ったアウルスは、奴隷を更に買い上げて事務所で常に人をもてなせる準備を整えていたのである。


 「大した持て成しもできず恥ずかしい限りです」


 「いえ……我が身に余る食事に感謝致します」


 寝椅子に腰掛けた彼女は――どうやら横臥して食事を採る文化がないらしい――行儀良く膝を揃えて座っている。しかしながら、その姿はどこか落ち着かず、そわそわしているように思えた。


 額にて輝く、夜会の時とは異なる光を放つ額の宝石が心情を反映しているかの如く在る。篝火の下で赤く光っていたそれは、窓から差す陽光の下では鮮やかな緑に見えた。どうやらアレキサンドライトのように光の波長によって反射を変える性質を持つのだろう。


 「……改めて自己紹介を。此度は我が名を受け取ってくれますね?」


 「ええ、貴女がよろしいのであれば勿論」


 酒杯を交わし、最初の一言目がそれであった。どうやら彼女は、あの晩に名前を交わし損ねたことをずっと気にしていたらしい。それはアウルスの狙い通りであるものの、社交嫌いを押してでも人を訪ねることを決意させるには十分な動機となる。


 伏せた目の代わりにか、額の宝石がきらりと光る。そして、葡萄酒で濡れた唇が意を決して開かれた。


 「此の身はエール誓国にて禄を食む、二等明階詠唱官。ギルデリース・ガ・デ=ヴォルドスと申します」


 理力の民、と帝国人が呼ぶ民族の国にも正式名が存在する。エール誓国なる国号は、彼の神に対する国家的な誓約なる、憲法と似た原則原理を持つ国という新たな概念。それに基づく造語に旧い言語での“神”を意味するエールという単語を結んだものだ。


 元々、理力の民は経典と誓約の民とも呼ばれ、その身に宿した膨大な理力を濫用せぬことを誓ったことで神からの加護を得て、経典を授かり神代初期に民族と国家が成立した。


 しかしながら、神代が終わり神々が表舞台から身を退くと共に誓約は忘れられ、経典は形式的に読み上げる儀礼的な存在と成り果てていく。最終的には他種族を圧倒できる理力式の力に溺れた彼等は、次第に理力偏重主義に陥って、神も経典も捨て魔族と蔑称される存在へと墜ちていった。


 行き着いた先が中央大陸における魔王の台頭と、彼の覇に異を唱えた物達によって繰り広げられる百年近い大戦だ。


 長期間の戦争にも拘わらず、殆ど休戦期間のなかった凄惨な戦争は未だに中央大陸では多くの国のトラウマとなっており――尚、帝国は大陸付け根の霊峰を盾として参戦していない――理力の民が“魔族”と呼ばれて迫害される土壌を作り出した。


 斯様な過激派から分離し西部亜大陸に逃れてきた理力の民は、古い神と経典を保った民族であり、その文化も制度も古来の物に近しい。


 彼女の名は、その歴史と文化に則った伝統ある名であった。帝国では耳慣れぬ語感であるが、堅さと柔らかさが同居する名前はどこか耳に心地好い。


 「素敵な名前だ。勇壮なれど嫋やかな響きもある。貴女によく似合っている」


 「ほ、褒めすぎですアウルス殿……」


 青い肌の頬、彩度が僅かに上がったのは赤面してのことだろうか。アウルスは謙遜なさるなと言いつつ、心配になるほど男慣れしとらんなと感じた。もし彼女が理力の民でなければ、性的観念や婚前交渉への禁忌が薄い帝国貴族の中で、あっという間に食い散らかされていた公算が高い程に。


 「先の宴では素晴らしい贈り物をありがとう御座いました。あれで毎晩星を愛で、その流れと語らっております。中々お礼に上がれず、大変な無礼を致しましたね」


 「いえいえ、お気になさらず。貴女が喜んで下さったなら、それ以上の何を求めましょうか。どうですか、使い心地は」


 「はい、それはもう! より正確に星の位置を探ることができて大変素晴らしく手放すことができません! 理力式によって視力を増強すると、どうしても大気中の理力と干渉して遠方ほどノイズがかかるのですが、アレは全てが鮮明に見えて大変重宝しています! 特に月の影を更に詳しく観察できたことも素晴らしく……」


 それは、好みの話題となった途端にしおらしさが失せ、嘘のように饒舌になられると尚のこと強く確信してしまう。星空を見に行きましょう、といえばホイホイ何処にでも付いていってしまう子供のような危うさがあった。


 然りとて、その名を聞いた政治担当の脳は同盟国の文化と制度を直ぐに引っ張り出し、軽々に手を出されない立場でもあるかと考えを改めた。


 家名につく前置詞には意味がある。ガ、は古き血統、中央大陸に理力の民が居た時代から権勢を誇る古い貴族が冠する称号であり、デは代々高位の官職に就く家系が王からの信認を受けて名乗ることを許されるもの。


 その上、明階とは神職を兼ねる官職の上から二番目。警察でいえば警視レベル、軍でいえば中佐から大佐に近い高級将校。下手に手を出せば、火傷ではなく家ごと燃え上がるお偉いさんであった。


 変なモン挿れる前に籍を入れろ、とおっかない人々から恫喝される立場の女性相手ともなれば、浮名を博すことが名誉と考える帝国男児でも尻込みしたとみえる。


 まっこと、使節団に選出されるのも納得の尊い血筋だ。これは思わぬ上客を得たと思いつつ、アウルスはコミュ障の気が隠し切れぬ令嬢へ食事を勧めた。


 「しかし、時期がよかったですな」


 「時期、ですか?」


 上等な葡萄酒や柔らかなパンと瑞々しい果物。そして大慌てで焼かれた鳥の丸焼きで客を持て成した後、アウルスはそろそろ良い頃合いかと話題を遮った。


 ちらと目線を外にやれば、随分と長く語らっていたようで――おかげで、アウルスは妙に季節毎の月の影に詳しくなった――窓から覗く街は曖昧な茜色に染まっているではないか。


 冬至を過ぎようと未だ短い昼さえあっという間に過ぎ去る程、楽しく時間を過ごせて貰えてよかったともとれるが、同時に数刻働けば数万セステルティウスを稼ぎ出すアウルスの時間を贅沢に使ったともとれる。


 しかしながら、彼はそれを指摘する気は毛頭なかった。ともすれば、彼女との友誼が数万の金より尊い物を生み出すやもしれないのだから。


 それに彼は、個人的にギルデリースを気に入りつつあるあった。


 好きな物を語る時、彼女は心底楽しそうにしている。人付き合いが苦手という雰囲気は消し飛び――まぁ、それもまたコミュ障の症状の一環であるが――深い造詣と知識を素人であるアウルスにも分かりやすく、熱を込めて語る姿には優れた専門家としての姿が覗く。


 必要に応じて、そして長きに渡る下準備期間で身に付けた心理学や経済学に基づく社交性を身に付けたアウルスも、Aであった時はどちらかと言えば彼女側の人間だった。付き合いは最小限、気に入った人間とだけ深く付き合いを結んできたからこそ、魂の同類とでも呼べる人物への嗅覚は正確だった。


 以上の価値観、そして専門家としての力量を鑑みるに、彼女は個人的に友誼を結べば快い付き合いができるだろうと分かったのである。


 「そろそろ日も暮れます。いい物をご覧に入れましょう」


 打算を含みつつも、紛れもない純粋な好意で以て政治家は専門家を持て成すことを決めた。寝椅子の脇に置いてあった小さなベルを手にして鳴らし、従僕を呼び寄せて「アレを」と命ずれば、心得た下男達は直ぐに部屋を辞して準備にかかる。


 前もって、彼女が訪ねてきた時に備えて段取りを仕込んであったのだ。


 四半刻ばかし、アウルスが更に月の位置が理力式に及ぼす影響に関して質問して時間を稼いだ後、二人はすっかり日が沈んだ夜空の下に繰り出した。


 宴席も用意できる事務所の広い屋上には、熱気を閉じ込めるための幕が用意されている。天幕ではなく、あくまで四方だけを囲む帆布の幕だ。


 中では薪ストーブが燃やされており、切り取られた空間からは冬の寒さが追い払われている。


 「こ、これは……!」


  しかし、冬の帝都では歌劇場一番の歌姫や闘技場一番人気の剣闘士よりも人を集める新型の薪ストーブも、中央に鎮座する物と比較するとギルデリースには色褪せて見えた。


 金属で補強された三脚に載る架台に据えられ、天に屹立する優に6歩尺約1.8m以上の長さを誇る筒。その用途を彼女は一瞬で察した。


 「天体望遠鏡、という新商品です。まだ世界に二本しかない品ですよ」


 「こっ、ここ、こんな、こんなすごい、こ、これで何処まで見えるのですか……!?」


 天測のためだけに作られた器具だ。ベリルが大型レンズの研磨実験がてら作り、帝国天文院と海軍へのパイプ強化のためアウルスが贅沢に予算を出した。


 それにより豪勢な邸宅が建てられるだけの予算を蕩尽し、漸く完成した品が納入されたのは、つい先週のことである。


 レンズ直径は80mm。時代的には規格外の巨大さを誇る対物レンズを収めた鏡筒の中には反射鏡が収められており、側部の接眼レンズを覗けば最大160倍に拡大された天体が視界に飛び込むという。


 現状ではコレが限界、とベリルが誇るレンズ研磨機の精密さによって生み出された反射式天体望遠鏡は、今まで人間が観測できなかった領域を覗き込むことを可能とした。理力によって光の屈折率を変え、肉眼の十数倍先を見通すことができた理力の民でも届かぬ高みを。


 「さぁ……開発者は160倍まで行けると豪語しておりましたが、私にはその凄さが分かりかねまして。その側面の小さな筒、照準器でアタリを付けてから覗き込めと言っておりましたね」


 「そ、その……」


 価値が分かる人間からすれば、何とぼけたこと言ってんだぶち殺すぞ、と恫喝されても文句を言えないことを宣うアウルスの服を引っ張り、遠方より来た令嬢は震える声で問うた。


 「つ、使ってもよろしいのですか……!? 此の身が……!? これを……!? 天の秘密を覗き見る栄誉を……!?」


 「勿論。私のささやかな宝物を喜んで下さった貴女にこそ相応しいと思いまして。使い方をお教え致しましょう」


 にっこりと会心の――ベリルやカリスには胡散臭いと評判の――薄い笑みを浮かべて手を差し伸べれば、誘われるがままにギルデリースはファインダーに取り付いて筒を動かしにかかる。


 求めるのは最もテルースに近く、同時に果てしなく遠い天体。常に付き従って夜空を照らす、双子の月の長姉。今日もほの白く輝き、優しい光で大地を撫でていく彼女は理力式に深く関わるため、理力の民にとっては何よりも縁深い天体である。


 「今宵は空気も澄んでいて雲もない。誠に月が綺麗ですね」


 冬の夜空は雲も少なく、空気が澄み渡り何処までも高い。地上より強く照り返す灯りが殆どない世界の夜空は、暗い星でも目をこらせばよく見える程。


 ファインダーで狙いを付けたギルデリースは対物レンズの前に跪き、やがて左手を額の宝石に添え、右手を胸の前で組んで低く朗々と声を上げる。


 アウルスの知らない言語だ。帝国の数少ない同盟国である理力の民の言語はアウルスも修めているのだが、これは誓国において聖職者階級のみが知る上代の古語による聖句の詠唱である。


 意味が分からないのも当然だ。文字を持たぬ旧い言語は口伝によってのみ伝えられるもので、理力の民以外に知る者はない。純粋に神に語りかける目的でのみ使われる言語は、理力によって声帯の構造さえ歪めて発する特異な祈り。


 長い長い祈りの後、意を決して接眼レンズを覗き込んだギルデリースは呟いた。


 伏せて長らく余人に見せることのなかった、虹彩から白目に至るまで、全ての部分が隅を流したように黒い異形の目より涙を流しつつ。


 「此の身は、今日ここで死んでも構いません」


 視界に飛び込むのは、地上からではただ滑らかにしか見えぬ天体の詳細な姿。小さな星のくずよりテルースを護ったがために負った、幾重もの衝突痕で彩られる白銀の大地。深い深い疵痕と複雑な谷と山の構造に魅せられながら、女はその場から動かなかった。


 付き合ったアウルスが疲れ、薪ストーブの薪が何度も継ぎ足され、レンズを覗き込むため跪いた膝が固まって動かなくなっても…………。

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