第4話 由紀恵

 俺は走っていた。実家に帰るために走っていた。

 夕方、安達家の寮に一本の電話がある。お袋からの電話だった。受話器の向こうで、お袋が泣き叫んでいる。驚いて問い質すと、修兄貴が攫われたというのだ。

 電話だけでは全然要点が掴めない。俺は、安達家を飛び出すと、実家に向かって走っていた。


 ――どういう事なんだ!


 懐かしい実家の前に立つ。俺は、玄関の引き戸を勢いよく開けた。


 ガラガラガラ!


「お袋!」


 大声で叫んだ。靴を脱いでズカズカと家に入る。居間にお袋が居た。

 俺を見ると、顔を歪ませて、俺に抱きついてきた。


「隆、隆、知らない男が何人もやって来たんだよ」


 気が動転している小さなお袋の肩を、俺は掴んだ。その顔を見る。眼のふちに、青い痣があった。


「どうしたんや、その痣は!」


 お袋が、顔をクシャクシャにする。


「もみ合った時に……」


 髪の毛が逆立つような怒りを感じた。兄貴だけでなく、お袋までも……。

 泣きじゃくるお袋の背中をさする。何があったのかを聞いた。


 普段は家に寄り付かない修兄貴が、たまたま帰ってきていた。母親は、いつものように注文の着物を縫っている。そんな母親の肩を、修兄貴が揉んでくれたそうだ。

 そんな昼下がりに、修兄貴の友人と名乗る男たちが実家にやって来た。兄貴は、渋い表情を見せつつも、対応する為に玄関に向かう。母親は、居間にある作業場で着物を縫い続けた。

 ところが、玄関で言い争いが始まる。驚いた母親は、腰を上げて玄関に向かった。

友人と称した男が、修兄貴に向かって叫ぶ。


「裏切り者!」


 三人の男たちが、修兄貴を取り囲んでいた。その男たちが修兄貴に掴みかかる。

 驚いたお袋は、止めに入った。しかし、小さなお袋の体は、簡単に吹き飛ばされてしまう。修兄貴は、お袋の目の前で、強引に車に乗せられた。そのまま走り去る。お袋の痣は、その時に出来たということだった。


「お袋、そいつらの特徴は、分かるか?」


 お袋は、怯えて首を横に振る。半狂乱になって泣いているだけだった。俺は、お袋の小さな肩に手を載せる。そして優しく囁いた。


「俺が居るから大丈夫。必ず、兄貴を連れて帰ってくる。心配するな」


 不安がるお袋を実家に残して、俺は安達家に帰ることにした。これは若頭に相談しなければいけない。

 再び走った。安達家に到着する。日はすっかり暮れていた。いつもなら生活している離れ屋に向かうが、今回は本家の屋敷に向かう。玄関を叩いた。


 バンバンバン!


「若頭! 若頭!」


 中から足音が聞こえる。鍵が開錠され、玄関の引き戸が開けられた。


 ガラガラガラ!


 京子さんが姿を現す。


「どうしたの、隆。そんなに慌てて」


「すんません。若頭はいますか?」


 奥から足音が聞こえた。若頭がやって来る。


「なんや、隆。騒がしい」


「実は……」


 俺は、修兄貴が攫われた顛末を説明する。若頭は腕を組んで、俺の話を聞いてくれた。

 眉間に皺を寄せて、俺を睨む。


「それはまずいかもしれんな」


 若頭の言葉に、不安になる。


「どういうことですか?」


「その男たちは、裏切り者って叫んだんやな」


「へー、そう言っていました」


「この間、修を焚きつけたからな……アイツ、迷い始めのかもしれん」


「まずいって言うのは?」


「あいつらは、加減が分からん」


「リンチですか?」


 若頭が、唇を噛む。


「隆。今から、カサブランカに向かうぞ。その方が早い」


 離れ屋で休んでいた運転手を、叩き起こす。俺たちは、ベンツに乗り込んだ。カサブランカに向かう。

 若頭の話では、由紀恵ママの情報網を利用して、あの黒川の居場所を探すらしい。

 この時くらい、免許証が欲しいと思ったことは無かった。じれったくて仕方がない。

 カサブランカに到着する。俺は車から飛び出した。重いドアを開けて、中に飛び込む。


「由紀恵さん」


 ママの名前を叫びながら、俺は大股でカウンターに近づく。

 由紀恵ママが、驚いた顔で俺を見た。


「兄貴の場所を探してくれ。攫われたんだ」


 俺の叫びを聞いて、キョトンとしている由紀恵ママ。

 俺は、じれったくて仕方がない。

 そんな俺の肩を、後から入ってきた若頭が掴んだ。若頭が、事の顛末を由紀恵ママに説明する。

 由紀恵ママが、俺を見た。


「探してあげるけど、情報料がいるよ」


 俺は、頭に血が上る。唾を飛ばして、叫んだ。


「こんな時に、金の話かよ!」


 由紀恵ママが、俺を睨みつけて、カウンターを叩いた。


 バン!


「ああ、そうだよ。金の話だよ。甘ったれるんじゃないよ。タダで、人を使おうとするお前は、何様さ!」


 由紀恵ママの気迫に、狼狽えた。

 若頭が、口を挟む。


「ママ、金なら俺が……」


 由紀恵ママが、若頭を睨んだ。


「駄目だね。こいつが言い出したことだ。こいつに決めさせる。若頭は黙ってて」


 若頭が気圧される。眉をしかめた。

 その事で、やっと俺の頭も冷めてくる。兄貴に申し訳ないことをさせてしまった。唇を噛みしめる。俺は、由紀恵ママを睨んだ。


「なんぼ払えばええんや」


 由紀恵ママが、俺を値踏みするようにして見つめた。また、あの雪女のような目つきだ。夏だというのに、体が凍える。


「アタシの男になるのなら、タダでいいよ」


 由紀恵ママが微笑んだ。

 俺は、固唾を飲む。由紀恵ママを、真っすぐに見つめた。


「俺には、生涯誓った女がいる。それは出来ない」


 由紀恵ママの目が大きく開いた。真偽を問うように、俺の顔を飽きるほどに見つめた。


「本当みたいね。アンタの女を見てみたい」


「それは出来ない」


 由紀恵ママが、吐息を漏らす。


「ますます、アンタが可愛い」


 眉間に皺を寄せて、由紀恵ママを見る。

 由紀恵ママがカウンターを迂回して歩いてきた。俺の前に立つ。腰に手を当てて、俺を見上げた。

 俺も、細くて華奢な由紀恵ママを見下ろす。どうしたら良いのか分からない。その時、由紀恵ママの細くて白い手が、ゆっくりと伸びてきた。俺の頬を触る。触りながら、親指で俺の唇を撫でまわす。俺は、由紀恵ママに語りかける。


「いくら払ったらええんや」


 由紀恵ママは、何も言わない。俺の頬を触っていた白い手がゆっくりと下りてきた。俺の首に指を這わせる。いやらしく俺の首を撫でまわした。首から頭のてっぺんに向かって、突き抜けるような快感が走った。

 唇を噛む。


「答えてくれ」


 やはり、由紀恵ママは何も言わない。俺の首で遊んでいる。俺は、段々とじれったくなってきた。

 その時、由紀恵ママが唇を嚙みしめる。それと同時に、俺の首をギュッと絞めてきた。


「ウッ!」


 驚きはしたが、非力な女の力だ。丸太のように太い俺の首を絞めることなんて出来ない。由紀恵ママが、俺を睨んだ。


「あんたを、殺したい」


 俺は、背筋が凍った。こいつは、狂っている。このまま、殴り倒すことは容易いが、それでは、修兄貴は救えない。


「答えてくれ、俺は、どうすればいいんだ?」


 由紀恵ママが、俺を見つめる。


「私を、喜ばせて」


「喜ばす? どうしたらいいんだ?」


「私に言わせないで」


 俺は、暫くの間、由紀恵ママと見つめ合った。

 喜ばすということが、どういうことなのか分からない。分からないなりに、由紀恵ママを抱きしめる。触れるだけで、壊れてしまいそうだった。

 俺のお袋と、歳はさして変わらないはずだ。そんな由紀恵ママだったが、良い香りがする。細くて柔らかい体だった。

 俺に抱かれると、由紀恵ママは声を漏らした。俺の胸に顔を埋める。俺の腰に手を回して、少女のように微笑んだ。

 目を瞑りながら、由紀恵ママが呟く。


「私の為に、週に一度は必ず店に来ること。来るときは、必ず薔薇の花束を用意すること。そして、私を喜ばせること」


 俺は、深い溜息をつく。


「それでいいのか?」


「まだ駄目」


「どうすればいい?」


「由紀恵って呼んで」


 ――なんだ、この茶番は!


 しかし、俺は言われるままに、名前を呼ぶ。


「由紀恵」


 由紀恵は、手に力を入れる。ギュッと抱きしめてきた。

 何だか、俺も変な気分になってくる。暫くの間、俺は由紀恵と抱き合った。


「ありがとう。もういいよ」


 由紀恵が、俺から離れた。付き物が落ちたような表情をしている。カウンターに回り込んだ。

 黒電話の受話器を持ち上げる。方々に電話をかけ始めた。二十分ほど電話をしただろうか。受話器を置く。俺を見つめた。


「分かったよ。アンタの兄貴の居場所が」


 俺は、深々と頭を下げる。


「ありがとう。恩に着る」


 由紀恵は、厳しい顔を俺に向ける。


「ただね、急いだ方が良いよ。裏切り者として、既にリンチに合っている。あいつらは、常軌を逸しているからね。下手したら、殺されるよ」


 由紀恵から場所を聞き出す。若頭と一緒に飛び出した。

 待っていろよ、兄貴。

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