帝国暦736年 初夏 美は金になる

 現代人はやたらめったら体臭を気にして生活しており、日本の制汗剤市場規模は年間平均400億円。香りに関する分野に至っては、世界規模で317億ドルもの市場を有する。


 では、毎日の入浴が習慣付けられておらず、髪を石鹸で洗うことが浸透していない世界では皆が臭いに無頓着なのかといえば、断じて否だ。


 むしろ、高貴な人間であればあるほど気にしており、毎日大変な手間と出費によって臭いを消すことに腐心する。


 高価な香を炊き込んで服に香りを付け、これまた高価な生花を大量に風呂へ入れて湯に香り付けすることで体臭を殺し、そして一瓶で奴隷が買えそうな程高価な香油を輸入してまで購入する。


 昔から人類が臭いを気にし、香りに惹き付けられる習慣は変わらないのだ。たとえ世界そのものが別物となり、ヒト以外の人類種が幅を利かせていても。


 海洋性気候に属する帝都は夏が近づくと暑くなり、湿気も大陸中部と比べると幾分強い。21世紀に日本と比べれば格段に過ごしやすくとも、汗を掻く季節となる。


 そんな中、アウルスからの誘いによって、彼の母であるメッサリーナは茶室に呼び出されていた。


 メッサリーナがアウルスを誘うことは多くとも、逆は珍しいため母は喜んで誘いに応じた。こういった、たまの誘いは往々にして贈り物を渡すための口実であるからだ。


 彼は兄に劣らず孝行息子であり、事あるごとに母へ祝いの進物を寄越してくる。己で事業を始めて収益が上がるようになってからは、更に機会が増えていた。


 夏でも健やかに過ごせるようにと東方渡りの涼しい絹の反物や、近頃では回すだけで大変涼しい風が出る扇風機という贈り物を貰って気をよくしていた母は、今度はどんな気遣いをしてくれたのかと胸を躍らせながら茶室へやって来た。


 別に物を貰うのが嬉しいのではない。息子に気を遣われ、自分のことだけを考えて物を用立てて貰った事実が何よりも愛おしいのである。


 「よくおいでくださいました、かかさま」


 成人を来年に控えても幼児語で己を呼ぶ愛しい息子――そう呼ぶ方が喜ぶとアウルスが気を遣っているのだ――や、机の上に並べられた大量の品は、普段であれば母の心を大いに擽ったであろう。


 しかし、そんな物を全て吹き飛ばし、全ての注目を攫ったのは息子の隣に立つ、見たことのない“途方もない美人”の姿であった。


 恥ずかしそうに息子の後ろに立つのは、霊猿人の女性。年の頃は20と少しといった辺りで、アウルスよりも幾分か背が高い。


 彼女は恐ろしく美しかった。陽に翳せば透けそうな透明感の肌、健康的に朱が差した頬や美しく化粧によって縁取られる琥珀色の瞳。


 何よりメッサリーナの興味を惹き、嫉妬心すら掻き立てたのは、雨に濡れた烏の羽を連想させる艶やかでしっとりとした長髪だ。緩くリボンによって纏められた髪は窓から差し込む光によって幻想的に煌めき、頭頂には冠を頂いたかのように光の輪が輝く。


 そして全身から香るのは、香を焚いて薔薇の風呂に浸かっているメッサリーナが霞むほど濃密な、しかし鼻に不快ではない薔薇の香り。大輪の薔薇を担いでいても、これ程に心地好い匂いを発することはできまいという有様は、まるで神話に語られる大河の神がこの世に使わした愛娘の化身そのものである。


 「どうですか、彼女は? とても素晴らしいしあが……」


 「いけません!!」


 息子の言葉を遮った母は、礼儀も何もかもをかなぐり捨てて息子に抱きついた。それから、紹介されようとしている女との間に自らで壁を作るように立ち位置を変え、目尻に涙を浮かべながら叫ぶ。


 「結婚など! 結婚など絶対に許しませんよ! 約束したではありませんか! 母を置いていかないと!」


 「ちょっ、まっ、かかさ、うぷ、おちつ! はなしを!」


 「駄目です! 認めません! 絶対になりませんよ! 衛兵! 衛兵! こっ、この息子をたらし込んだ薄汚い虫をつまみ出しなさい!」


 「奥様!? お待ちください! 誤解です! わたくしは……」


 「貴女に奥様呼ばわりされる筋合いはありません! つまみ出すのでは足りません! その場で首を刎ねなさい!」


 アウルスは母親からの強い抱擁によって、豊かな胸に顔を埋められて息をすることもできず、反論を封じられる。そして恥ずかしそうに立っていた女も効率的な反論はできず、故に息子を盗られると思った母の狂騒は激化する。


 そう、己が横に並んで勝てるだろうかと一瞬危ぶんでしまう程の美女を紹介されるとなると、結婚の報告と脳が結びつけてしまったのだ。


 結局、沈静化して冷静に話ができるのは、部屋にやって来た衛兵が酷い状況に困惑し、どうにか胸から顔を上げることができた息子から「母上をお止めしろ!」と命令されたことで、恐らくこの場で一番真っ当であろう命令に従ったからであった。


 「ま、まぁ、じゃあ貴女はレイシアなの!?」


 「は、はい、そうです奥様……」


 どうにかこうにか冷静になった母親に息子は漸く本日の趣旨を説明することができた。


 この輝かんばかりの美人の名はレイシア。カエサル家が所有する奴隷の一人であり、ガイウス邸にて働く女中だ。ここ暫くはアウルスが借りるといって世話に使っていたようで、メッサリーナとは顔を合わせていなかった。


 しかし、彼女はメッサリーナが見出した下女の一人であるため、顔は当然知っている。何年も侍らせてきた奴隷達の顔を認識しないほど、彼女も下々の者に興味が薄い訳ではないのだ。


 では、何だってそんな彼女を一目で理解できなかったのかと言えば、アウルスが新製品の“実験台”として側に借りている間、これでもかと磨き上げさせたからであった。


 「……今日は、かかさまに贈り物をしたかったのです。美容に関わるものですから、使用例があった方がよいかと思ってレイシアに手伝って貰いました」


 「まぁまぁまぁ! 一体どんな奇跡を神から賜ったのかしら!? お肌も、御髪おぐしも、本当に素晴らしいわ!」


 「ええ、それを今からご説明いたします……」


 露骨に疲れた表情を見せている息子ではあったが、母も女として見知った女中がここまで変わったことへの興味が上回っているのか気にした様子はない。レイシアも素材はよかったが、こうも美人ではなかった筈なのだ。


 論ずるまでもなく、全てベリルの工房による新商品。先の株主総会にて“お土産”として配られた化粧品や美容製品などを活用した結果である。


 ベリルは新工房の完成によって様々な機器が製造できるようになったため、娯楽に次いで金になる美容品事業に手を出した。


 大量に内容物を煮られる鍋や、水車動力により稼働する混合器。高品質の鉄と加工によって完成した蒸留器などによって、現代でも流通する様々な品が生み出される。


 化粧品は本質的に油の塊なのだ。これを安価に、そして効率的に作り出すことができるのならば、後は配合だけの問題となる。


 つまりは製法を“予め知ってさえいれば”ボロい商売だった。


 光の冠を頂く滑らかにして艶やかな髪は、重曹を説かしたシャンプー、獣脂由来のグリセリンに蒸留器から生み出される香油を混ぜたリンスの賜物である。


 弱塩基性の重曹を溶かした水は優しく皮脂を洗い流して髪を清潔にし、弱酸性のリンスは髪を中性に戻した上で油分を足して髪の表面に被膜を作って滑らかに整える。更には香油の香りを移らせて、歩くだけで良い香りがするようになるのだ。


 そしてグリセリンの精製が簡単になったので、洗髪剤や石鹸のみならず、化粧水や乳液も作れるようになる。


 化粧水にはグリセリンと蒸留水、そして防火剤としても出回る明礬をほんの少し。風呂に入って油分を落として綺麗になった肌の水分を適度に保ち、乾燥することで分泌される余分な皮脂を防ぐ。


 そこに同じくグリセリン――こちらは植物性――に搾油機や蒸留器によって抽出したオイルや香油を足して作った濃密な乳液を重ねることで更に潤いを足す。適度な水分と油を保たれた肌はぷるりとした健康的な滑らかさを取り戻し、赤子のような手触りをもたらした。


 更に化粧品、ファンデーションや頬紅、アイラインなどで顔を飾ってやれば美しさは光り輝かんばかりに強まっていく。これらも全て粉と油の混合物であるため、現代の洗練されきった物と比べれば顔料の質などもあって見劣りするものの、再現することは比較的容易である。


 そもそもファンデーション自体は地球でも古代のギリシアで使われていたように、テルースにおいても流通はしている。ベリルはただ品質に拘り、より滑らかで不自然ではない色味に調色して現代の手法で飾らせただけのことだ。


 最後にほんのりと香る香水、これもまた花を蒸留器にかけて油分を分離して作るものであるため、高性能蒸留器の登場で効率的に製造が可能となった。


 蕩ける肌、煌めく髪、香り高い薔薇の匂い。完璧に武装させれば美しい女性は更に美しくなる。品を並べて丁寧に行われた商品の説明に釘付けになったメッサリーナは、値段を聞くこともせずアウルスに大量に買い付ける旨を宣言した。


 それも、カエサル家に仕える全ての下女が使えるだけの量を。


 「ああ、早く試したいわ!」


 「勿論、そう仰ると思い用意してありますよ、かかさま」


 「まぁ! 本当!?」


 「ええ。それに全てレイシアと数名に技術指導を受けさせております。やれるね?」


 「はい、若様。子細は全てベリル様から、我が身を以て教えていただきました。わたくしなど路傍の石に見えるほど、奥様を磨いて差し上げます」


 「あらあら、うれしいわぁ。あの人も喜んでくれるかしら」


 「父上もきっと頬を染められるでしょう。では、湯殿へお連れしてくれ。もう香油は注いであるのかい?」


 「いえ、奥様に香りを選んでいただくため、全て温めて準備してあります」


 気の利く下女に満足したのか、アウルスは後で小遣いでもくれてやろうと思いながら、そわそわと十代の娘子もかくやの興奮を見せる母を見送った。


 「ふぅ……疲れた。想定外に荒れはしたが、まぁ予定通りか」


 母が去った部屋で彼は首をコキリと回して呟く。


 メッサリーナが勘違いして大騒ぎするのは想定外であったものの、概ね狙った通りにコトは推移した。


 彼は母を広告塔に仕立て上げたかったのだ。


 “征服と統治”の宣伝戦略に兄を使ったのと同じく、母は化粧品をよく宣伝してくれるであろう。これといって多くを語らずともよいのだ。ただ付き合いで夜会に参列してくれるだけで、元々注目されていた美貌を更に輝かせて商品の“威力”を見せつけてくれることであろう。


 さすれば誰もが欲しくなり、どうやって手に入れたかを聞き出そうとする。


 そして、息子自慢が好きな母は遠慮なく教えてやるわけだ。


 可愛い息子からの贈り物でしてよ、と。


 後は帝国安閑社の製品だと知った奥様方が旦那の尻を叩いて購入させるという寸法である。


 更にアウルスは、母が配下を美しく飾らせて悦に入る趣味の持ち主であることも上手く利用していた。


 奴隷である下女にも装身具を惜しみなく下賜し、風呂にもきちんと入らせて、時には化粧品や香油をくれてやる気前の良さの持ち主なのだ。素晴らしい品が手に入ったならば、身の回りの女性達も麗しく飾らせぬ筈がなかろうて。


 母の手によって美人に飾り立てられた下女達は、その姿で普段の仕事をし、用事で方々を訪ねて行く。


 すると皆注目するのだ。あの美人は誰なのかと。何故あんなに美しいのかと。


 全ての注目が母の元へ集結し、そして商売に繋がっていく。


 我ながら上手いこと考えたものだと思いつつ、アウルスは脳内で算盤を弾いて悦に入った。


 なにせ化粧品は高価である。むしろ、製造費が安くつくようになっても高価であることが価値を持つ製品だ。どれだけ素晴らしい品でも、安ければ本当に大丈夫かと訝られ、同時に価値がないのではと低く見られる。


 だから一番安いシャンプーでさえ一瓶100セステルティウスという高値だ。しかも流通に適したお洒落な瓶を新たに焼かせた都合で、容量はケチって使っても5回がそこそこ。洗髪一回が日本円にして約7,200円とは、上等なサロンでも中々しない強気な値付けである。


 それでも格差が地球のそれと隔絶したテルースでは商売として成り立つのだ。美に五月蠅く金に余裕がある上流階級の奥様ともなれば、美しくなるためなら財布の紐はガッバガバの極みとなる。


 「いやまったく、いい商売だ」


 もっと増産させたいなぁ、などと暢気なことを宣いながら、仕事のため事務所に出かけていくアウルス。


 しかし、彼はふと思い出した。あの女共、作っても一人は製品だしと素っ気なかった上、もう一人は「あ、そう」としか言わなかったなと。


 普通、この手の物を異世界でも欲しがるのが女のではなかっただろうか…………。

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