第13話 俺の嫁
「お代わりが欲しい」
俺は、空になったロックグラスをコースターの上に置いた。中の氷が崩れて、カランと音がした。由紀恵は、手を伸ばすと、俺のグラスを取り上げる。ターキーのロックを新しく作り始めた。その間、俺はタバコを取り出した。達也が火をくれたので、俺は顔を寄せて、煙草に火を点ける。目を瞑って、煙草を燻らせた。青い煙を吐き出す。
「こんな話をするつもりはなかった。飲みなれないターキーが悪い」
そう言って、新しくコースターに乗せられたグラスを手にした。口にする前に、ターキーの匂いを楽しんでみた。なんだか懐かしい薫りがする。桜とは、全く関係がないはずなのに、この薫りを嗅ぐと、桜を思い出せるような気がした。桜の思い出話をしたせいで、強く刷り込まれてしまったのかもしれない。
「その指輪がそうなんでしょう?」
雅が、目を輝かせて、俺に問いかけてきた。俺は、左の薬指にある銀色に輝く指輪を触る。
「ああ」
◇ ◇ ◇ ◇
目を瞑ると、桜が俺に笑いかける姿が浮かんだ。病院で待っていた桜は、あの事をした時よりも、更に痩せていた。この二週間前で、全く元気が無くなっていた。体を、ベッドから起こすだけで精一杯の様子だった。俺は近づいて、桜の手を取る。
「すまん。誕生日に来れなくて」
桜は、首を横に振る。
「いいのよ、そんな事。来てくれて嬉しい。隆に、とっても会いたかった」
そう言って、俺の手に顔を近づけると頬ずりをした。
「隆の手、大きい」
桜が喜んでいる。俺は、桜に語りかける。
「今から、俺とお前の結婚式をするぞ」
桜が俺を見て、目を輝かせる。
「はい」
達也が、俺の肩に触る。
「隆は、桜ちゃんの隣に座ってくれるか」
俺は言われた通りに、桜の隣に座った。達也が、俺達二人に向かって、恭しくお辞儀をした。
「只今より、新郎、木崎隆と、新婦、大野瀬桜の結婚式を執り行います」
達也が、俺を見る。
「新郎、木崎隆は、新婦、大野瀬桜のことを、一生愛すると誓いますか?」
「誓います」
達也が、桜を見る。
「新婦、大野瀬桜は、新郎、木崎隆のことを、一生愛すると誓いますか?」
「誓います」
達也が、俺達二人を見つめる。
「二人の愛の証として、指輪の交換を行いたいと思います」
そう言って、達也はポケットから、指輪が仕舞われた小さな箱を取り出した。二つの指輪のうち、小さい方を俺に手渡した。
「では、新郎から新婦に、指輪をはめてあげて下さい」
俺は、桜の左手を持ち上げる。骨ばった薄い手だった。震える手で薬指に指輪をはめた。桜の手が思っていたよりも痩せていて、少しブカブカだった。その現実だけで、目から涙が溢れてきた。そのつもりはないのに、嗚咽が込み上げてきた。そんな俺対して、桜が俺の手を握る。
「ありがとう」
桜の顔を見ると、桜が笑っていた。俺は顔をクシャクシャにして桜を見る。達也が、式を進める。今度は、大きい方の指輪を桜に手渡した。桜は、俺の左手を持ち上げる。大きなその指輪を、俺の左手の薬指にはめる。俺は、泣きながらその様子を見ていた。
「ありがとう」
俺がそう言うと、桜も目を潤ませて、微笑んだ。
「おめでとうございます。お二人は、晴れて、夫婦に、なり、ま、した……」
達也を見ると、達也も、もらい泣きをしていた。仕方がない奴だ。俺は、達也の尻を、力一杯叩く。
「ありがとうよ。ええ結婚式が出来たわ」
達也のそんな姿を初めて見た。達也が、泣きながら口を開く。
「良かったな。本当に、良かったな」
「ああ」
俺は、お願いついでに、達也にもう一つお願いをする。
「なあ、達也」
「なんや」
まだ、泣いている。
「ちょっと、留守番を頼まれてくれんか?」
「なんでや?」
「桜の、お母さんが来たら、俺達が散歩をしているって、伝えて欲しい」
「ああ、ええけど。何処に行くんや」
「桜の花の写真を撮りに行く」
「桜? もう、散ってしまっているで」
「さっき、この病院の下で見つけたんや。桜の木を」
「でも、桜ちゃんは、歩かれへんやろ」
俺は、桜を見る。
「俺が、車椅子を押したる。行こうか?」
桜は、嬉しそうに頷いた。
「うん」
病室の隅に畳まれていた車椅子を広げた。そこに桜を座らせる。横に置いてあったカメラを桜に持たせた。
「じゃ、暫く、待っていてくれ」
「ああ、楽しんできな」
俺は、達也に手を挙げて応えた。桜の車椅子を押して、病室を出る。歩きながら、桜に語りかけた。
「遅くなって、すまなかった」
「いいのよ。それよりも、ありがとう……指輪」
そう言って、指から指輪を外して、眺めていた。
「その指輪の裏に、刻印があるんや」
桜が、目を細めて、指輪の刻印を見つめた。クスっと笑う。
「私の誕生日が彫ってある」
「ああ、約束していた結婚式の日や」
「それに、ハートだ」
「ああ、俺とお前のな」
「大切にする。本当に嬉しいの」
そう言って、指輪を薬指にはめて、手を広げた。指に収まっている指輪を見て、喜んでいる。エレベータに乗り込み、一階に到着した。ロビーを抜けて、正面玄関を出る。
「眩しい!」
桜が、そう呟いた。俺は、自転車置き場の横に立っている桜の木の近くに車椅子を押していく。病院の敷地に植えられた、桜の木のほとんどは、花が散ってしまっていた。青い葉っぱが、顔を出し始めている。しかし、その桜の木だけ、かろうじて桜の花が残っていた。桜は、カメラを手にする。慎重に構図を合わせて、シャッターを切った。
「ありがとう、隆。もう、思い残すことはないわ」
俺は、桜を見る。
「そんなことを言うなよ」
桜は、微笑む。
「今ね、最後の桜の花を見ていて、分かったことがあるの」
「何や、分かった事って?」
「桜は散っても、また、来年になれば、咲くでしょう。私も同じだなって、思ったの」
「生き返るってことか?」
「うーん、そんな具体的なことじゃなくて、私は、この世界の一部で、繋がっているんだなって、思ったの」
「俺には、良く分からない」
「今は、分からなくても、きっと隆も、そう思う時が来ると思う。今ね、私、全然、悲しくないの。もう直ぐ、散ってしまうのに、全然、怖くないの。それよりも、大きな声で、ありがとう、って、叫びたいくらいな気分なの。何なんだろう。この感覚……」
「そんなもんなのか?」
「そんなもんよ。隆に出会えて、私、本当に幸せだった」
桜が、カメラの裏側の蓋を開けた。中からフィルムカートリッジを取り出す。
「このフィルムを受け取って」
そう言って、俺に差し出した。俺は、桜からそのフィルムカートリッジを受け取る。
「最後の集大成。私だと思って」
俺は、カートリッジを握りながら、また、涙が溢れてきた。嗚咽を漏らす。
「泣かないで、隆」
そう言って、桜が俺の手を触る。俺は、膝を崩して、車椅子に座った桜の膝に顔を埋める。声の限り、泣いた。吠えるように、泣いた。そんな俺の頭を、桜は優しく撫でてくれた。それから、程なくして、桜は散った。眠るようにして、散った。
◇ ◇ ◇ ◇
俺は、また、空になったターキーのお代わりを催促した。由紀恵が微笑んだ。
「良い子だね、桜ちゃん」
ターキーのロックを作りながら、由紀恵が言う。
「ああ、良い奴だった」
「そんな素晴らしいお嫁さんの話をされたんじゃ、作戦を変えなきゃいけないね」
俺は、鼻で笑った。その時、達也が、割って入ってきた。
「なあ、隆」
「なんや」
「お前は聞きたくないかもしれんけど、俺、桜からの伝言を頼まれているんや」
「何や、伝言って?」
「言ってもええんか?」
「そこまで、言ったんなら、言えよ」
「桜がな、『隆は、私のことを引きずって一生結婚をしようとしない筈だから、もし、良い人が居たら、私が許す』って、言っていたぜ」
俺は、大きく目を広げて達也を見た。横で由紀恵が、手を叩いて笑い出す。
「隆、凄い嫁さんだよ。お前には、もったいないくらいの素晴らしい嫁さんじゃないか」
俺は、由紀恵を睨む。達也が、更に続ける。
「由紀恵さんでしたっけ、美人だし、度胸はあるし、俺、お似合いだと思うぜ」
俺は、達也を睨む。
「お前、この女の本当の正体を知らない」
「何だよ、本当の正体って?」
「由紀恵は、お前の母親より、年上なんだ」
達也が、目を大きく開いて由紀恵を見た。由紀恵は、ニヤッと笑うと、俺の頭を力の限り殴った。
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