第9話 大脱走

 次の日、珍しく朝早くに目を覚ました。学年末試験は終わり、学校は休みだというのに……。簡単に朝食を済ませると、俺は家を飛び出した。はやる気持ちを押さえながら、桜がいる病院に向かって、自転車を漕いでいく。一生懸命な自分を見て、笑ってしまう。滑稽だ、クールじゃない。でも、時間がないんだ。少しでも桜と一緒に居たい。俺のすべての時間を桜に捧げたい。俺は、そんな気持ちで、一杯だった。


 病院は、来院する人々で一杯だった。受付前に黒い長椅子が並べられている。所狭しと患者が座り込み、自分の名前が呼ばれるのを待っている。俺はそんなロビーを横切り、エレベーターの前に立った。ボタンを押す。桜がいる最上階に向かった。エレベーターから出ると、看護婦が忙しそうに動き回っている。俺は、大きな体を揺らしながら桜がいる病室に向かった。近づくにつれて、俺の心臓がドキドキと高鳴り出した。思わず、足を止めてしまう。桜に会うことだけを考えて、ここまで来てしまった。今から俺がすることを想像した。めまいがするほどに呼吸が荒くなった。こんなことは初めてだ。俺は拳を握ると、自分の胸を叩いた。大きく息を吐く。一歩足を踏み出した。俺は努めて冷静な態度を装いながら、桜の病室に入った。


「おはよう」


 声を掛けた。しかし、桜からの返事がない。俺は桜が寝ているベッドのカーテンに手を掛けた。


「開けるぞ」


 カーテンを引いた。しかし、桜は居なかった。俺の中の緊張の糸が切れた。肩を落として、大きなため息を吐く。俺は、廊下を歩いている看護婦を捕まえた。


「すみません。大野瀬さんは?」


 看護婦が怪訝な顔をする。


「大野瀬さんは、今は診察中です。それよりも、今は面会の時間ではありません。それに、面会をする場合は、受付を済ませてください」


 看護婦が、きつい目で俺を注意した。俺は、頭を下げる。その場に立ち尽くしてしまった。空振り三振は疲れるものだ。エレベーターに乗り込み、ボタンを押した。扉が閉じられ、下降した。今からどうしようか悩む。ロビーの長椅子に座り込み、アホ面を晒して待っていようか。エレベーターの扉が開いた。俺は、仕方がないのでロビーに向かって歩き出した。しかめっ面をしていると、後ろから声を掛けられた。


「どうしたの、隆君」


 振り向くと、桜だった。俺の心臓が、急に暴れ出した。掌がじっとりと汗ばむ。桜は、病衣の上から赤いカーディガンを羽織っていた。両手でそれを掴みながら、俺のことを、じっと見つめていた。俺は、全ての時間が止まってしまったように感じた。全ての音が消えてしまったように感じた。ただ、桜の声だけが、俺の頭の中で木霊している。


「お前に会いに来た」


 桜が、息を飲むのが分かった。お互い、押し黙ってしまう。桜は、カーディガンをギュッと握りしめて、俺を見つめた。俺は、小さく深呼吸をする。俺の口から、言葉が滑り出した。


「お前のことが、好きや」


 桜の目から、涙が溢れだした。ワナワナと体が小刻みに震えている。立ちすくんでいる桜に歩み寄り、俺は抱きしめた。周りの視線なんか全く気にしなかった。俺の肩にも届かない、小さな桜は、俺の腕の中で、小さく震えていた。必死に嗚咽を止めようとしている。そんな、桜が愛おしくて仕方がなかった。桜の小さな頭を撫でる。


「大丈夫か?」


 桜が無言で、何度も頷いた。傷ついた小さな猫を労わる様にして、俺は、桜と一緒に病室に向かった。道すがら、桜は一言も喋らなかった。ずっと俺の腕を掴んで、離れない。泣いている顔を隠している。病室に戻ると、そんな桜をベッドに座らせた。俺は、ベッドを取り囲むカーテンを閉める。俺も、桜の横に座った。


「隆君、大きいね」


 そう言って、桜は俺の手の甲を触った。俺は、その桜の手を握る。桜が俺を見つめた。俺も桜を見つめる。綺麗な瞳をしていた。どこまでも透き通っていて、吸い込まれそうだった。また、桜の目から涙が溢れ出す。俺はその涙を指で拭った。申し合わせたように、桜が目を閉じた。そして、顔を上げた。俺は、固唾を飲みこむと、桜の背中に手を回し、顔を近づける。桜のその柔らかい唇に、俺のを重ねた。


 それからというもの、毎日、俺は桜の病室を訪ねた。桜の両親が呆れるほどに、一日中、桜の病室にいた。時々、達也の奴もやって来たけれど、俺は、大いに歓迎した。俺は口下手だから、たいして面白い話は出来なかったけれど、桜の傍に居ることが大切だった。一緒にテレビを見て、一緒にお菓子を食べて、時々キスをした。ある時、桜が俺にポツリと呟いた。


「また、写真を撮りたい」


 俺は、桜を見た。桜の気持ちを叶えてやりたい。そう思った。


「部室から、カメラを取ってきたろうか?」


 桜が、俺を見た。桜の目が輝いている。


「隆」


「なんや?」


「カメラを取りに行くんなら、私を連れて行って」


 俺は、怪訝な表情を浮かべて、桜を見た。


「でも、病院から出るのは、まずいんとちゃうか? 体に悪いし……」


 桜は、駄々っ子のように首を振った。悪戯っぽく笑うと、俺の手を握った。


「ここから、逃げ出そうよ」


 俺は、呆然とした表情で桜を見つめた。桜の行動は早かった。ベッドから下りると、俺の目の前で、桜は病衣を脱いだ。白いブラジャーと白いパンツだけの、痩せた桜の体が曝け出された。


「おいおい」


 驚いている俺の態度を他所に、桜はテレビ台の下から、衣服を取り出した。白いブラウスとスカートを身に着けて、その上から赤いカーディガンを羽織る。振り返ると、好奇心いっぱいの笑顔を、俺に見せる。


「隆の上着を貸してよ。外は寒そうだから」


 俺は、竜の模様が入った緑色のスカジャンを脱いで、桜に着せてやる。でも、そのスカジャンは、小さな桜が着るには、あまりにも大きすぎた。


「大きいね。袖から、手が出ないよ」


 桜が手を伸ばして、遊んでいる。スカジャンの袖の先が、プラプラとはためいた。そんな桜を、俺は目を細めて見つめた。桜は、腕をまくり、袖から手を出すと、俺の手を握った。


「行こうよ!」


 遠足に行く子供のように、嬉しそうだ。俺は、看護婦の様子を伺って、桜と一緒に病室を飛び出した。桜は、エレベーターではなく階段に向かって俺を引っ張っていく。俺は引っ張られるままに、桜に従った。階段までやってくると、桜は滑り落ちるようにして、階段を下りていく。俺は、声をひそめて注意する。


「桜、走ると、危ない」


 桜が、笑顔を見せる。


「楽しいね」


 悪戯な桜の笑顔に、俺は何も言えなくなる。桜は、鬼から逃げるように、階段を下りていく。俺も、ドタドタと追いかけた。桜は、駆け下りながら、ずっと笑っていた。そんな桜の姿に、俺の心はち切れそうになった。一階にたどり着くと、桜が立ち止まった。追いついた俺は、桜を抱きしめる。脱走がバレないか、周囲を伺った後、桜の手を握り締めて、玄関に向かった。


「眩しい!」


 病院の外に出た桜は、目を細めて、そう言った。そんな桜の手を繋ぎ、俺は自転車置き場に向かう。ここまでくれば大丈夫だ。自転車を引っ張り出して、俺は跨った。桜が、後ろのキャリアに横座りすると俺の腰に手を回した。


「出発進行!」


 桜の掛け声で、俺は、ペダルを踏みしめる。自転車が走り出した。向かう先は、学校だ。部室にある、桜のカメラを持ち出そう。空は晴れていて、上々の天気だった。

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