7.引き潮(引き際として使用)
「カスター、まだ、混ぜ……っ、熱っ!」
コンロで火にかけられた寸胴鍋から熱い蒸気が立ち上ぼり、
「気を付けて。熱いだろうけど、手は止めないで」
優しいが、普段よりも静かで真剣な蒼衣の声に、木べらを握る手に力がこもる。ここで情けない姿を蒼衣に見せたくないという意地が、彼の原動力だ。
寸胴鍋の中にあるのは、洋菓子には欠かせないカスタードクリーム。それを焦げ付かせないように、木べらで絶えず混ぜ続ける。水分が蒸発するたびに、鍋の中のカスタードはなめらかに、そして味が凝縮されていくのだ。
ピロートの厨房、早朝。雲クリームの仕込みが終わったら休む間もなく始まるのが、カスタードの仕込みだ。大量の卵、バニラビーンズで風味づけした牛乳、砂糖と、ほんの少しのコーンスターチ。シンプルだがその分、配合と炊き方で店の味が決まってしまう。
「このくらいかな」
やっと炊きあがったカスタードをバットに移し、上からラップで覆うようにして乾燥を防ぐ。
「うちのカスターは少し水分を多く飛ばして、固めで味を濃くしたものなんだ。だから炊くにも若干時間と力がいるし、火からおろす引き際も大切」
丁寧に仕事の手順と理由を説明するときの蒼衣は、普段の頼りない雰囲気がすっかり消えて、一気に『職人』の顔立ちになる。
「出来上がりも味見してみて」
スプーンで一口、舐める。できたてを食べるのは初めてだった。滑らかなテクスチャ、ふんわり香るバニラ。卵の濃厚な風味が舌に絡まるようだ。
「これ、母さんの味とは違う……」
「気づいたね。これは……僕が『リベルテ』の前に居たお店で覚えた味。憧れのひとのね。真似はするなって言われたけど、このカスターだけはどうしても覚えておきたかったんだ」
さっきまで職人の顔立ちをしていた表情が少しだけ揺れて、蒼衣はどこかいたずらがばれたような子どもの顔になって笑った。『前の店』でなにがあったのか、幸久に話す気はなさそうだが「どうしても」の言葉だけで、彼の中で大切なものだというのは伝わってくる。
「……そういうところが――」
言いかけて、幸久はいつものように口をつぐむ。
大人げないのに、その手捌きと信念は立派な大人だと、幸久は思う。そのアンバランスさに、幸久はずっと翻弄されっぱなしだ。
「ん? なんか質問あるかな? 大丈夫、知りたいことは全部教えるから」
蒼衣の表情が揺れたのはほんの一瞬で、すっかり指導者の顔に戻った蒼衣が、頼もしい微笑付きで幸久を見上げる。このシェフパティシエは三十路を越えているが、十八歳の幸久より少しだけ背が低い。故にこんな具合で顔を見られることが多いのだ。
「……もっかい味見してもいいスか」
蒼衣から顔を逸らして、幸久は言う。
「いいよ。大変な作業だけど、カスターはどのお店でも重要だし、覚えたらきっと幸久くんの力になるから。しっかり味と作り方を覚えてもらえたら僕はうれしいな」
あざっす、と小さな声で礼を言う。しかし。
「思いっきり盗んでいくつもりなんで」
蒼衣に対する感情は、整理がつかない。最初の頃に感じた激しい嫉妬心は落ち着いてきた気がしたが、やはりこのお人好しすぎる師匠に、なにか一言言ってやりたくなるのだった。
「ひえっ、う、うん、その意気だよ……!」
困ったように笑いながら、蒼衣は似合わないガッツポーズを作る。常に幸久を肯定する蒼衣の態度に、幸久は片付けをするのを理由にして、再び顔を逸らすことしかできなかった。
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