第19話 煮付け

 カチャ、カチャ、ジューー。


 台所からフライパンを振るう音が聞こえてきた。俺は布団に包まりながら、耳をそばだてる。由紀恵が、朝ごはんを作っているようだ。子守唄を聞く子供のように、俺は目を瞑ったまま、その音を楽しんでいた。香ばしい匂いが、辺りに漂い始める。醤油が焦がされた甘い匂いだ。俺の口の中が、唾液で一杯になる。腹が減ってきた。


 俺は、昨日のことを思い出す。カサブランカで飲んでいた俺は、店が閉まると、誘われるままに由紀恵の家に転がり込んでしまった。そんなつもりで飲みに行ったわけではなかったが、結局は、そうなってしまった。迂闊だった。酔っ払ったから……そうした言い訳を、何度も心の内で繰り返したが、やってしまったものは仕方がない。俺は、とうとう由紀恵と繋がってしまったのだ。


 由紀恵との情事に思いを馳せる。白くて、柔らかい肌だった。ずっと触っていたくなるような滑らかな肌だった。不器用な俺に対して、由紀恵は器用に絡みついてきた。それは、母親が子供を湯船に入れるような仕草にも感じられて、少しばかりの背徳感を俺に感じさせた。


 コンロの火を止めた由紀恵が、ベッドに向かって近づいてくる。俺は、瞑っていた目を開けて、由紀恵を見上げた。由紀恵は、俺を見下ろして笑っている。


「お寝坊さん、ご飯の支度ができたよ」


「おはよう。美味そうな匂いやな」


「そうよ。隆の為に、頑張っちゃった」


 そう言って、由紀恵は無邪気に笑った。俺は、布団から抜け出す。立ち上がると、由紀恵が俺にタオルを差し出した。


「昨晩は、汗をかいたでしょう。湯船にお湯が残っているから浴びてきたら、スッキリとするよ」


 俺は、由紀恵に言われるままに風呂場に足を運んだ。何だか、由紀恵の前では、本当に子供になってしまったような気分だ。風呂場の扉を閉じたあと、洗面器を掴んだ。湯をすくい、体にかける。ベタついていた汗が流れていく。気持ちが良い。


 そういえば、昨日、由紀恵の生い立ちを聞いていたことを思い出した。悲しい話だった。悲しい話だったのに、由紀恵は、懐かしそうに語ってくれた。俺は、由紀恵の腰に手を回したまま、黙って聞いていた。ゆっくりと時間が流れていった。ところが、人魚の肉の話をしだしたら、急に話をやめた。


「もう寝ようか。疲れちゃった」


 由紀恵がそう言うので、俺もそれに従うことにした。ベッドに横になり、由紀恵を抱きしめた。凹凸がピタリと合わさるようにして、由紀恵は俺に抱きつき寝息を立て始めた。俺も、直ぐに寝てしまった。そんなことを思い出しながら、俺は湯船に身を沈めようとした。湯船が小さくて、足を畳まないと入れない。無理に入ったせいで、大半の湯が溢れ出てしまった。俺は、思わず鼻で笑ってしまう。風呂から出ると、浴衣が用意されていた。


「着替えの服がないから、それを羽織っててちょうだい。下着はないよ」


 タオルで体を拭いた俺は、浴衣に袖を通す。股間の風通しが良かった。サッパリとした顔で、台所と繋がった居間に行くと、卓袱台に朝食が並べられていた。由紀恵が、嬉しそうに俺を迎えてくれる。俺は、卓袱台の前で胡座をかいた。


「さあ、いただきましょうか」


 由紀恵が、目の前で手を合わせた。俺も手を合わせる。


「昨日は疲れたと思うから、精が付くものを用意したのよ。レバーの煮付けは、特に、しっかりと食べてね。これからも頑張ってもらわなきゃね」


 俺は、由紀恵に向かって、眉間にシワを寄せた。由紀恵は、意地悪そうに笑っている。まったく、この女は、全く底が知れない。昨日のことを思い出すと、下半身が疼きだすのを感じた。俺は、頭の中の雑念を振り払うようにして、頭を揺する。そんな俺の仕草を見て、由紀恵が笑っていた。俺は、そんな由紀恵から目を離すと、箸を持った。手始めにそのレバーの煮付けを口にする。柔らかくて美味い。味付けも、火の通り方も、丁寧な仕事を感じた。


「美味いな」


「でしょう。頑張ったのよ」


 由紀恵が、とても嬉しそうだ。白ご飯を食べ、味噌汁をすすりながら、俺は由紀恵を見た。どうも、昨日の話の続きが気になって仕方がない。食べながら、由紀恵に聞いてみた。


「旦那さんには、人魚の肉を食べさせたんか?」


 由紀恵の動きが止まった。口元をきつく噛んでいる。俺は、そんな由紀恵の仕草に驚いた。これは、聞いてはいけなかったのか?


「知りたい?」


 由紀恵が俺を睨む。俺は、少し慌てた。


「いや、昨日、とても懐かしそうに話していたから……その後……どうなったのかな、と」


 俺らしくない。シドロモドロに返答してしまった。由紀恵は、目を細めて、俺を見る。


「お願いがあるの」


 俺は、怪訝な表情を由紀恵に見せた。


「何だ、お願いって?」


 由紀恵は、真剣な目で俺を見つめる。


「私の話を聞いても、絶対に私のことを嫌いにならないで欲しいの」


「……」


 由紀恵が、意外なことを言う。


「じゃないと、話さない」


 いつもと違う。なんだか子供みたいだ。


「いや、そんなに、無理に聞きたいわけじゃない」


 今度は、唇を尖らせて怒っている。


「駄目、隆には聞いてもらう。だから、私の事を、絶対に嫌いにならないって約束して」


 一体、どっちなんだ。何か、面倒なことになってきた。


「嫌いになるわけ無いだろう。大体、俺の首を絞めて、殺したいって言っていたお前だ。今更、お前のどんな姿を見ても、俺には不思議じゃない。それが、お前だ」


 上げているのか下げているのか分からない、変な言い回しで、俺は由紀恵を肯定する。そんな俺のことを、由紀恵は、穴が空くほどに見つめた。俺も、踏ん反り返って、由紀恵を見つめ返した。由紀恵が、口を開く。


「ビールを飲もうよ。お酒がないと、話せない」


「ああ、じゃ、俺も付き合うよ」


 由紀恵は立ち上がると、冷蔵庫に近づいて瓶ビールを取り出した。コップも一緒に持ってくると、二つのコップにビールを注いだ。


「はい」


 由紀恵が差し出したコップを、俺は受け取る。由紀恵が、俺を見つめて、乾杯の音頭を取る。


「私と隆の愛に乾杯」


 俺は、一瞬硬直したが、素直に従うことにした。由紀恵とコップを合わせる。チンと音が鳴った。よく冷えたビールが、喉元を流れていく。美味い。先程食べたレバーの煮付けが食べたくなった。俺は箸を持つと、そのレバーを口に運ぶ。これも美味い。醤油と味醂が合わさった味が、口の中に広がる。由紀恵を見ると、コップが空になっていた。俺は瓶ビールを掴み、由紀恵に差し出す。由紀恵は嬉しそうに、コップを傾けた。


「人魚の肉はね、直ぐには手に入らないの。私は最高のものを用意したいから、その時を待った。焦れったかったわ。直ぐに食べさせたいのに、なかなか用意が出来なかったから」


 俺は、意外な表情を浮かべる。


「人魚の肉って、売っていたのか?」


 由紀恵は、そんな俺を見て笑った。


「売っているわけないでしょう……そんな肉。人魚の肉っていうのは例えよ。でもね、本当に不老不死になれるじゃないかなって、思わせる肉なの」


 俺は、不思議そうに由紀恵を見る。由紀恵は、意地悪そうに笑っていた。


「半年近くかかったかな。やっと手に入る段取りができたの。でもね、その時には、隆の体調は、かなり悪くなっていたの」


「おい、ちょっと待て、その隆って、旦那さんの事か?」


 由紀恵が、目を丸くする。


「そうよ、言ってなかったかしら」


 おいおい、これは、偶然か? それとも意図的か? 俺は、その旦那さんと「隆」繋がりだったことに、眉を顰めてしまう。


「まー、いい。それで?」


「苦労して、人魚の肉を用意することが出来たから、そのことを隆に報告したの。人魚の肉が手に入ったよって。でもね、隆は、人魚の肉の話をすっかり忘れていて、私が説明して、やっと思い出したの。すっごく、失礼よね」


 由紀恵が、怒っている。俺は、なだめる様にして、口を開いた。


「まー、それでも、食べてくれたんだろう、人魚の肉を」


 由紀恵が、寂しそうに首を横に振った。


「食べてくれなかった。生で生姜醤油で食べるのが一番美味しいんだけど、隆は、生なら食べないっていうの。だから、火を通そうかって聞いたら、反対に質問をしてきたの」


「何て、質問をしてきたんだ?」


 由紀恵は、隆という旦那さんの口真似をした。


「その肉は、何の肉なんだ?」


 由紀恵は、そう言って俺を睨んだ。俺は、そんな由紀恵をじっと見つめ返した。由紀恵は、それ以上、喋ろうとしない。俺も、問いかけることに、躊躇いを感じた。俺と由紀恵の間に、時間だけが過ぎていった。その均衡を崩したのは、俺だった。コップに入った残りのビールを飲み干して、俺は由紀恵に問いかけた。


「その肉は、何の肉だったんだ?」


 由紀恵は、大きく溜息をついた。


「絶対に、嫌いにならないでね」


「ああ、約束する」


 それでも、由紀恵は言い難そうにしていたが、ポツリと言った。


「私の胎盤」


「胎盤?」


 俺は、思わず聞き返してしまった。


「子供がお腹に出来ると、子供に栄養を送るために出来る臓器の一つなの。出産の時、一緒に出てくるの」


「ああ……」


「隆にはね、私の胎盤を食べて欲しかったの。どうしても食べて欲しかったの。きっと元気になれるし、私の胎盤を食べてくれることに、私は強い喜びを感じていたの。だけど、隆は、私の胎盤だと聞くと、嫌がってしまった」


「……」


「私はね、初めて堕胎したときから、何度も何度も、自分の胎盤を食べ続けてきたの。自分の赤ちゃんを殺した罪滅ぼしに食べていた筈なのに、段々と食べることが楽しみになっていったの。そんな自分が怖いと思った。母親になれる資格なんてないと、ずっと思っていた。だから、隆と雅との、一緒の生活が始まった事に、私は喜びを感じていたの。でも、結核だったこともあるけれど、隆は一度も私を抱こうとはしなかった。だから、私は、隆との繋がりとして、私の胎盤を食べて欲しかったの。私が隆に食べられる。このことに、私は、最高の愛の形を求めていたの。なのに、隆は、私を食べなかった」


 俺は、言葉が出なかった。由紀恵は、俺を睨みつけたまま、話を続ける。


「隆は、程なくして死んだわ。悲しかったけれど、私は、隆のことを恨んでもいた。アンデルセンの人魚姫は、美しく綺麗な心で消えてしまったけれど、私はそんな人魚姫にはなれなかった。今でも、どこかで隆を恨んでいる。私を、拒絶した隆を恨んでいる」


 俺は、切々と訴える由紀恵を見ながら、箸を持った。眼の前のレバーの煮付けを、口に運んだ。


「人魚の肉の煮付け、美味いな」


 俺が、そう言うと、由紀恵の般若のような表情がほころんだ。面白そうに笑う。


「その肉は、ただのレバーよ」


「そうなのか。俺は、人魚の肉でも、ガツガツと食べるけどな」


 俺が、そう言うと、由紀恵が真剣に悩み始めた。


「私……まだ、妊娠出来るのかな?」


 俺は、そんな由紀恵を見ながら立ち上がる。浴衣を脱ぎ、裸になった。


「試してみるか?」


 由紀恵が、俺を見上げて、嬉しそうに笑った。

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