帝国暦739年 年初 伏し目の令嬢/西暦 20xx年 触れ得ざる感覚器

 近づいて始めて分かることであるが、理力の民のご婦人は目が細かったり伏していたりするのではなく、完全に瞑目していた。


 にも拘わらず、彼女が皿に伸ばした手は、探ることもなく乗せられた果実を摘まんでゆく。白葡萄を繊細な指先がもぎ取っていき、皮を破ることもせず口に運んで、中身を吸う様に食べると残骸を殻入れにそっと落とす。


 完全に目を瞑っている人間の所作ではなかった。


 「もし、そこのご婦人。同席させていただいてもよろしいでしょうか?」


 不思議に思いつつも、理力の民特有の感覚で盲目であっても外界を察知する能力でもあるのかと考え、アウルスは質問より先に紳士として正しく声を掛けた。


 「……ええ、どうぞ」


 やはり目が見えているかのようにアウルスに顔を向けたご婦人は、少し悩んだ後に空いている寝椅子へ腰掛けるよう手で指し示す。緩やかな長衣の裾を抑え、はだけぬよう気遣う所作には、紛れもない高等教育と生まれの良さが滲んでいた。


 「ありがとうございます。急にお声かけして申し訳ない。どうにもお暇そうに見えたもので、少しでも無聊の慰めになればと」


 「お気遣いどうも……生来、こういった華やかな場に慣れぬのです」


 涼やかで聞き心地の良い声であった。凜々しい外見とは不釣り合いな程に甘やかな乙女の声音、独得な抑揚があるものの洗練された帝国語の発声。憂いを帯びたしっとりとした声は、切ない恋歌でも口ずさめば世の男達を瞬く間に魅了することであろう。


 「私もです。産まれ故に必要ではあると覚悟しておりますが、どちらかと言えば私室にて書を捲る方が落ち着きますね。それか、気心知れた数人と静かに酒杯を酌み交わす方が肌に合います」


 「……此の身もそうですね。小職の場合、部屋で理力の構造に思索を巡らせ、星と戯れる方がずっと楽しいかと」


 意外と気があいそうだな、と嗜好に共感を覚えつつ、下準備の長き時間と生まれ変わっての十数年で板に付いた商売人の性か、相手の属性が直ぐに商売と絡みついてしまうアウルス。


 丁度、天文に関わる道具の話をしたばかりだ。運命的な何かの差配を感じつつ、当たり障りのない話題を続けて緊張を解こうと試みるアウルスは、小さな身振りで下男を呼び寄せた。


 「理力を扱う方は天文も嗜まれるのですね」


 「星々から放たれる力の波。地表より漏れ出る気脈を反射する月。全てが理力の波長と絡み合い、現象に影響するのです。姉妹月の満ち欠けと位置のみならず、恒星との関係、極星のきらめき、円環を描く惑星の位置が術式の成否や効果に深く関わるもので……」


 熟々と前もって用意でもしていたのかと思わせる自然さで、凄まじい長文が息も挟まず艶やかな淑女の口から止めどなくあふれ出てくる。


 専門家でもなく、体に理力を宿している霊猿人でしかないアウルスには天文知識以外の部分は――つまり過半以上――理解できなかったが、彼女が相当に理力の扱いを修め、天文に並々ならぬ関心を持っていることだけは明白である。


 「ご存じですか、惑星というものの軌道は実に複雑で、時にその位置関係の複雑さ故に我々の目を眩ませるため、惑わす星、と呼ばれるのです。我々の故地たる惑星が自転し、恒星を周回している事実と、彼等の公転周期が楕円であることが判明する前は……」


 夢見るような調子で天を仰ぎ、伏せた目で中庭より覗く星々を眺めて語り続ける理力の民。アウルスは聞かせ上手であると同時、政治家に必要な聞き上手さも身に付けていたため、心底興味深そうに合間合間に“聞かれたら嬉しいだろうな”と思う専門用語への注釈を求めた。


 最初は縮こまって緊張した空気を纏っていた彼女の姿勢も、話すにつれて軟化してゆき、やがて警戒心の表れか体の前で組んでいた指が解け、身振り手振りで説明するために動き始める。


 その長い語りがどれ程続いただろうか。宴席の参加者がちらほらと帰り始める頃、漸う満足したのか彼女の天文語りは終わりを迎えた。この数時間でアウルスは天体と理力の関わりに少し詳しくなり、肉眼では観測できぬ星の名や星座を幾つか覚えてしまっていた。


 口が渇いただろうとアウルスの差し出す酒杯を受け取り、割った葡萄酒で喉を潤した彼女は胸を撫で下ろして長く吐息する。


 どうやら好きな分野を思う存分語って満足したらしい。


 「本当に天文がお好きなのですね」


 「はい、これ程興味深い物は地上にはそうありません。永き時を経て届く光の瞬きは、世界の意味と成り立ちを教えてくれます。此の身が生理的に扱う理力にも深く関わるなど、正しくこの世の真理に近きもの……眺めていて飽きることはありません」


 「帝国にもそのような方々は多い。そのため、私も事業として星を具に観察する道具を作っておりまして」


 「それは、本当ですか……? 我々も視力を強化し星を愛でておりますが、道具でそれと同じことが可能になろうとは」


 静かに、しかし明確に驚いている声音と前傾の姿勢が興味の強さを物語る。アウルスは語りが始まる前に呼び寄せた、待たされた続けてうんざりしているだろうに表情にも態度にも一切表さない、できた下男から荷物を受け取った。


 しかし、これで彼女が盲目でないことが分かる。どうやら何かの意図があって目を伏せているだけで、視力に問題はなく、外界を見る能力はあるのだろう。


 では、何故不便だろうに目を閉じているのかは分からないが、どう考えてもセンシティブな問題であろうから問うのは早計だ。


 故にアウルスは、下男に持たせていた予備の望遠鏡を手にした。


 壊れ物であるため、運搬中に罅が入った時のことを考え三つ用意させてあったのだ。幸いにも試供品としてタレンティウスに渡した物は壊れていなかったため、予備を使うことができる。


 「此方です。私のお抱えの工房にて、専属の技師が発明いたしました。これは地上を眺めるためのものですが、天文院からの受注もあって星々を眺める物も制作中です。なんでも、上手くいけば肉眼でも捉えられぬ星々を観察できるようになるとか……」


 「そ、それはすごい……さ、触ってみてもよろしいでしょうか……?」


 「ええ、是非とも」


 箱を受け取ったご婦人は、恐る恐る望遠鏡に触れてみた。そして、形状から使い方を簡単に察したようであるが、周囲を見回して覗き込もうとはしない。


 ああ、と彼女の心配を察したアウルスはそっと体を横にする。下男もそれに倣って後ろを向いたことに気付いたのか、ご婦人は安心したように息を溢し、やがて意を決したように望遠鏡を目に添えた。


 溢れる感嘆の声は、ぐっと星々に近づけた喜びか。


 ベリルが作った望遠鏡は、いわゆるガリレオ式と呼ばれる凸レンズと凹レンズを組み合わせただけの原始的な望遠鏡だ。高倍率にすれば像がぼやけるが、反射鏡を噛ませることなく正立像――上下が正しい映像――で表示されるため、地上で使うには此方の方が都合がよいため採用された。


 プリズムが実験段階であるため倍率操作機構は省かれて完全固定式となっているものの、十倍に拡大される視界は遠くの物も十分に見える。


 ベリル曰く「習作なので売るのは業腹」とのことだが、これでも光学機器が満足に存在していない世界では十分過ぎる。


 限りなく透明に近いガラスを作り出し、完璧に研磨する技術を持つ唯一の工房の主であることをもう少し誇ってもよかろうに。


 「わぁ、ああ、あああ……!」


 それは、星々とより近い距離で戯れることが能い、子供のように方々へ筒先を向けているご婦人の反応から確実であろう。


 ご婦人から視線を外していたアウルスは、人気が随分減ったことからお開きの気配を察した。夜通し飲み続ける者もいるだろうが、ここまで人が減れば皇帝も閉会を宣言する頃合いであろう。


 「どうやら、そろそろお開きのようですね」


 「えっ……? あっ、その……」


 「どうか、そのままお持ち下さい。お近づきの印として、麗しい貴女へ贈らせていただければ、これ以上の喜びはありません」


 「で、ですが、こんな素敵な物……」


 「道具は喜び活用してくださる方の手元にあってこそ役立つのですよ。どうか、大事に使ってやって下さい。さすれば、私の職人も喜ぶでしょう」


 アウルスは立ち上がり、困惑するご令嬢を余所に背を向けたまま居住まいを正して帰り仕度を始めた。この場で挨拶する義理があるのは皇帝くらいなので、一声掛けて家に帰るとしよう。


 「そういえば、名乗り遅れておりました。私はアウルス。アウルス・アルトリウス・カエサル・オデイシウス。帝国安閑社、という小さな商いをしている者です」


 「えっと、此の身は……」


 「もし、もっと色々な道具に興味がおありでしたら、どうか帝国安閑社の事務所をお尋ねください。日中は、大抵そちらにおりますので」


 アウルスは敢えてご婦人の名前を聞かずに離席した。人付き合いが得意でないらしい彼女は――何故、使節団に選ばれたのだろう――引き留めることもできずその場に残り、伸ばした手を所在なさげに彷徨わせるばかり。


 こうすれば、相手は名乗れなかったこと、碌に礼も言えなかったことが頭に強く残り、己のことを忘れられなくなるだろうというアウルスの対人戦術であった。


 興味があるからといって、この手の人物に最初から踏み込んではならない。向こうから話したい、会わねばと思わせるのが一番いい。


 想像以上に引っ込み思案で訪ねて来なければ、今度は自分から彼女がいる宴席を訪れればよかろう。さすれば、どれだけ人付き合いが苦手でも挨拶くらいはしてくるはず。


 二度会えば、三度目は気安くなり、少しずつ打ち解けられる。


 無理なく、丁寧に、相手が望むように。人付き合いの鉄則だ。


 これを無視してくる手合いには、また別の戦術もあるが、今はこれが上策。新しい技術を手に入れられそうな出会いに気をよくし、気乗りでなかった筈の宴席からアウルスは揚々と退席した。


 実り多き、黄金の如き一夜であったと楽しみながら…………。












 これ無理ぞ! という叫びを上げ、Bが椅子諸共に倒れた。


 その手に握られているのは、日本語訳された初等理力理論と呼ばれる本であった。


 彼等が生まれ変わる予定のテルースには、理力と呼ばれる、他の創作において魔力や魔法に近い概念が存在する。


 体の中に秘めた何らかの熱量を一定の波長で放てば、物理法則に干渉して現象を引き越すことができる技術は、正しく地球人類にとっては魔法呼べるため、あながち間違いでもない。


 Bは、その技術を工業や科学に転用できぬかと思い、手を出したものの……結果はご覧の通りだった。


 「大丈夫か、B」


 「平気よA。普通に受け身を取れる倒れ方をしてたわ。椅子に座ったままで器用なものね」


 頭が沸騰し掛かったBをAとCが助け起こしている間も、Bは口をへの字に硬く結んで口内で歯を軋らせていた。


 「論理的じゃねぇ……」


 Bの憤りは、その一言に尽きた。


 それもそのはずである。理力の指南は現地でも困難なものであり、同時に感覚頼りな部分が多いのか、解説本を捲ろうと理解できる部分は少ない。


 瞑想して頭の奥の奥にある経路に意識を向けろと言われても、その辺りに随意筋は疎か痛点さえ通っていない地球人類には理解のしようがない。挙げ句の果てに、血管とは異なる理力の経路となる“仮想臓器”が存在すると語られたところで、ない物の感覚を如何に察知すればいいのやら。


 無理もない。擬似的に地球人類の形を結んで、この下準備空間にいる三人は地球人類の感覚しか持っていないのだから。


 たとえるならば、光の三原色以外も視認できる種族の知覚を文字だけで理解しろと言うようなものだ。自転車の乗り方を口語で説明するのが難しいように、理力の感覚は結局個々人の感覚に依る。


 そして、その理力を察知する感覚器を持たない三人には如何ともし難いのだった。


 「くそう、超常現象的な物が扱えるなら、工学や科学分野でスゲぇことができるかと期待したが……流石にここでAに覚えさせるのは無理か」


 「え? 私? そこまで期待されてたん? 時間と手が足りんだろ、魔法使いにまでなれなんて」


 「白い髭と杖をプレゼントしなきゃいけなくなるわね」


 「……どうせなら灰色の方にしといてくれ」


 Bの嘆きの通り、二人が産まれる予定の鉄洞人と低地巨人には理力を扱う適性がない。


 全ては肉体に秘めた理力が、地球と同じ物理法則では存在できない肉体の維持に回されているからだ。


 鉄洞人の肉体は、タンパク質で構築されているのでは有り得ない頑強性と熱耐性に。


 低地巨人の肉体であれば、自重に呻きを上げる骨格と筋肉の補強、そしてトラックと相撲を取れる程の膂力に割かれており、肉体の外に割く理力など余っていないのである。


 さりとて、今は純粋な地球人の肉体に収まっているAには、どうやっても理力を察知することはできないため、修練のしようがないのだった。


 胡散臭いプラーナや気功云々の話ではないのだ。気の持ちようではなく、本当に仙人になれと言われて地球人類にできることなどありはしない。


 Bが放り出した本を手に取ってみたAも、数頁読み進めたところで理解を諦めて放り投げた。


 額に三つ目の目があるつもりで、と言われようと、瞑想の末にその境地に至ったとしても、得られるのは精々が脳内麻薬による幻覚の一つだ。


 「ま、余裕があれば現地で協力者を見つけるさ。私達に必要なのは、魔法を使える単体の強力な個ではなく、世界を席巻するような群体の力だ。無い物ねだりに時間を使っても仕方ない」


 Bの座席を定位置に戻させ、この話はここでお終いと切り上げられた。


 将来的にAが何かしらの悪さをするなど、誰も知らなかったので論無き話であったのだから…………。

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