第10話 あの事
透き通る青空の下、自転車が軽快に走っていく。風はまだ冷たい。しかし、春の匂いが含まれている。桜が俺の背中に顔をくっ付けていた。背中の温もりが、愛おしい。叫び出したくなるくらいに、愛おしい。どうすれば、この幸せを長引かせる事ができる? 俺には何も出来ないのか? そんなこと事ばかりを考えていた。桜が俺に問いかける。
「ねえ、隆」
「なんや」
「私の名前の由来って分かる?」
俺は少し考える。
「桜が咲く頃に生まれたのか」
桜が、嬉しそうに叫ぶ。
「せいかーい!」
「桜が咲くのは、もう直ぐやな。誕生日はいつや?」
「四月二日」
「あと一週間やないか。桜へのプレゼント、何か考える」
「嬉しいー。ねえねえ、隆の誕生日は?」
「俺か? 俺は三月七日や」
「えっ! 言ってよ。もう終わってるじゃない。私も何かプレゼントがしたい」
「いいよ、終わったことだし」
「駄目! そんなの。何か考える。楽しみにしててね」
「ああ、楽しみにしてる」
自転車が、学校に到着した。桜を自転車置き場に残して、俺は学校に忍びこんだ。部室に向かい、カメラを取ってくる。簡単な仕事だ。部室は鍵も掛かっていない。クラブ活動があるので、学校に生徒が居ないわけではなかったが、閑散としていた。先生も居たが、のんびりとしていた。
「ほら、お前のカメラとフィルム」
待っていた桜が、嬉しそうに手を伸ばす。懐かしそうにカメラを触っていた。俺は桜に呼びかける。
「これから、どこに行く?」
「そうねー、とりあえず、公園かな」
そう言いながら、桜はカメラのシャッターを切った。
「おいおい、俺なんか写すなよ」
「いいの。私の彼氏を写しておきたいの」
「じゃあ、お前の写真も撮ってやるよ」
そう言って、俺は桜に手を伸ばした。しかし、桜はカメラを後ろに隠してしまった。
「私は駄目」
どうして? その言葉は出なかった。桜がニットの帽子を触って、顔を隠したからだ。俺は溜息をつく。
「自転車に乗れよ。公園に行こうぜ」
「うん」
桜が努めて笑顔を見せた。俺は、桜が後ろに座ったことを確認して走り出した。途中、公園を見つけて、自転車を止めた。桜は、公園の風景をカメラに収めていく。ブロックの隙間から顔を出している小さな花。ベンチに座り将棋を指しているお爺さん達。飼い主と戯れる大きな犬。砂場で遊んでいる小さな子供たち。桜の目には、それらがどのように映っているのだろう。俺は後ろから付いて回りながら、そんな桜を見つめていた。桜が、桜の木を見上げた。
「まだ、蕾だね」
そう言って、桜の蕾に向けてシャッターを切った。
「また来たらいい。桜の誕生日には咲くんじゃないのか」
「そうね。でも、今度、来れるかな? 今頃、お母さん、怒っているだろうな」
「また、逃げ出したらいい」
俺が、そう言うと、桜が嬉しそうに笑った。
「そうだね」
「飯でも、食いに行かないか?」
俺は、桜に微笑みかける。
「行きたーい!」
「何が食いたい?」
「何にしようかなー」
桜が、空を見上げて、考え出した。子供のように嬉しそうだ。
「病院では、絶対に食えないやつが、いいだろう?」
「そうねー、じゃ、スパゲッティ!」
「よし、スパゲッティを食いに行こう」
その時、公園で屯していた男連中の一群が、俺達を見ながら、横切って行った。カッターシャツに、スラックス。近くの工業高校の連中だろう。ポケットに手をっ込みながら、その中の一人が、誂うように呟いた。
「あの女、禿げてるぜ」
その言葉に、答えるようにして、もう一人の男も呟く。
「ツルツルちゃうか?」
桜が、ニットの帽子を掴んで、顔を隠した。
「何やて」
そう言うと、俺は考えるよりも早く、足を踏み出した。足の親指に力を込めて拳を振り抜く。叫ぶ暇もなく、顔を歪ませながら、その男が地面に転がった。
「ひとつ」
俺は呟く。
「キャー!」
桜が、後ろで叫んでいた。構わず、桜を馬鹿にした、もう一人の男を睨みつける。気が付いた仲間の一人が、俺に組み付いてきたが、関係ない。逃げようとする、そいつの胸元を掴み引き寄せた。頭を振り下ろす。そいつの鼻がひしゃげて、赤い血を撒き散らした。
「ウゲッ!」
「ふたつ」
今度は、俺に組み付いている、男の喉笛を掴んだ。俺は、その顔を睨みつける。
「やるのか?」
その男は、目を大きく開けて、首を横に振ろうとした。しかし、俺に握られて首が振れない。俺は、手を離す。その男は、地面に蹲り首を押さえていた。尚も、挑みかかろうとした仲間を、リーダーらしき男が制した。
「やめとけ。あいつ、木崎や」
「木崎……」
そう言って、頭に血が上った男は足を止めた。そいつらが俺を睨んでいる。
「女をバカにされたから殴った。まだ、やるんなら、相手になるぞ」
俺は、目を細めて言った。
「いや、いい。このお礼は、またさせてもらう」
リーダーの男は冷静だった。
「その方がいい。俺も忙しい」
俺は、逃げていくそいつらを見送った。俺は顔を曇らせる。怯えている桜の肩を抱いた。
「すまん」
桜は、首を横に振った。
「いいの、ありがとう」
こんなはずじゃなかった。折角、桜が喜んでいたのに台無しだ。そんな桜が、可哀想でならない。桜が、体を震わせながら、俺を見上げた。
「ねえ、隆」
「何や」
「行きたいところがある」
「どこや?」
「あの事が出来るところ」
「あの事?」
「私に言わせないで」
「……」
「お願い。私には時間がないの」
俺は、桜を見つめ頷いた。桜を自転車に乗せて、俺は走り出す。ミナミのこの周辺には、そんな場所は、いくらでもある。小学生でも知っている常識だ。何処にしようか迷ったが、なるべく清潔そうな外観の建物に自転車を止めた。不安そうな桜の手を取って、俺は中に入る。
「休憩?」
受付のおばさんが、ぶっきらぼうに言った。
「ああ」
無愛想なおばさんで、助かる。鍵を受け取り、俺達は部屋に向かった。鍵穴に鍵を突っ込み扉を開けて、部屋に入る。洗いたてのシーツの香りがした。部屋の中を見回す。大きなダブルのベッドと、風呂が用意されていた。
「俺はよく知らない」
俺の言葉に、桜が笑う。
「私もよ」
そう言って、桜がベッドに寝転んだ。
「フカフカ。病院のベッドより、気持ちが良い」
俺は、そんな桜に微笑みかけながら、ベッドの縁に座る。正直、どうすれば良いのか分からなかった。黙っていると、桜が俺の手を握った。
「隆も、横で寝て欲しい」
俺は、恥ずかしさを隠しながら、桜の横に寝転んだ。
「なんや、ドキドキするわ」
俺がそう言うと、桜が笑った。
「私もよ」
そう言って、桜が体を起こした。寝ころんでいる俺の顔をじっと見つめる。手を伸ばすと、両手で俺の手を掴んだ。すると、俺の手を引っ張り上げて、自分の胸に触らせようとした。俺は、吃驚して、少し抵抗をした。
「触って欲しいの」
俺は手を広げて、言われるままに桜の胸を触った。痩せた体だった。アバラの感触が手の平に伝わる。目を細めて、そんな桜を見つめる。桜は、大切な宝物を抱きしめるように、俺の手の平を抱きしめた。目を瞑り、俺を感じようとしている。桜の心臓がトクトクと暴れているのを感じた。
「ねっ、ドキドキしているでしょう」
「ああ」
「私、今日の事を忘れない」
「ああ、俺もだ」
「隆に、私をあげる」
「ああ、お前は俺のものだ」
俺も起き上がり、桜を抱きしめた。桜が細い吐息をもらす。俺は、桜が着ていたブラウスのボタンを、不器用に一つづつ外していく。桜の、痩せた上半身が露になった。桜が恥ずかしがっている。桜をベッドに優しく寝かせると、俺は、桜を隠すようにして覆いかぶさった。触れば、壊れてしまいそうな桜が、愛おしかった。掬い上げれば零れてしまう桜を、かき集めるようにして、俺は桜を抱いた。ぎこちない動きで、刻みつけた。俺のものだと、刻みつけた。繰り返す行為に、桜の顔が歪む。俺は動きを、止めた。それでも続けてと、お前が言った。それで良かったのか? 俺には分からない。桜が、俺を強く抱きしめる。俺も、桜を抱きしめた。泣きながら、その唇にキスをした。
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