帝国暦736年 春 帝国安閑社

 久方ぶりに頭の中ではなく現実で算盤を弾いているアウルスは、俄に忙しくなったなと多忙さを噛み締めると同時、眠気を追い出すカフェインの慰撫を恋しく思った。


 舌を楽しませる香草茶や一時の享楽を与える酒があるとしても、やはりカフェインの覚醒効果は代替が利かぬ。また、行き詰まった時に脳を慰めてくれる煙草の不存在も口元を寂しくさせる。どれだけ願っても遠い、かつては小銭があれば手に入った物が黄金を積み上げられるほど稼いでも手に入らぬ状況が酷く虚しかった。


 帝国暦736年の春、アウルスが発足させた株式会社が昨年の夏に皇帝の認可を受けてから、管理する物も仕事も大量に増えたのである。


 設立当初も何かと大変であったが、今はもう来年には成人だということを忘れてしまう程に忙しかった。


 正直な話、株式会社設立に至っては皇帝が認可さえすれば、後は手間こそかかっても話は簡単であっという間に進んだのだ。


 契約は約款さえ作れば、後はベリルの工房で印刷してもらえば共通項目を何時間もかけて書き写す必要はないし、株券だって偽造防止のため版画で作らせたので――細かな彫りのクセまでは、流石に模倣しきれない――発注させしてしまえば2~3日で届けてくれる。


 合意し、互いに記名して血判を捺す手間は、資本を確保する喜びの瞬間だと思えば手間とは言えまい。


 合理を考え下準備期間に練り終わっていた案を形にするだけに等しかったため、株式会社設立自体は本当に大した問題ではなかった。


 皇帝の後押しもある上、投機に目がない帝国貴族達は証文による大金のやりとりにも慣れていたため、金を証券と引き換えることに大した抵抗を覚えなかった。況して、売主が丁寧に皇帝の信認に裏打ちされた利益を説明すれば、深く聞くこともせず握手に及んだ者もいる程だった。


 皇帝の次にリウィア嬢を初めとするコルネリウス家諸氏が株式を購入してくださったのを皮切りに――私が最初ではないのですね、と悲しがられたが――ガイウスの友人やアルトリウス氏族の演者が続々と株式を購入し、予算は驚くほど大量に舞い込んできた。


 当初予定していた株式の発行数は三日で定数に達し、500,000セステルティウス約1億8千万円もの大金が何も始まらないうちに転がり込んできた。


 これはまぁいい。集めようと予定していた金額であるし、株主名簿は混乱しないで済むようにフォーマットも事前に用意してあった。株主の名前と所有株式の数は正しく合うよう、カリスも駆りだしてダブルチェックを行って調べたため、むしろ平穏の内に終わったと言えよう。


 それに来期に備えた、初の株主優待の準備も好調だ。株式の最低単元を100からにしていたため、100から500株までなら“征服と統治”の最新版を50組。


 それ以降は100株ごとに“豪華箔押し特別カード”を三枚ずつという大盤振る舞いをし、1,000株を超えれば“特装家紋入りカードケース”を進呈というエサまで吊した。これを受け取って喜ばぬ株主はおるまい。コレクターならナンバリングが施されているカードやケースの希少さは勿論、好事家に高く売れるため興味がなくても嬉しかろう。


 問題はその後に続く、株式の件を聞きつけた投資家連中から――知己の有無を問わず――私信が山のようにアウルスの元へ届けられる日々の到来だ。


 美味しい商売に噛ませて欲しいという一方的な話から、株式とやらの次の発行はいつかとの問い合わせ。直に会って詳しい話を聞かせて欲しいと誘う、明らかに接待であることが窺える茶会や夜会の誘いなどが止まない日が続いた。


 これには流石のアウルス贔屓であったメッサリーナも怒り、こんなに毎日館が騒がしくなるようならお金は私が用立ててあげるから、ややこしい商売なんて辞めてしまいなさいと叱られ、慌てて事務所として空いている邸宅を一軒借り上げることになってしまった。


 返事をせねば無礼にあたる相手からの誘いも多かったため――畏れ多くも元老院議員の名さえ幾つかあったのだ――アウルスは慌てて帝国語に堪能かつ字の綺麗な奴隷を探す羽目ことになった。


 本来ならば社員には、アウルスの補佐役として働くことを期待して出生時に購入された二人の奴隷を迎え入れる予定であった。しかし、アウルスと同い年である奴隷は十分な教育を終えておらず、実務の場に出すには未だ頼りない。


 さりとて手紙の処理で一日が終わるようでは仕事にならないため、背に腹は代えられない。アウルスは泣く泣く事務員として高級な奴隷を買い入れるために財布を叩いた。


 別に金が惜しかったのではない。予定に綻びが出来るのが嫌だったのと、気分の問題だ。


 飾らずに言えば、防諜やら信頼やらの問題が半分。もう半分が気分だ。


 他の貴族のように“高級な家具”として扱うには前世の人倫がアウルスには濃く残りすぎ――なればこそ、ああも手厚く工房の職員に休日出勤手当を支払うのだ――ていたし、金で買われた人間は簡単に金で転ぶからなぁ、という懸念のせいもある。


 しかし、働き手がいなければ最低限の仕事さえ成立しないのも事実。雑事メールチェックで社長が動けないなど笑えないため、結局は色々諦め、教育の行き届いた奴隷を信頼できる筋から購入することと相成った。


 邸宅の一室に奴隷の住まいと書簡の処理室を用意し、返信用の定型文を何パターンか用意して時間を稼ぐと、アウルスはデヴォン氏族を身内として完全に取り込みに掛かった。


 これもロードマップ策定時から決まっていたことである。株式会社を設立したらならば、ベリルの身内を株主にした上、ベリルを役員にし、親方を取締役会に囲い込む予定だったのである。


 急に豪華な邸宅に娘諸共呼び出されたグインは大層訝しんでいたが、娘の腕を褒めちぎられると、それはもう瞬く間に態度が軟化して全てが順調に進んだ。


 株式会社の配当も簡単に理解してくれたし、これからベリルが作る発明品を自家で扱って大々的に売り出したいため、専用の工房用地と設備を購入する予算を提供すると言うと一も二もなく工房拡大の話に乗ってくれた。


 これは彼が単なる親馬鹿だったからではなく、アウルスが普通ならば有り得ない厚遇での契約を持ちかけたからである。


 買った土地と設備はなんとデヴォン氏族に贈与され、必要なのは契約存続中の生産品を全てアウルスの会社に卸し、技術を余所に売り渡さないという制約のみ。何度も鋭い目が契約書の文書を切り刻むように往復し、本当にこんな条件でよいのかと咀嚼するが如く問い返されて尚も若き霊猿人実業家が頷いたが故のこと。


 これが少しでもデヴォン氏族に不利な内容が含まれていたならば、グインは直ぐに何らかの策謀を疑って話を打ち切ったであろう。たとえ相手が可愛い娘の取引先で、出世の花道を飾ってくれた一人だとしてもだ。


 A・B・Cトリオが背負った事業の重さと、前世を含めて途方もない時間を共に過ごした絆あってこその契約であったが、それを知らぬ余人の目には大層奇矯に映った筈だ。それこそ若き御曹司がベリルに懸想し、その体を求めたというあらぬ噂が流れたくらいである。


 しかしながら、詐欺のように思えようが、実際自分が損のしようのない契約を呑んだデヴォン氏族の行動は早かった。帝都から馬で数日離れた、用水権を含めて都合の良い土地を確保すると早速その請求書を送りつけてきたのだから。


 何はともあれ、訝られながらもベリルの夢と自分達の生活利便向上の欲を詰め込む工房の確保に成功した後は、昨年の夏中に兼ねてより予定していた“カードショップ”の開店に向けて勤しんだ。


 富裕層を対象とした商売であるため、適当な店舗を見繕って開業するのではなく、一等地の邸宅を買い上げて改装することで店舗を整えた。


 一階には売り場を入れ、新品のパックは勿論、不要なカードを買い取っての故買も進める算段であった。


 現代人からすれば販売元が故買もやるって、それ後から刷るカードで古い安価なカードの値段釣り上げる気満々じゃねぇかと邪推されてしまうだろうが、残念ながら製造も販売も一元化している中では製造元が法にして神である。バランスさえある程度気を付けていれば、誰に咎めることができようか。


 それにだ、アウルスがやらなくとも、どうせ誰かが思いついてやり始める。ならば、先に始めて商売の花形でも作ってやった方がよかろう。帝都も広く、プレイヤー人口も増えていったなら、その内にどう頑張ってもアウルスだけでは手が回らなくなるのだから。


 中古販売の是非はさておき、広い売り場以外の部屋は遊戯室として開放し、社交スペースとレンタルスペースに分ければ普及に一役も二役も買ってくれるであろう。社交目的で始めたプレーヤーは頻繁に訪れて知人を作るため席料を払っていく筈で、熱心なプレーヤーならば強化したデッキが負けたら自棄になってパックを購入してくれる公算が高い。


 そして、十分に期が熟したら店舗大会を開くのだ。大会限定の賞品を掲げたようなものを大々的に。


 企みを話した時にベリルとカリスから「鬼! 悪魔! 千川!!」と散々に指をさして煽られた思い出は良いとして、箱物の外観補修と内装及び賞品製造で200,000セステルティウスほど掛かったものの、計画通り夏に開店できたカードショップの経営状態は良好そのものである。


 店舗在庫は常に品薄な位捌けているし、続いて発売した第Ⅲ版<壮園防衛>と第Ⅳ版<軍団召集>もそれぞれ目玉となる新カードタイプと新能力の採用によって、店に客が来すぎて市中警邏の兵士から叱られるくらいの騒ぎに発展する程に売れた。


 同タイプの闘士が集まると力を増す<戦列>やコストを払えば労働力から手札に戻る<非常呼唱>を持つカード群は、更にデッキの柔軟性を上げてプレイヤー達に喜ばれたのである。


 今までも母が怒るに十分な盛り上がりであったが、仮にもアルトリウス氏族の有力家の邸宅を訪ねているだけはあったのか、遠慮が欠片程度なれど残っていたのだろう。


 さて、カードショップの繁盛に伴い、株式会社設立の効果も大変な物だった。


 まず、市中に出回りつつあった“征服と統治”類似品の殆どが消え、同時に贋作も根絶に近い状態にある。皇帝が“征服と統治”に出資し、更に長子殿がお熱だという噂が良い感じに回って愚か者の頭を叩いてくれたのである。


 組織的に動こうとしていた者達はリスクと売上げを秤に掛けて諦めていき、贋作制作のグループも他の同業者から「俺達まで目ぇつけられたらどうすんだ!」と袋だたきにされたのか静かに消えていった。


 アウルスとしては皇帝のネームバリューと権力の強さに感じ入るばかりであったが、効果の絶大さはTCG事業の利益を護るのみならず、“次の商売”を始めるにあたって気が大変楽になって慶事が二度重なったようなものだった。


 そして時を経て秋、カードショップに設置し、口コミで売れた手回し式扇風機で小銭を稼いだ後、火を焚く機会が増える冬を前に、満を持してマッチの販売が始まった。


 延焼の危険があるため耐火性が高い金属の箱を付属にした20本入りが一式で25セステルティウス約9,000円。バラ売りで20本ごと10セステルティウス約3,600円


 つまり、現代の価格に換算すればマッチの一本が約180円というぼったくりに近い価格設定であったものの、簡単に火が付く道具はTCG事業が霞むほどの売れ行きを記録した。


 それこそ発火点が低いことに肖りでもしたのか、爆発したような勢いだったとアウルスは日記に書き残している。


 注意書きを添えて――読めるかは兎も角、火事になった時の責任逃れだ――販売人に口頭説明までさせる厳重さで売り出した品は、まず皇帝が自家と軍のため大量に購入して配布したことで噂が拡散された。


 買った物を皇帝は軍への報労とし、火起こしに難儀し、時に上手く火が熾せず困窮することも多い兵士達のために配布したのである。


 兵士達が簡単に火を熾す道具を持っていることで噂が広まったが、出所が知れるのはあっという間だった。


 それも当然である。アウルスが口コミだけに頼らず、実演販売をさせたからだ。


 その際にも口酸っぱく、密閉して暗所で保管せねば発火すると――黄燐の発火点は60℃と簡単に自然発火する――売り口上で説明させるという、購買意欲を削ぎかねない売り方をしたものの、市民層から富裕層まで幅広く買い求められた。


 誰にとっても火を熾すというのは、それ程面倒臭いことだったのである。


 グインの工房では「ちょっとやらかしたヤツへの罰」扱いされつつある黄燐マッチの生産は日産数千から10,000本に及ぶが、生産が追いつかぬほどの旺盛な需要で連日マッチ売りの露天に人が詰めかけることとなった。


 これにアウルスは大変気をよくする。暫くの期間は日雇いの人足を雇って自社販売することで利益を稼いだが、需要に目を着けた商人達が集まってきてから小売りにシフトするので十分利益が上がるようになった。


 これだけ売れてくれれば、小売業者など選り取り見取りだ。時間をじっくり使い、誠実で転売なぞせぬ業者を選定することができる。


 しかし、売上げは好調であったものの、製造元各位の懸念通りに厄介なことも起こった。


 どれだけ注意しようがアホは話を聞かないからアホなのであり、人類が人類であり続ける限り根絶し続けることはできぬ。


 それを証明するように、こうも諄い程注意したにも拘わらずマッチの不始末と思われる火災が昨年冬の間だけで数件起こってしまったのだ。


 数例挙げるならば、一件はマッチの箱を開けたままマッチを擦り、その火花が箱に飛び込んで十数本が一気に燃え上がって近くの物に燃え移るという不注意による事故。


 もう一件は力を込めすぎたせいで軸が折れて先端が燃えながら吹き飛び、詰んであった服の山に飛び込んで燃え上がったという操作の失敗による事故である。


 他も大体似たり寄ったりで、火を使ってるんだからもっと気ぃ付けろよ! と怒鳴りつけてやりたくなる事案ばかりだったが、幸いにも火元がどれも使用者によって直ぐ消し止められたため、大火に発展することはなかった。


 されど、これを民会も元老院も重く受け止め、一時は危険すぎるから製造も販売も禁止すべきではないか? とやり玉に挙げられるには十分過ぎた。販売するということは無知で軽率な者の手にも簡単に手に入ってしまうことであり、それを放置するには帝都には燃える物も、同時に燃えて困る物も多すぎた。


 まぁ、簡単に火付けができるようになるではないか、という「もう松明とかあるから今更だろ」ということを言い出す者が出て来ても不思議ではないほど、帝都は火事が多い都市でもあるから。


 が、此処でまた皇帝と株主の威光が光り、予期せぬ所からの援護も飛んでくることとなる。


 まず、これが皇帝を初めとした有力者が投資している事業であり、同時に強い権勢を持つアルトリウス氏族の一家が行っていることが重要だった。株主には当然ながら有力なアルトリウス氏族の者もあれば、発言権を持つ議員も含まれ、中には有力な属州総督や官吏として宮廷に参内している者もいる。


 彼等は直接に声を上げると態とらしすぎるため、政治工作によって仲間を引き入れ擁護させた。


 また直接カエサル家とは繋がりがなくとも、次の発行時に株を買おうと虎視眈々と狙っていたりするものや、株式のアイデアを自分も使おうと準備していたりする者も自然と擁護派に回る。


 前者は見つけた美味い蜜が湧き出す泉を埋められては困るから。後者は乗っかろうとしていたアイデアが転けてケチが付いたら自分が儲けられないからである。


 喧々囂々の議論が繰り広げられたが、トドメとなったのはマッチの購買層となる“市民層”からの擁護であった。


 議員にとっては面倒だから安全な方法を使って欲しいのは当然のことだが、マッチを使うのは多少財布に余裕がある市民権を持つ市民層だ。生活を楽にして、面倒臭い火起こしの手間を削減してくれる素敵な道具が発禁になるのは耐えられなかったのである。


 帝都における政治とは市民からの人気取り、という側面も強い。時に市民からの支持が受けられなかったならば、有力な家の議員でさえ、あっさりその立場を失うことさえある。


 とどのつまり、人を動かす立場でいたかったら人に好かれていなければならないのである。昔から人気取りだけが得意な無能や、狡っ辛い僭主が合理的な善君を押しのけて台頭する政治の毒は、今この世からも取り除けていないのであった。


 販売側は十分に気を遣って鉄の箱に入れて販売し、説明も行っているといった責任論の話に始まり――暗殺者が持つ短刀を作った鍛冶屋に罪はない論法――マッチがなくとも不始末での失火は幾らでも起こっているとの火を使う側が追うべき責任の話になり、最終的には人気と名前に傷を付けたくない議員が規制側から降りて、なぁなぁの内に話は立ち消えになった。


 どうにかこうにか窮地を乗り切ったマッチ事業は続き、むしろ議会で規制論が出たことも相まって人々の間に噂は浸透して更に売れることとなったのは、怪我の功名と言うべきか。


 これらのイベントがありながらも実り多き一年は過ぎ、初夏の株主報告会に向けて収益報告書を作成しているアウルスは忙しさを噛み締めていたのだった。


 人の管理も売上げの管理も自分でやらねばならぬのが死ぬほど面倒臭い。販売に関しては父から誠実な為人の家人や奴隷を借り、在庫管理と報酬システムを徹底することで横領させず上手く回しているものの、最終的な売上げの話はどうあっても自分で面倒を見てやらねばならないから困りものだ。


 前世から持ち込んだ知識である複式簿記に基づく貸借対照表をこねくり回し、買った土地や工場設備、生産に関わる原価、職人と販売員に配ったボーナス、そして最終的な売上げなどを瑕疵なく埋めていくのは神経を使う。


 特に販売単位が数万を軽く超えるようになっているのだ。一人で算盤を弾くのにも限界というものがある。チェック要員としてカリスを捕まえて、計算ミスがないか検算させるのにも限界が来ていた。たまの休みに呼び出すなよ! と恨み言をぶつけられ、高い借りを――金額的に――背負うのはもうご免だ。


 彼女は彼女で隊伍長として多忙を極めているので、護衛との二足の草鞋で辛い所に三足目を足されるのは我慢ならぬのも理解はできる。兵営に住まずともよい特権と護衛仕事を優先できる事情はあるとしても、最低限果たすべき責務は多い。近代の軍隊に準えれば中隊長なのだ。そりゃあ忙しくない筈がなかろうて。


 「ふぅ……決算書はギリギリになりそうだな」


 元より細い目を更に細めて帳簿を眺めていたアウルスは、目頭を揉んで顔を上げると随分と外が暗くなっていることに驚いた。頭上には大枚叩いて買い求めた理力光源の室内灯があったため、集中によって時間の経過が頭から追いやられてしまっていたのである。


 その甲斐あってか、帳簿の内容は粗方整った。


 今期の利益は――春から始めて春に締めるのは前世からの癖だ――TCG事業での純利益が、今期販売分累計800,000組を売上げて約2,600,000セステルティウス。家具事業が扇風機120台で純利益が約15,000セステルティウス。


 そして気になるマッチは累計販売本数500,000本を超え、純利益約220,000セステルティウス。


 初の会社として立ち上げた帝国安閑社。帝国よ安らかなれ、と願って名付けられた会社の初年度純利益は約1,500,000セステルティウス約5億4千万円となった。豊かな地で幾つか壮園を経営したのに近しい利益だ。元老院議員の役職手当すら200,000セステルティウスも上回る計算になる。


 今年も同じだけ売り上げられる確約はないが、使った元手や人、規模と比べれば十分過ぎる売上げである。一次産業に数万人が従事して得られる利益を総関係者百人足らずで成し遂げたと考えれば、まぁまぁの数字ではなかろうか。


 「はー……久しぶりに息抜きで工場査察にでも出かけるか。暫く新製品を見てないから、どうせ何か面白い物を作ってるんだろうし」


 書類を纏めたアウルスは重厚な鋼鉄製の金庫に全てをしまい、鍵を掛けて首からぶら下げた。これはベリルが金属製品を作る練習がてら仕上げた試作品の“タンブラー錠”であり、一品物故に量産性が低く発売は見送られているが、今の所錠前職人が一人とてピッキングに成功していない帝国一安全な鍵である。


 「ま、それよりも今は休憩だな……風呂屋にでも行って寝るか」


 帰れば風呂も食事もあるが、時間が遅くなったのと疲れたのでどうにも億劫だった。なのでアウルスは供も連れず外套で顔を隠し、ひっそり風呂屋に行って安い酒房で食事を買い求め、事務所で寝ることにした。


 母からの小言を聞くのもまた億劫ではあるものの、今の怠さには代えがたい。


 それに、少しだけだが歩きたい気分だったのだ。


 数字によって示された勝利を噛み締めながら…………。  

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る