第16話 気に入らない

 由紀恵は、大きく溜息をつくと、俺を見た。


「ビールが無くなったね。取ってくる」


 俺は、手に持っていたグラスを見る。空になっていたことを忘れていた。由紀恵の話を、かなり聞き入っていたようだ。


「ああ……」


 俺は、ベッドから下りようとした由紀恵の手を掴んだ。


「その、なんだ……俺が取って来てやろう」


 由紀恵が振り返り、微笑んだ。


「優しいね。じゃ、お願いする」


 そう言って、顔を近づけると、由紀恵は俺の唇に軽くキスをした。由紀恵が、ゆっくりと顔を離す。白い裸のまま、俺を見上げていた。俺は、そんな由紀恵の仕草に、少しばかり、胸の疼きを感じた。何か抑えきれないものを感じる。俺は、何となく、そうすることが自然なような気がして、今度は俺の方からも、軽くキスをした。顔を離すと、由紀恵は嬉しそうに俺を見つめていた。何だろう、由紀恵から視線を外すことが出来ない。こんな気持ちにさせられるなんて……迂闊だ。彼女の生い立ちを聞きながら、俺は少し情が入ってしまったようだ。今まで、由紀恵のことを馬鹿にするような物言いをしてきたのに……本当に迂闊だ。俺は、繋がっていた視線を断ち切るようにして、顔を横に向ける。そのまま、ベッドから下りた。裸のまま、冷蔵庫に向かって歩き出す。歩きながら、由紀恵の言葉を思い返していた。


「丈夫そうだから……」


 何なんだ、丈夫そうって。確かに、俺は誰よりも丈夫な体だ……と言うことは、あいつの昔の男は、丈夫では無かったということなのか。由紀恵の昔の男のことが気になってきた。なんだか、気に入らない。そんな気持ちにさせられたことも、気に入らない。俺は、冷蔵庫のドアを荒々しく開けた。中から瓶ビールを取り出す。


「栓抜きはどこや?」


 俺は、由紀恵に向かって叫んだ。


「テーブルの上」


 テーブルに視線を動かすと、栓抜きがあった。ビール瓶に当たり散らすようにして、栓を抜こうとした。力が入り過ぎて、栓抜きが滑ってしまった。


「チッ!」


 舌打ちをした。どうしたんだ俺は……栓が開いた瓶ビールを掴んで、ベッドに戻った。ヘッドボードに凭れかかりながら由紀恵が、俺に向かって手を伸ばしてきた。俺は、瓶ビールを差し出す。


「ありがとう」


 そう言って瓶ビールを受け取ると、由紀恵は俺のコップと自分のコップにビールを注ぎ始めた。俺は、ベッドを回り込み布団を捲る。足を布団に突っ込んで、先程と同じように凭れかかった。隣の由紀恵の仕草を、じっと見つめる。由紀恵はビールが入ったコップを掴むと、俺に差し出した。俺は、そのコップを掴みながら、由紀恵に言った。


「乾杯しようか」


 由紀恵が、悪戯っぽく笑う。


「何に?」


 俺は、鼻で笑ってしまう。俺は、いったい何を言っているんだ?


「……何でもない」


 由紀恵は、俺の心を盗み見るようにして、微笑んだ。


「嬉しいよ……かんぱーい」


 由紀恵が、俺にコップを差し出した。俺は、そのコップに俺のコップを当てる。チン、と高い音が鳴った。一息でビールを飲み切り、空になったコップを、サイドテーブルに置いた。手を伸ばして由紀恵の腰を掴む。荒々しく俺の所に引き寄せた。


「たかしー、ビールが零れるよー」


 由紀恵が楽しそうに、そう言いながら、コップをフラフラと泳がしている。口元にコップを近づけると、由紀恵もビールを一息に飲み干した。サイドテーブルにコップを置くと、不思議そうに俺を見た。


「どうしたの?」


 そう言って、俺の肩に首を凭せ掛けてきた。俺は、大きく息を吸って、吐き出した。由紀恵に問いかける。


「丈夫ってどういうことや? 前の男は丈夫やなかったんか?」


 由紀恵が、驚いた顔で俺を見た。そして、直ぐに表情を崩して、また、悪戯な笑みを浮かべる。


「もしかして、妬いてくれているんだ。嬉しいー」


 そう言って、俺に抱きついてきた。俺も、そんな由紀恵を抱きしめて、頭を優しく撫でた。由紀恵が口を開く。


「今までに、私は沢山の男と寝てきたよ。仕事ではあったけれど、私も客を選ぶから、嫌いな男とは寝てこなかった。みんな好きだったし、私の事を好きと言ってくれないと、嫌だった。私って、結構、嫉妬深いから、裏切った男には酷いこともしてきた。でもね、今振り返ってみると、どの男も、大したことないのよ。なんで好きになったんだろうって、不思議になるくらい。ただね、一人だけ、記憶に残っている男がいるんだ」


 俺は、眉間に皺を寄せて、由紀恵を見た。由紀恵は、俺の胸に顔を埋めたまま、顔を上げない。そのまま、続ける。


「その男はね、雅のお父さんなの」


 俺は、怪訝な表情を浮かべた。


「どういうことや。雅は、お前の娘ではないってことか?」


 由紀恵が、顔を上げた。


「そうなの。私は、雅の産みの親ではないわ。育ての親ではあるけれど……」


 そう言って、由紀恵は俺に抱きついていた手を離した。体を起こすと、俺に手を差し出した。


「隆のコップをちょうだい。ビールを入れてあげる」


「ああ」


 俺は、手を伸ばして空のコップを持ち上げた。由紀恵は、俺からコップを受け取ると、また、ビールを注ぎ始める。


「もう、昔の事よ。ずいぶん昔の事」


 そう言って、由紀恵は語りだした。

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