結婚狂騒曲
第7話 桜散る
大阪のミナミの繁華街。煌びやかなネオンサインが夜の街を彩っている。そんな表通りから外れた暗い路地の真ん中に、カサブランカはあった。ひっそりと身を隠しているような、秘密めいたスナック。そんなカサブランカのカウンターに、俺は座っていた。ママの由紀恵が煙草を取り出した。俺は、ジッポライターを取り出して、火を差し出してやる。由紀恵は顔を近づけて、煙草に火を点ける。煙草を燻らせると、フーと細長い青い煙を吐いた。その煙が、途端にかき乱された。入り口の重い扉が開いたのだ。生ぬるい風が入ってくる。誰だろう。俺は振り返った。
「あら、いらっしゃい。こんなに早くに、お客さんがいるとは思わなかった」
雅だった。肩から大きなカバンを下げていた。
「何処かに行っていたのか?」
俺は、何となく聞いてみた。
「学校に行っていたの。こう見えて、私、優秀なんだからね」
慌ただしくバックヤードに隠れたかと思うと、雅はカバンだけ置いて、直ぐに出てきた。
「いらっしゃいませ。もしかして、隆君のお友達?」
雅が、達也に問いかけた。達也は、わざわざ立ち上がる。
「相原達也と申します」
右手を胸に当てて、恭しくお辞儀をした。顔を上げる。
「なんて美しい方なんだ。まるで薔薇の花のようだ。是非、貴女のお名前をお聞かせ願えませんか」
芝居がかった調子で、雅に話しかける。達也の、悪い癖だ。達也のこんな姿を、これまでにどれだけ見てきたことか。よく飽きないものだ。馬鹿馬鹿しくて、見るに堪えない。雅のやつが、目を丸くして驚いている。
「何コイツ?」
目をひそめて、雅が俺に問いかけた。
「嫌な奴」
雅が、納得の顔をする。
「ああ、気障な奴」
珍しく雅と、気が合うなと思った。俺は達也を見た。
「こいつの名前は……」
俺が、雅を紹介しようとすると、達也が俺に掌を向けた。
「駄目だ、隆。それでは駄目なんだ」
達也は、雅のことを熱く見つめていた。馬鹿にしたはずなのに、全然動じていない。コイツには俺のようなデリカシーが全くない。勝手にやってくれ。俺はグラスを手に取って、ターキーを口にした。気のせいか美味いような気がする。二人がお互いに自己紹介を始めた。驚いたことに、達也は雅と同じ大学だった。雅が三回生、達也が一回生。案外、二人はお似合いかもしれない。何となく、そう思った。
「ターキーでいい?」
由紀恵が、俺のグラスを見て問い掛けた。俺は、グラスを見る。既に飲み干していた。俺は、頷いた。由紀恵がターキーのロックを作ると、俺のコースターにのせた。
「いい気分になってきたんじゃない?」
「ああ、悪くない」
「隆君の、お嫁さんの話を聞かしてくれない?」
俺は、目を細めて由紀恵を見た。
「えっ! どういうこと! 隆君、結婚しているの?」
雅が驚いた顔を、俺に見せた。達也がニヤニヤとしながら、雅を見る。
「隆の嫁は……」
今度は、俺が達也に掌を見せて制止した。
「駄目だ。お前が説明すると話がややこしくなる」
達也が、ニヒルに笑い俺を煽る。
「じぁ、お前が話せよ」
俺は口を噤んでしまう。暫しの沈黙が続いた。由紀恵が、俺に向かって顎をクイッと上げた。
「まずは、飲みなさいよ」
俺は、グラスを持ち上げる。ターキーを口にした。喉が燃えるように熱かった。多分、俺は酔っていたんだと思う。そうとしか考えられない。目を瞑ると。桜が、俺に微笑んでいる顔が見えた。俺は財布に忍ばせている、一枚の写真を取り出した。
「なんの写真?」
由紀恵が、俺の写真を覗き見る。
「桜の写真」
俺は、ボソリと言う。由紀恵が俺から写真を取り上げた。
「咲き終わった桜みたいね。桜が少ししか残っていない」
「ああ、散ってしまった桜だ」
「ふーん。満開の桜の写真なら分かるけど、珍しいね」
俺は、フッと笑う。
「それが良いんだよ」
「散り際の美学?」
由紀恵が、不思議そうに尋ねた。
「そんな、高尚なものじゃない。俺は、その写真が好きなんだ」
桜っていうのは、一気に咲き誇り、散っていくから美しい。ダラダラ咲き続けるのは美しくない。でも、そんなことじゃないんだ。俺は、由紀恵から写真を取り返し、見つめた。写真の中では、花が落ちた桜の木の先っぽから、青い葉っぱが広がろうとしていた。
◇ ◇ ◇ ◇
あれは、高校生になったばかりの事だった。何かの間違いで高校に進むことが出来た俺は、後悔をしていた。ここは俺が来るところではなかった。勉強をする気がないのに、高校に来ている矛盾に、今頃になって気が付いたのだ。やることと言えば、中学の頃と一緒。何故か、じゃれて来る奴らと喧嘩をすることぐらいだった。昼飯を食べた俺は、食後の一服を楽しむ為に体育館の裏に向かった。学校の周りには、桜の木が植えられている。桜が散った後の木には、青々とした葉っぱが生い茂っていた。まるで大きな傘のようだ。その下を、俺は黙々と歩みを進めていた。
「あのー」
どこからか、声が聞こえた。俺は、キョロキョロと辺りを見回す。周辺には、誰もいなかった。
「すみません」
俺は、声のする方に向かって首を曲げた。桜の木の上に女がいた。この学校の生徒だ。どうやって登ったのだろう。スカート姿で、この木を登るなんて、想像するだけで面白い女だ。
「何をしてるんや」
その女は、顔を赤らめる。
「写真を撮るために木に登ったの」
「それで、」
「降りれなくなっちゃった」
そう言って、舌をペロッと出した。確かに、その女の首には大層なカメラがぶら下がっていた。
「どうしたらいい?」
俺はぶっきらぼうに言った。
「降りるのを手伝って欲しいの」
俺は、女を見上げて手を高く伸ばした。しかし、なかなかその女は動こうとはしなかった。
「どうしたんや? 降りるんじゃなかったのか」
その女は、また顔を赤らめる。
「目を瞑ってて欲しいの」
そう言って、スカートを裾を掴んだ。俺は大きくため息をついた。面倒くさい女だ。目を瞑って、大きく両手を広げた。
「これでええか?」
「ええ、ちょっと待ってね」
もぞもぞと動いている様子が感じられるが、なかなか降りてこない。
「あっ!」
女の短い悲鳴が上がった。思わず俺は目を開けてしまう。女は足を踏み外したのか、バランスを崩して落ちるところだった。猫のように体を捻って、何とか体勢を立て直そうとしている。全てが一瞬の出来事だった筈なのに、全てがスローモーションに見えた。桜の花がヒラヒラと舞い落ちるように、その女は俺の腕の中にストンと落ちてきた。小柄な女の体重だ。どうってことはない。因みに、パンツは白かった。俺の腕の中で小さくなっている女に、出来るだけ優しく声をかけた。
「大丈夫か?」
目を白黒させていたその女が、俺を見上げた。
「ナイスキャッチ!」
猫のような丸い目で俺を見た。口元に微笑みを浮かべている。可愛い……と言っていいだろう。俺は、じっとその女を見つめた。女が、モジモジと動き出す。
「あのー、下ろしてもらってもいいですか?」
俺は、お姫様抱っこしていたその女を、慌てて地面に下ろした。身長は俺の肩にも届かない。その場を取り繕うようにして、俺はその女の頭を撫でた。俺の大きな手の平に、すっぽりと収まるような、小さな頭だった。
「気をつけろよ」
俺は、努めて自然に振る舞った。
「うん、ありがとう」
俺のことを、真っすぐに見つめてきた。俺のことを、全然怖がらない。余りにも屈託のない、その笑顔……俺は、つい目を逸らしてしまった。それが、桜との初めての出会いだった。
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