帝国暦739年 年初 微笑の怪物

 規模が大きい宴席が一部屋で完結することは希で、大きな邸宅の中庭を起点に数部屋を用いて行われるのが一般的である。


 それは気のあった者同士が昵懇になるため、余人を廃して話す場を整える心遣いであり、また疲れた者が人気のない所で休めるようにするためでもある。


 時に若い者が開く宴席であれば、ちょっとした“親交”のため、柔らかな寝椅子がこれ見よがしに設置されることもあるが、流石に皇帝が催した宴席ともあれば、そこまで稚気に溢れた準備はされていなかった。


 年も明けて間もない帝国暦739年。そんな人気のない個室の一つに、一人の壮年男性が濃い疲労を抱えて訪れた。


 いや、その表情から察するに、逃げてきたと表現するのが適当であろうか。


 今回の宴席は、正直に言えば彼が皇帝にねだって開催されたものである。ただ一人の人物と、正式な場で友誼を結ぶことを目的として。


 帝国に多い霊猿人の中でも、これといって秀でた所の見当たらぬ中年男性の名をタレンティウス・マルクス・アタナシウス・テレンスといった。帝国にてイマイチ影の薄い“海軍”の総司令官職にあたる“提督”であり、近年、属州民の力を削ぐことを意図して元老院から起用された、海軍には珍しい帝都産まれの貴族だ。


 元々帝国は陸の国家であり、農業と工業によって栄えてきたが、国体が大きくなるにつれて中央大陸の内海を活用するようになる。


 すると当然、国家鎮護のため海軍力が必要となり、敵国や海賊から自国の商船と漁民を護る設備を整えねばならない。


 しかしながら、地上での戦いを主軸としてきた軍団が急に海に出ると言っても土台無理な話であり、更に世の中には陸上を生活の基盤とする人類では手も足も出ない、水中を生活の場とする人類の存在が大きすぎた。


 そのため、帝国の海軍は代々属州の水棲人類が幅を利かせ、船の建造から運用までを担っていた。


 だが、この構造には論ずるまでもなく大きな問題がある。属州のことに気を遣わねば、今や帝国にとって無視することのできぬ海運と交易が滞ることになるのだ。


 内海の島々に根を張る水棲の有鰓人や鰭持人、更には環礁を飛び回る有翼人の能力は海軍に欠かせぬものであり、また何百年にも渡って受け継いできた航法、操船、そして海戦戦術は決して一朝一夕で乗り越えられるものではない。


 故に帝国の海軍は強くて弱い。統制が完全に行き届いているとは言いづらい上、栄えある陸の軍団と違い、皇帝直下の第Ⅰと第Ⅱ艦隊は最強を名乗るには程遠く、演習にて属州艦隊に歯が立たぬ弱兵揃い。


 この構図を是正すべく、更に属州艦隊の力を削ぐべく抜擢されたタレンティウスではあったが、彼からすれば「地盤もないのに無茶を言うな」と嘆きたくなる酷い話だ。


 海軍の有力者は八割方属州出身であるし、今や帝国市民ですという顔をしていても故郷の影響力を握って手放そうとしない。その上で元老院議員にも食い込んでいるのだから、たかが飾りだけが立派な“提督”の称号で何ができるというのやら。


 結局、こうも水と丘の生き物が別れている以上、丘の生き物は海の上に出たくなくなるものなのだ。たとえ人類が一種類でも、水の適正と陸の適性で区分けされるのだから、より明確ともなれば落ちただけで死ぬような場所で戦いたがる者は少なかろう。


 とはいえ、お役目はお役目。タレンティウスは凡庸だったが、同時に誠実だった。そのせいで全てを諦めることはできず、藻掻くように軍のことを考えて生きてきた。


 斯様な首まで水に浸かって立ち泳ぎし続ける日々の中で、船乗りは星を読んで海を渡ることもあって、天文院の人間と親しくなる。上流の人間は上流との付き合いがあるもので、時間を定める重要な役割を負った帝国天文院の重役とタレンティウスは個人的な付き合いをするようになったのだ。


 そこで彼は素晴らしい物を紹介される。


 外つ国にあると噂されている、如何なる時でも正しく方位を示す器具。そして、使い方を知れば、如何なる場所でも現在地を掴むことができる六分儀。


 これがあれば、産まれながらに方位を掴める種族に陸上の種族でも食らい付くことができる!


 感激したタレンティウスは知人に譲ってくれと頼んだが、どうやら試験的な品を個人的に譲って貰ったに過ぎず、天文院ですら五つしか持っていないのだと断られてしまった。


 天文院も星々の位置を測量する業務で重宝しており、友人のためとはいえ、片手の指と同じ数しかない備品を手放せるものではなかった。


 代わりにと、彼の友人は販売元を快く教えた。別に口止めされている訳ではなく、欲する者があるなら遠慮なく紹介してくれとも言われていたから。


 相手が今をときめく帝国安閑社というのは予想外だったが――大抵の貴族は、玩具と民生品の製造業者という認識している――皇帝が伝手を持っているというのは周知の事実であったため、閣議の後に頼んでみれば「おお、あの坊に会いたいか! よかろうよかろう! アレも喜ぶだろう!!」とまるで親戚であるかのように話は簡単に通じた。


 ここまではよかったのだ。


 そう、ここまでは。


 ただ、引き合わされた帝国安閑社の社長を名乗る男。


 アルトリウス氏族のカエサル家ご次男殿、アウルス・アルトリウス・カエサル・オデイシウスは、強すぎる酒のような御仁だった。


 痩せた長身を覆う、仕立ての良い薄絹のトガやチュニカはよい。名家の子息と言われて納得の洗練された立ち姿であり、相応に鍛え込んでいるのか、帝国人が尊ぶ筋肉質で均整の取れた肢体だ。


 服装も金があるから当然なのか、東方大陸や南西大陸から仕入れたと思しき最上級の絹地を用いており、洗練されたセンスと財力を香らせる。貴人であれば一つ二つ付けていて当然の装身具を何一つ身に纏っていないことだけが気になったが、そこは各人の好みでもあるため問題ではない。


 気になったのは目だ。灰色の目は、タレンティウスが若い頃に社交界を賑わせ、旋風の如く去って行ったメッサリーナとよく似ていた。


 綺麗な大粒の灰尖晶石スピネル・カーヌスを想起させ、緩い笑みの弧に撓む中で強い眼光だけが全く笑っていないのが嫌に印象に残る。


 どこか酷薄そうな血色の悪い顔や、己も広告塔として活用すべく自社商品を使っているらしい、艶やかな白とも金とも付かぬ北方民の髪色よりも、ただただ目だけが忘れられない。


 あの凶悪な目つきを笑みで誤魔化している笑顔は、まるで心の奥底まで見透かされているようだったから。


 いや、まるでではなく、正に見透かしているかのような振る舞いをするのだ。


 タレンティウスの名と趣味を知っているのは、帝国に生きる高貴な身分の人間であれば不思議でもなんでもないが、全ての所作が一歩先を行かれる。


 欲する物があれば一歩先んじて提案され、話を切り出そうと思えば、彼の方から望んでいた話題を切り出される。


 それは商談にも及び、欲しい物を切り出す前に彼は、欲していた商品を下男に持たせていた箱から取り出させた。


 美事な装飾の施された六分儀だ。本来の用途であれば全く不要ではあるが、高貴な身分の人間が持っていても見劣りしないよう、象牙や金細工で飾られた美事な造型の逸品をアウルスは「お近づきの印に」といってタレンティウスに贈った。


 そして続けるのだ。提督がお望みでしたら、今期中にでも御麾下の艦隊に行き渡るだけの六分儀をご用意いたしますと。


 甘い甘い、男でさえ耳が痺れるような低い声。成人して間もない男の声とは信じられぬ声音と独得の抑揚、そして心地よささえ覚えるリズムで声を耳に吹き込む。


 私は帝国の将来を憂う者ですので、提督がお望みとあらば無料でご提供いたしましょう。


 これはタレンティウスには殊の外効いた。


 なにせ彼が預かる海軍の給与事情はよろしくない。属州艦隊は海賊や敵艦隊を拿捕した際、その持ち物を公的に私掠する権利を持っているため豊かに肥えているが――誰一人、元の財布の持ち主を気にしないらしい――交戦の機会に乏しい帝都の艦隊は収入も乏しいのだ。


 飾らずに言うのであれば、予算だけでやっていくのも苦しいくらいに財布の底は浅かった。タレンティウスとしては痛恨の事態だが、三年前には給与の遅配にまで及び、一度私財を投じて船員達に給与支払う状況に陥る程に状況は悪い。


 文句は言うのに金は出さない。官僚が幅を利かせる国の典型的な悪例であった。


 故に気が付けば手を握っていた。後で何を要求されるかも分からぬ男の手を。


 そして、今後ともご贔屓に、と耳障りだけは好い声に酔って、この部屋に逃れてきたのである。


 ああ、一体己は誰の手を取ったのか。そして何を要求されるのか。事態は好転するかもしれないのに、なにかとんでもなく下手を打ったような気がしてならなかった。


 そう、美味いが強い酒を呷った時と本当に似ている。嵌まれば出費も翌日の“酒神の長居”も辛くなるのに、欲してしまう妙なる酒の味と同じだ。


 後悔しても一度知れば欲しくなる。あの灰色の目をした美味で悪い酒は、確実に提督の脳髄に浸透しきっている。


 この気の重さは中々晴れることはなく、後日、アウルスの名義で「よろしければ此方もご採用ください」と贈られてきた、宴席の場で目をひん剥かんばかりに驚かされた“望遠鏡”なる遠方を自在に眺められる器具の製品版を複数受け取って、より強くなるのであった…………。












 いい宴である。アウルスは中庭に置かれた寝椅子の一つに寝転がって、一人悦に入りながら上等な葡萄酒を割りもせず呷った。この体は前世に引き続き酒精に強く、本来は水や蜂蜜で薄めて飲む酒であっても受け止められるのが有り難い。


 酒の旨さもさることながら、皇帝からの誘いを面倒だなと思いつつ引き受けてみれば、望外によい話であった。


 前々から海軍とは繋ぎを作っておきたかったのだ。それを考えてベリルには六分儀を少数だが量産させておいたし――プレス加工機と旋盤がある彼女の工場では、最早数百個は少数である――天文院に売り込む予定だった“望遠鏡”の売り込み先も見つかって万々歳だ。


 軍に食い込むには、兵器よりも民生品から。既存の既得権益に最初から決闘を申し込むより、たらし込んで軍の方から此方に転ばせる方がずっと安全なので、今夜はアウルスにとって黄金以上の輝きを見せる夜となった。


 後はここから帆布や樽なども売り込んでいき、便利さによって帝国安閑社と手を切れないようにしていけば……と商人らしい真っ当な邪悪さを持つ考えを巡らせていると、ふと宴の参加者に気になる人物を見出した。


 中庭の隅、人気の少ない所で長椅子に腰掛けているご婦人だ。


 ただのご婦人ではない。帝都では珍しい人種、理力の民と自称する西方の岸壁にへばり付くように存在する同盟国を単独種族で構成している人種である。


 霊猿人と相似した体型を持つ理力の民――帝国語では理力人――の特徴は、肌と髪が持つ豊かすぎる色彩にある。皮膚は赤褐色から青色に光沢のある黒と実に豊かな彩りを見せ、髪も淡い色味から派手な原色まで千差万別。個体によって色味の違いが激しいため、遠目に見て同じ種族とは判別し難い。


 しかし、それさえ霞む最大の特徴が両眼の合間、眉間より上の額に植わった、産まれながらに有する宝石のような飾りだ。


 それは当人の特性によって色が変わり、成長と共に大きくなり、死と共に脱落して墓標に填め込まれる最大の特徴。霊猿人が産まれながらに持つ理力を、種族全体でより強力に生まれ持ち生理的に超常現象を操る種だ。


 彼等の強力さは歴史にも都度都度語られる領域にあり、時に他国では畏れと侮蔑を以て“魔族”と呼ばれることもある。


 そんな種族のご婦人が一人、所在なさげに座っているのは何故だろうとアウルスには気になった。


 紺に近い青色の肌、夜を掠め取ったかのように艶やかな濃紺の髪という独得の色合いもあって人を選ぶものの、その顔は霊猿人の美的感覚を以てしても美女としか形容できぬ整いぶり。


 貴族的で上品な面長の顔に配された、高く秀でた鼻や伏せられた切れ長の目の均衡は黄金比に等しく、職工が美の理想を求めて彫り上げたかの如く整っている。


 また、額にて輝く産まれながらに持つ宝石も、複雑な赤みを帯びた色彩を放ち、彼女が持つ神秘的な美を引き立てていた。


 西方の重々しい長位に包まれた肢体も魅惑的だ。適度な筋肉に被甲された手足は何らかの戦う術を身に付けていることを伺わせ、慎ましく存在を主張する女性の象徴と釣り合って高い機能美を醸し出す。


 種族が帝国では外様にあたる理力の民でなければ、若い男性が放っては置かぬだろう美人は何者なのか。


 「ん、どうした! ガイウスの倅よ! 彼女が気になるか!」


 問うまでもなく、その答えは同席者の口から飛んで来た。他ならぬ本日の主催、皇帝の口から。


 「理力の民が宴席に顔を出しているのは珍しいなと思いまして。私の“帝国と統治”のテーマとしても採用しておりましたから、少し気になったのです」


 「おお、そうかそうか。なら声を掛けてくるか? 彼女は使節団の一人で、交流のため派遣されて来たばかりでな! 知己が増えればと思って誘ったが、どうやら内向的らしく隅っこで縮こまっておる! お前と繋がりができれば、自然と知り合いも増えよう!」


 皇帝の宴席に参加していたことから分かってはいたが、随分と高貴な身分のご婦人であった。帝国と理力の民は、同盟関係維持のため頻繁に使節団のやりとりをしており、当然ながら重要な同盟国に差し向けられる団員の選抜は慎重を要する。


 帝国であれば護民官経験者や重要な役職を経験した議員の子弟など、身分卑しからざる人間でなければ選ばれない。


 原則に従うなら、理力の民の中でも相当に良い生まれであることに疑いの余地はない。


 元々、この世界に理力式なる魔法――当人達には蔑称であるため使ってはならない呼称――があることを三人は知っていたが、下準備段階では実験もできぬし、専門書にも何やら概念的かつ抽象的なことしか記載されていなかったので、非常に口惜しい思いをしつつ計画に組み込むことを諦めた技術だ。


 新しい交友を元に、新技術の導入に繋がるやもしれぬ。


 そんなことを考えたアウルスは、珍しく自分から人付き合いに対して重い腰を上げることにした。今世では基本的に向こうから来るか、親しい人間から紹介されて来たので、自分から声を掛けるなど久しぶりである。


 一つ心配なのは、宴席でもあるため、酔っ払った男がナンパしに来たと勘違いされないだろうかということ…………。

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