第17話 旦那さん

 私のことを拾ってくれたお姉さんなんだけどね、和子さんって言うの。私より四歳年上なんだけど、凄くエネルギッシュで、負けず嫌いで、それでいて面倒見が良いお姉さんだったんだ。私達にね、いつも夢を語るの。


「私は、絶対に、自分の店を持つ」

「私が店を持ったら、アンタ達も私の店で働くんだよ。いいね!」


 私がパンパンをしながらでも、希望を持って生きていけたのは、和子お姉さんのお陰なの。和子お姉さんが凄いのは、三年後に、本当に店を持ったこと。キャバレーとまでは言えないけれど、小さなステージがあるお店をミナミに開店した。もちろん、パンパンを辞めて、私は和子お姉さんのお店でホステスとして仕事をするようになったわ。毎日、沢山のお客さんが来店してくれた。毎日が、本当に忙しくて、パンパン時代のことを考えると、夢のような生活が始まったの。


 私は、和子お姉さんの右腕として、店の経営に関わる様になっていったわ。開店から二年後には、二店舗目の新規出店を考えるくらいの余裕も出てきたの。そんな矢先に、和子お姉さんの妊娠が発覚した。和子お姉さんには、元々許嫁がいて、戦争から復員してきたその許嫁と結婚をしていたの。和子お姉さんは悩んだわ、産むのか産まないのかを。産むとなれば、どうしても経営に専念することが難しくなる。悩んだ末に、私達が和子お姉さんを全面的にバックアップするということで、産むことに決めたの。


 私達は妊娠をしたとしても、仕事柄、直ぐに堕していたでしょう。和子お姉さんの、産むという決断は、本当に新鮮だったわ。みんな自分の事のように喜んだの。和子お姉さんが臨月を迎えた時なんかは、みんなソワソワしてね。今か今かと、赤ちゃんの誕生を待ち焦がれたのよ。ところが、赤ちゃんは無事に産まれたんだけど、肝心の和子お姉さんが亡くなってしまったの。出産の時に、出血が多かったみたいでね。産婆さんでは、とても手に負えないから、病院に連れて行ったんだけど、もう手遅れだった。何でこんなことになったのって、私は神様を恨んだわ。本当に悲しくて悲しくて。でもね、悲しんでばかりもいられなかった。この事実をね、誰が、和子お姉さんの旦那に伝えるのかで、私たちは困ってしまった。結局のところ、和子お姉さんと一番仲が良かった私が、旦那さんに事情を説明することになったの。


 旦那さんはね、和子お姉さんが亡くなった時、家にいたの。和子お姉さんが生きている時に、家に遊びに行ったことがあるんだけど、旦那さんはいつも奥に引っ込んでいて、顔を出すことがなかった。お客様なのに、挨拶にも出ても来ないから、変わった人だなと思っていたの。ところがね、訪問した時に、その理由が分かった。奥から出てきた旦那さんは、杖を突いていたの。片足が動かなかった。戦争で膝を怪我したと言っていた。初めて会う旦那さんは、とても痩せた人だった。どこかカゲロウのように儚くて、透き通る様に青い人だった。私は、旦那さんにお辞儀をした。


「和子お姉さんにお世話になっていました。小野寺由紀恵と申します」


 私が、顔を上げると、旦那さんは、優しく微笑んだ。


「こんな格好で申し訳ありません。寺川と申します」


 そう言って旦那さんは、私に向かって丁寧にお辞儀をするの。私は、そんな旦那さんを見て、時間が止まってしまったような気持になったのを憶えている。悲しいことを伝えに来たはずなのに、その時の私はときめいていたの。恋をする前に、男と寝ることを憶えてしまったから、私の男への恋愛感情って、使い捨ての手ぬぐいよりも軽いもんだったんだけど、その時は違った。私は、旦那さんのような雰囲気の男に会ったことがなかった。私が、いつまでも話を始めないから、旦那さんは困ったような顔をしはじめた。


「えーと、どうでしたか? 元気な子が生まれたでしょうか?」


 私は、現実に引き戻されたわ。


「あの……」


 私は、伝えようとしたけれど、言葉が出ないの。言葉の代わりに、涙がポロポロと零れだしたわ。私は、その場で立ち尽くして、泣き出してしまったの。旦那さんは、そんな私に、杖を突きながら近づいてきて、手ぬぐいを渡してくれた。私の様子で、ことの重大さを察した旦那さんは、私に尋ねたの。


「授かりませんでしたか?」


 私は、泣きながら首を振った。


「……元気な赤ちゃんでした」


「じゃ」


「お姉さんが……亡くなられました」


「和子が……」


 旦那さんの、呆然とした顔は今も忘れられないわ。でも、狼狽えるような人ではなかったの。旦那さんは、私に悲しそうな顔を向けると、労うようにして言った。


「付きっきりで大変だったでしょう。私がこんな体だったので、皆さんにばっかりご迷惑をお掛けしてしまいました」


「いえ、そんなことないです」


「すみませんが、今から、和子の所に、連れて行ってくれないでしょうか」


「ええ、分かりました」


 私は、杖を突きながら歩く旦那さんに肩を貸して、病院までの道のりを歩いたのを憶えている。その後、和子お姉さんのお葬式を身内だけで済ましたの。お姉さんのお葬式は済ますことが出来たけれど、生まれてしまった赤ちゃんの問題が、まだ残っていた。赤ちゃんは、ずっと産婆さんに任せた切りだったの。店の女の子の誰もが、その赤ちゃんをどのように育てるのか気になっていた。だけど、口にすることが出来なかった。お坊さんが帰った後、旦那さんは、私たちに向かって深々と頭を下げた。


「和子の為に、ここまで良くしてくれてありがとうございました。和子も、喜んでいると思います」


 私たちは、そんな旦那さんの姿に余所余所しく対応することしか出来なかった。でも、私はどうしても気になったので、尋ねたの。


「これから、どうされますか?」


 旦那さんは、口籠った。返事がないので、私はまた尋ねた。


「赤ちゃんは、どうされますか?」


 旦那さんは、大きく深呼吸をした後、決意を決めたように口を開いた。


「今の私には、収入がありません。見ての通り、働けるような体でもありません。和子の忘れ形見ですし、大事に育てたいとは思いますが……里子に出そうかと思います」


 その言葉を聞いて、みんな溜息をついたわ。でも、私は、反対だった。私は、怒るような口調で、旦那さんに訴えたの。


「旦那さん、本当にそれでいいんですか?」


 旦那さんは、私の言葉に狼狽えたわ。


「そうは言っても……」


 私は、決意を込めて言ってやったの。


「和子お姉さんの赤ちゃんは、私が育てます。旦那さんのことも、私が世話をします。女になめられて悔しいと思いますが、それが和子お姉さんへの供養になると思います」


 旦那さんは、言葉を失っていたわ。店の女の子が、私の袖を引っ張っていたけれど、私の決意は変わらなかった。いや、変わらなかったんじゃなくて、嬉しかったの。旦那さんの傍に居たいという気持ちも本当だったし、赤ちゃんを育てることが出来るということも嬉しかった。だって、私は、自分の子宮で子供を育てるということを諦めていたから。

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