帝国暦736年 春 旧時代行軍/新時代行軍の芽生え

 血の出ない戦争、と形容される程に帝国の軍団兵に課される訓練は厳しい。


 当然である。肉体に秀でた夷狄と真っ当に殴り合って勝利を掴みたいのであれば、厳しい訓練によって鋼の肉体と弛まぬ規律を手に入れて、漸く同じ土俵に立つことができるのだから。


 戦列の基本である横列でのぶつかり合いは勿論、木剣を取っての乱戦、摸擬投げ槍を使っての中距離戦等と全ての訓練は実戦さながらの激しさで行われる。捻挫や打撲などしょっちゅうで、骨が使い捨てられる槍の気軽さで折れていくのだ。


 正しく血が出ないだけで実戦と同じ、と呼ばれても納得がいく。


 斯様な訓練の中で、厳しいのは何も肉体のぶつかり合いだけではない。帝国の軍団は、帝国中のあらゆる大地、必要とあらば外征もして戦うために行軍が欠かせなかった。


 平地を越え、起伏に富んだ山を踏破し、風吹き荒び石が降る谷間を潜る。僅かな遠間も見通せぬ死角だらけの森を征き、時に砂の海を泳ぐように歩き通すのも軍団兵の仕事。


 歩くという最も初歩的ながら、時に殴り合うことよりも難しいことに慣れるのも軍団兵の仕事の内であるがため、模擬戦に劣らぬ激しさでの行軍訓練が執り行われる。


 麗らかな春の日、第Ⅰ軍団第Ⅱ大隊に属する第Ⅲ中隊の総勢122名は、独立した行軍訓練の最中にあった。


 地形を読みながら行軍し、所定の関門を潜りながら制限時間内に目的地へ辿り着くという最も基本的な訓練だ。中隊は戦術レベルでの最小機動単位ともいえ、最も柔軟に行動できる単位として重宝されるため、時に単独で味方の増援へ送り出されたり、大きく迂回して敵の側背を突く任務を与えられたりする。


 また、全ての部隊が“工兵隊”であると他国から恐れられるだけあって、数部隊が先発して壮園や都市の防備を固める事もあれば、予め大部隊が通行するのに適した道を作り上げることも求められる。


 それ故、戦闘力を損なうことなく現場に辿り着くことが彼等の義務であり、それを成すための行軍訓練が責務となる。


 「よし、小休止だ」


 「はっ。各員、小休止! 小休止だ!」


 帝都から離れて平野を行軍していた兵士達に中隊の長である隊伍長より休憩の指示が下される。指示を受けて四分の三程がやっとかと荷物を背中から下ろし、残った少数はへたり込む仲間を護るため緩い円陣を組んで四方を見張る。


 この中隊は帝都を出立して以降、1時間歩いては10分の小休止を取り、3時間おきに30分休む大休憩をとっていた。新しい隊伍長が訓練に際し、最も効率がよい行軍予定として採用したものだ。


 とはいえ、この時間も体感的なものである。帝国においては非定時法が採用されており、日の入りと日の出で一日を昼と夜に等分し、それを更に12等分するという時法を採用しているからだ。


 しかしながら、大凡の兵士がこの休息感覚を正しいし楽だと体感していた。新任の隊伍長は体の中に帝都の天文院に設置された、標準時大水時計でも入ってる。などといった噂が出回るほど正確な時間感覚を持っており、一度古参兵がからかい混じりで問うたそれは、兵営の日時計と僅かな誤差しか生じぬほど正確であったのだから。


 その上、ちょっと手を伸ばして目を細めれば、恐ろしく正確に物の距離を測って到着時刻を予想するのだ。家柄がよい新任の隊伍長を軽く見る兵士は、その巨体と戦闘能力も相まって直ぐに己の態度を改めた。


 この上官なら、有事において己を死地にあっても死なせないのではないかと思えるから。兵士達の不文律は、道に迷わず、状況を見誤らない、自分達を生かして帰してくれる指揮官は大事にすることである。


 「足を上げて寝転がっておけ! 次は大休憩だ! 帝国軍団兵として気を入れろ!」


 休む兵士達がだらけすぎぬよう監督する卒長――彼等は兵士の中から互選によって選出される――の声を聞きつつ、そろそろ新任の冠が外れ掛かったカリス・イラクリオン・アルトヴァレトは地形から現在位置を読んで、行軍に後れはないなと内心で安堵した。


 兵士からナメられることもなく、己より軍暦の長い卒長に軽んじられることもなくなって、指揮官としてやっとこ一端になりつつある若き隊伍長は、一際巨大な水筒から水を呷って水分補給しつつ、次の休憩までに水源に辿り着きたいと考えた。


 必要だと分かっていても面倒な訓練だ。装備と生活物資を担いで行軍するのは難儀極まり、挙げ句にこちらの限界を試すよう設定される目標は嫌らしいまでに過酷である。到底不可能な目標なら巫山戯んなと笑って済ませるが、頑張れば達成可能なのが何とも腹立たしい。


 ああ、車があって軍団が機械化されていれば、こんな訓練をせずに済むのにと現実逃避気味に考える。


 しかし、カリスも分かっていた。たとえ車両があろうが最終的に歩卒の仕事は歩いて敵地に乗り込むことだ。便利な足ができた所で訓練の趣旨も必要性も何一つ損なわれない。今、帝都で新商品のタイヤとサスペンションをスポンサーに見せびらかしているベリルが車を作ったとしても、カリスが軍団に居続ける限り徒歩の苦難から逃れられることはない。


 「順調ですな、隊伍長」


 「そうね……天候が安定してくれればいいけど」


 「崩れますかね?」


 「微かに雨の匂いがするわ。北から湿気った土の匂いが来てるから、もしかしたら一雨あるかもしれないわね」


 「隊伍長も感じておりましたか。参りましたなぁ……」


 補佐役として隣にいる最先任の卒長と行軍予定を話ながらも、カリスの意識は半分以上が“欲しいもの”に割かれていた。仕事は適度に熟しつつも、将来的には重視するものが変わると明確に分かっているが故の気の抜き方である。


 自分の手と指、そして平均的な高さが分かる樹木の高さでアタリをとり、三角法を使った大まかな測量を頼りに進んでいるため位置に誤りがないことは確実だった。それにベリルが試験的に作成した方位磁針による方位計側も定期的に行っている。これから前が見えないほど酷い雨に降られなければ、設定目標より4から5時間は早く関門を通過できるであろう。


 しかし、あまり位置がよろしくない。北にある山のせいで、この辺りの雨は一度降り出すと長いし強いのだ。帝国の東部は海が近い海洋性気候に属しているので、一年を通して頻繁に雨が降る。鬱陶しい雨期がないのは幸いであるが、降る時はいつでも降るのが軍人にとっての悩みであった。


 雨が降れば行軍速度は落とさざるを得ない。地面が不安定になって歩きづらいのは勿論、場合によっては天幕を広げて凌ぐ必要性も出てくるだろう。訓練で落後兵を出しては、後でどんな叱責を受けるか分かったものではない。


 抗生物質もないこの時代、風邪は命に届く病なのだから。


 卒長の命令で見張りの兵と休憩の兵が交代しているのが見えた。小休止もあと僅かだ。


 「少し行軍速度を速めた方が良いわね。場合によっては次の大休憩は飛ばして、森に沿って行軍できるようにしましょう」


 「その方が無難ですな。降らぬに越したことはありませんが」


 「随分気にするわね……何か帝都に気がかりでも?」


 「いやぁ、第Ⅰ中隊の者と賭けをしておりまして。最近お前の所の中隊長は調子に乗っておらんか、と煽られたもので、煽り返したら簡単に乗ってきましてね。勝ったら200セステルティウスですので、気が抜けぬのです」


 「……上司を出しにして賭けをするのもどうかと思うし、それを堂々と本人に言うのは、もっとどうかと思うわよ」


 我らが中隊長は兵児に優しくいらっしゃるので、と悪びれもなく笑う年嵩の霊猿人に対し、古参兵は本当に口が減らないと若い隊伍長は溜息を吐くのだった…………。












 「あ、そうそう、これ土産な。カリスに渡してやってくれ」


 そういって机の上に置かれた品々を見て、アウルスには何のための道具がぱっと用途が思いつかなかった。


 「……なにこれ。お洒落な分度器?」


 素直な感想を受けた職工は、がくっと体から力を喪って頽れかけた。


 まぁ、精度を高めた工作機械の数々を活用し、父の伝手で天文院より地球とは全く異なる天文図を手に入れて作った器具を“洒落た分度器扱”いされてしまえば、力の一つも抜けようものか。


 この名家の御曹司は帝国の七課として天文を修めてはいるものの、それは帝国基準の天文であり、さして興味もなかったのか下準備段階で現世の天文学には触れていなかった。


 故に知らぬのだ。この天文のみならず航法における革命的な道具のことを。


 アウルスに言わせると分度器のような器具を組み合わせ、銃に乗せるスコープを想起させる筒を乗せた器具の名を六分儀という。


 天体と水平線間の角度を測る器具であり、これを使えば標のない海の上であっても天体の位置と時刻より緯度と経度を計算によって割り出し、現在位置を特定することができる。


 簡単な数学の知識があれば、後は天文学によって海の上だろうと陸だろうと現在位置を特定できる道具は、軍人にとって何より役立つことであろう。


 これを完成させるため、ベリルは思い出すのも辛いような苦労を重ねていた。


 専門外である天文の知識を学び――知らなければ、完成したか失敗したか分からないからだ――作る度に現れる数値のズレに悩まされながらも、折れることなく再挑戦し続けてやっとの完成だ。父の知人である天文学者から、発想はよいが完成までは遠いな、と煽られた悔しさがなければ、完成は更に遠かったであろう。


 正しくベリルの努力と勉学と憎悪の結晶なのだ。お洒落な分度器などと軽く扱われては堪らない。


 しかしながら、熱弁を振るった職工に対し、長台詞を聞いて尚も実業家の反応は塩っ辛く淡泊なものであった。


 「ああ、星を見て海の上でも方角を割り出せるってのは、こういう道具があるからだったのか。なるほどなぁ」


 「そ、それだけ……? 文系寄りの経済屋はこれだから……。お前、仮にも天文学を修めてんだろ……!?」


 「軌道を読んで時節と照らし合わせる学問なんだから、こっち基準の知識しか知らんよ。お前だって貸借対照表すら碌に読めんだろうが。門外漢が専門知識を知らないことを馬鹿にするんじゃありません」


 あっさりと斬り捨てられて気力が折れたらしい職工は寝椅子に倒れ伏し、もうこのまま不貞寝してやろうかという気分になった。


 「で、これをカリスに渡すのはいいが……量産は?」


 「馬鹿言うねい、どんだけ繊細だと思ってやがる。俺が手作業で一から作らねぇと無理だよ。実用して貰って、誤差がないことを確認したら天文院に売り込んで、そっから更に海軍に売り込んでくれや……プレス加工機と研磨機が安定すりゃあ、職人の育成次第だが日産20個は作れるが」


 「ふうむ、よく分からんが分かった。それよりも、アイツはこれを使えるのか?」


 「準備期間に使ってたぜ。航海技術が発達したら、誰が何と言おうとコーヒーを探しに行くとか言ってた」


 「あー……カフェイン中毒だもんな、アイツ」


 しみじみと友人の困った趣味を回想していると、同時に準備期間を終えたら暫く、下手をすれば何十年もコーヒー飲めなくなることに布団を被ってブルブル震えていた姿まで思い出してしまった。今更ながら、上背が180cmを超えるいい年こいた女がやっていると、普通に恐怖を覚えるような光景だったなと。


 これで天測航法が発展し、船乗りが安全に外洋に出て何百kmと離れた遠い大地に辿り着けるようになれば、帝国の世界はがらりと変わるだろう。中央大陸の南にある亜大陸と幾つかの属領、交易路が通った遠い東と南東の大陸。それ以外の世界を発見したなら、国家は今のままではいられなくなる。


 アウルス的には外征するより、現地の人々に取り入って信託統治領や同盟国を広げながら資源網を発達させて貰うのが一番だが、新たな未征服の土地に心を躍らせる者も少なくはなかろう。どうなるかは見つけてみなくては分からないが、楽観はしていられまい。


 そう考えると、また早い時期にとんでもないものを作ってくれたものだ。


 「……しかし、探しに行くと言ってもアイツ、海は大丈夫なのか? 軍団兵なんて完全に陸の人だろうに。私も今の所は海軍にはコネがないぞ」


 「そう考えると運がないよな、カリスも。海軍人のお家に生まれてりゃ話も違ったんだが」


 カフェインを求めて異世界の大地を這いずり回っている低地巨人を憐れみながら、二人は遠い異郷で赤い実をつけてくれているだろう豆を思う。二人もカリス程ではないが、あの香ばしくほろ苦い液体には受験期や試験前、そして激務の時に助けられていたから。


 「あ、やばい、困った、思い出したら飲みたくなった」


 「やーめーろーよー……俺まで飲みたくなるぅ……。あーあ! コーヒーリキュールが飲みたいなぁ!!」


 「あまーいコーヒー牛乳が飲みたい! あの明らかに体に悪いのが分かる甘さが恋しい!」


 今は遠い故地の味を思い出してジタバタし始める転生者二名。死んだから仕方ないといえば仕方ないものの、やはりこの地に来るに至って失った物は多い。たとえ前世で稼げる筈だった生涯賃金の何倍もの金を稼げていても、欲しい物が手に入らない現状はあまりに歯がゆすぎる。


 コーヒー、煙草、東の植物群がなければ手に入らない薬味に酒精の強い蒸留酒。愛しい全てを取り返すのには、まだまだ時間が必要だ。


 「……あ、この残ったヤツは?」


 「ああ……こっちは方位磁針。磁石が産出する山に住んでる鉄洞人部族から融通して貰って作った。これは試作品はカリスも持ってるが、そのアップグレード版のオイルを封入して精度を上げたヤツだから、渡してやってくれ」


 「え? 磁石って鉱山から採れるの?」


 「あーもー、めんどくせぇなこのシティーボーイ様は……」


 うざったそうに講釈を垂れる職工と、分かってるんだか分かってないんだか微妙な「はえー」という間抜けな声を上げる実業家。


 マッチの時と同じく、また軍人が捧げ持って新しい宗教を起こす物品を挟みつつ、その彼女が辛い行軍をしているなどと知らぬ民間人二人は、気が抜けるような時間を贅沢に過ごすのであった…………。

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