第18話 結核

 それからの毎日は、大変だった。今から、思い返してみても、良く頑張って来たと、自分でも思う。店の権利は建前上は旦那さんになるんだけど、旦那さんは殆ど口を挟まなかった。「君に任せる」って言うから、自由にさせてもらうことにしたの。まず、女の子の中から一番信用のおける子をママに引き上げて、店の運営を任せることにした。私は、店でのホステスの仕事は減らして経営に関する仕事を中心にすることにしたの。お金のやり繰りはもちろんの事、店の人事や対外的なヤクザとの折衝が私の仕事になった。


 赤ちゃんを育てることに関しては、産婆さんを頼ったわ。いや、そんな綺麗事じゃなかったかな。それこそ、和子お姉さんの死を盾にして、責める様にしてお願いをした。なんせ、私は、子供を育てる準備も知識も無い状態で子育てが始まったから、無理にでもお願いするしかなかったの。その分、ちゃんとお金も払ったのよ。


 忙しかったけれど、とても新鮮だった。何が新鮮だったかって言うと、この私が、誰かの為に一生懸命になっていたことなの。私は、我儘な性格だし、自分の事が一番好きだし、誰かの為に何かをするなんて、全然考えられなかった。そんな私がね、旦那さんと赤ちゃんの為に一生懸命になるの。自分でも不思議だった。それが出来たのは、もちろん、旦那さんに対する私の想いがあったからなんだけど、もう一つあるの。それはね、アンデルセンの人魚姫なの。吃驚したんだけど、旦那さんの家にね、その本があったの。小さな頃に読んでいた大好きなお話だったでしょう。見ただけで、私の心は子供の頃の私に戻ることが出来た。


 人魚姫の話って、知ってる? 可哀そうな話なのよ。結局のところ、王子様に対する人魚姫の想いは伝わらなくて、人魚姫は泡となって消えてしまう悲しいお話なの。一生懸命なのに、報われない。そんな話なんだけど、私は、どこかその人魚姫の生き方に憧れていたんだと思う。


「アンデルセンの人魚姫」


 私は、旦那さんの家で、懐かしそうにその本を手に取ったわ。表紙を開いて読み始めると、旦那さんが問いかけてきたの。


「本が好きなのかい?」


「ええ。このお話、子供の頃に読んだことがあるの。とっても懐かしい」


 戦争が終わって中国から復員してきた旦那さんは、足が悪かったんだけど、胸も悪くしていたの。結核っていう病気なんだけど、日本中、沢山の人が結核に罹っていたわ。当時は治す手立てがなくて、一度罹ると、もう治らないって考えられていたの。それに、人にうつすかもしれないしね。だから、いつも旦那さんは部屋に引きこもっていたの。そんな旦那さんだったんだけど、私がその本を手にしたことで、珍しく関心を示してくれたの。


「その本はね、僕の大学の先生が翻訳した本なんだ。アンデルセンっていう人は、デンマークの作家さんでね、数多くの童話を創作した人なんだよ」


「へー、旦那さんは、大学に行っていたんですね」


「行っていたけど、在学中に徴兵されたから、結局、卒業は出来なかったけどね」


 そう言って、寂しそうに笑った。


「難しそうな本も、いっぱいありますね。また、勉強をされるんですか?」


「うーん、そうだねー。学生の頃のような勉強は、もうやらないけれど、やりたいことはあるよ」


「それって、何ですか?」


「戦争での体験をね、小説として書いてみたいんだ」


「へー、凄い」


 旦那さんは、照れたように笑った。


「まー、もう、書き始めているんだけどね」


「凄いです。本当に凄いです。完成したら、本にするんですか?」


 旦那さんは、眉を寄せると難しそうに笑った。


「出来たらいいけど、それは分からない。こればっかりは、世間様が僕の話を求めてくれないとね」


「きっと、売れますよ」


 旦那さんは、寂しそうに笑った。


「アンデルセンのように、皆に受け入れてくれたらいいけれど、僕が書こうとしていることは、戦争の悲惨さの証言だから……本になっても、そんなには売れないと思うよ」


「そうなんですか……」


 旦那さんに諭されて、ションボリとしていると、そんな私を見兼ねたのか、話題を変えた。


「それよりも、いま、手にしている人魚姫の話だけどね、人魚の話はアンデルセンの完全な創作ではないんだよ」


「えっ、どういうことですか?」


「人魚の話っていうのは、世界各地に残されていてね。有名なところでは、歌を歌って船人を惑わして、船を沈める妖怪として古くから伝承されていたりするんだ」


「へー、そうなんですか」


「日本にも、人魚の話はあるんだよ」


「えっ! どんなお話なんですか?」


「日本では、人魚そのものの活躍よりも、人魚の肉として有名なんだよ」


「人魚の肉……ですか」


「桃太郎の話が、日本各地に点在するように、人魚の肉の話も、日本各地に伝承として残されていてね。面白いのが、どの伝承にも、共通する事柄があるんだ」


「何でしょうか?」


「それはね、人魚の肉を食べると不老不死になるんだ。偶然、その肉を食べた女の子が、不老不死になり尼さんとして八百年も生きるんだ。その後、自分で生命を断つんだけど、この話が八百比丘尼伝説として日本各地に残されているんだ」


「じゃ、その人魚の肉があれば、旦那さんの結核も治りそうですね」


 旦那さんは、面白そうに笑った。


「そうだね。あったら、治るかもしれないね。でも、こればっかりは昔話だから」


「結核は、どうすれば治るんですか?」


「不治の病だからね。栄養のある物を食べて、ゆっくりと養生するしかないかな」


 そう言って、私に笑いかけてくれた後、口元をギュッと引き絞って目を伏せた。暫く沈黙が続いたあと、旦那さんは顔を上げて、私を見た。


「僕は、もう長くはないと思うんだ。もしもの時は、雅の養育をお願いできないだろうか?」


 旦那さんは、清らかな目で私を見据えた。私も、そんな旦那さんの目を見る。私は首を横に振った。


「駄目ですよ、旦那さん。そんな弱気では」


「そうは言っても、自分の体の事は自分が一番よく分かっている」


「もし、人魚の肉があったら、食べてくれますか」


 旦那さんは、怪訝な顔をした。私の顔をマジマジと見つめて、ボソリと呟いた。


「あればね」


 私は、旦那さんを見据えたまま、にじり寄る。旦那さんの青い手を両手で掴んだ。


「私が、用意します。その時は、食べて下さい」


 旦那さんは、優しく微笑むと、残された手で、私の手を優しく掴んだ。


「ありがとう。気持ちだけでも嬉しいよ。和子が亡くなってから、君には世話になってばっかりだ。繰り返しになるけれど、僕に、もしものことがあれば、雅はお願い出来るかい?」


「もしもが、あってもなくても、雅は大切に育てます。もう、私の子供です」


 旦那さんは、ゆっくりと笑ってくれた。

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