中編
一階に降りた優子さんは、そのまま駐車場に向かいました。コンビニまでそれほど距離は無いのですが、九月といってもまだ残暑の残る蒸し暑い時期でしたから、車で行こうと考えたそうです。
駐車場まで行くと隣接する公園から子どもたちの遊び声が聞こえてきます。いつもどおりの日常。優子さんはその声につられて、何の気なしに公園のほうを向いたそうです。すると、その視線は公園にたどり着く前に駐車場の端で止まりました。公園と駐車場とを仕切る金網の手前側に、一人の男性が佇んでいるのが目に止まったそうです。五十代後半くらいのその男性は、暑い日にも関わらず日除けのない駐車場の端に佇んでいました。よく見れば、公園のほうにスマートフォンを構えています。優子さんには、はしゃぐ子どもたちを男性がカメラ機能を使って撮影しているように見えました。
遊んでいる子どもたちの家族かしら?
一瞬、優子さんはそう考えたそうです。しかし、すぐにある疑問が浮かびました。
子どもたちの家族ならどうして駐車場側に立っているんだろう。そう思ったそうです。
先程書いた通り公園と駐車場の間には金網が設置されています。補足すると、駐車場と公園は隣接しているとはいえ、間に金網があるため、一度大通りへ出て回り込まなければ行き来できない仕様になっているそうです。金網の高さはさほど無いそうなので、よじ登ることも可能ではありますが、それでも写真をとるために大の大人が敢えてその金網を乗り越え、他人の暮らす私有地に許可なく足を踏み入れるだろうか。優子さんはそうも思ったそうです。
ひょっとしたらこのアパートの住人なのかも知れない。優子さんはその男性に見覚えはありませんでしたが、元々隣に住む住人の顔さえ覚えていないのです。ですから、その男性がアパートの住人である可能性は十分あるように思えました。ただし、それであっても赤の他人を無断でカメラに収めて良い理由には当然なりません。
注意をした方が良いのだろうか?
それとも挨拶がてらを装ってさり気なくこのアパートの住人か聞いてみようか?
優子さんは男性を遠巻きに眺めながらそんなことを思案したそうです。
無防備にそんなことを考えていたのがいけなかったのでしょうか。
男性は公園に向けていたスマートフォンを不意に優子さんのほうへ向けてきたそうです。一瞬のことでした。それから、パシャリという音とともにフラッシュが焚かれたというのです。優子さんはその光に思わず目を塞ぎました。一瞬の後に、優子さんは信じられない思いで男性を見ました。あまりにも突然のことだったので、その時は怒りよりも驚きのほうが勝ってしまったそうです。男性は悪びれることなく、無表情のまま、まだその場に立っていたそうです。
優子さんは身構えました。その瞬間にも優子さんの脳裏には様々なことが浮かんだそうです。
警察に電話?
いや、それとも直接抗議をしたほうが良いだろうか?
それとも走って逃げる?
許可なく写真を撮ってきた相手に当然良い印象などある筈もないでしょう。寧ろまともな人間であれば、無許可で他人を撮影しようなどと思わない筈です。そのような結論に至った結果、対峙している男性が未知の生物であるように思えたそうです。逡巡した後、優子さんは自身の所有する車に逃げ込みました。そして、すぐさま内側から鍵を掛けると、バッグの中からスマートフォンを取り出しました。警察に通報することに決めたそうです。スマートフォンを操作する指が震えているのが分かりました。使い慣れている筈なのに、震えているからかタッチパネルが上手く反応しません。優子さんは車の窓ガラス越しに、外に居る男性を見ました。男性は平然とした顔で駐車場の端に立ったままでした。
警察に繋がったらあの男性の特徴を伝えないといけない。そう思っていると、
「え? うそ?」
思わずそのような言葉が優子さんの口から漏れました。
男性は優子さんが見ている前で、スーとその場で消えてしまったのです。優子さんの言葉を借りるなら、空気に溶け込むみたいに自然にフェードアウトしたそうです。
優子さんは暫くの間、男性が消えてしまった場所を車のエンジンも掛けず、ポカンと眺めていました。直射日光に温められた車中に居てさえ、暑いと感じられなかったそうです。
公園からは相変わらず、子どもたちのはしゃぐ声が聞こえていたそうです。
この話を私に教えてくれたあとで、「どう? 凄く怖いでしょ?」と優子さんは悪戯な笑みを浮かべました。幸いなことに、その日以降はその男性を見かけていないとも優子さんは付け足しました。
私はそれを曖昧に笑って誤魔化しました。内心では作り話だと思っていたからです。しかし、どうせ作り話をするのであれば、せめて時間を夜にするだとか、気がついたら男性が後部座席に座っていたなど、そういったオチを付けたほうがもっと怖いのに、何故そうしないのだろうか? まさか本当に体験したことだから? そう思いもしました。つまり、優子さんが教えてくれた体験談が嘘なのか、あるいは本当なのか、私には分からなかったのです。だから学生時代の頃のように、曖昧に愛想笑いを浮かべてしまったのです。
私の反応がいまいちなことに気付いたのか、唐突に優子さんは話題を変えてきました。
「ところで、博子。敦は元気にしてる?」
空気が変わった気がしました。いえ。今になって思えば、敢えて優子さんが変えたのでしょう。
そう訊ねた優子さんの口調は穏やかなものでしたが、その目には狼狽の色が伺えました。訊きたくはなかったけれど、訊かざるを得ない。そういった気持だったのだと思います。おそらく、あの日喫茶店に入ろうとした私に偶然の再会を装い、話しかけてきたのは、それを聞くためだったのではないでしょうか?
優子さんの意図にはなんとなく気付いていました。喫茶店の入り口で話した時から、気付かれぬように、こっそり私の左手の薬指を盗み見ていましたね。
優子さんの質問に私は、ええ、と笑って頷き、
結婚するの、私たち。お腹に彼との赤ちゃんも居るのよ。だから私、水川博子になるの。
私ははっきりと伝えました。あなたは気付かれていないと思ったのかも知れませんが、明らかに目に動揺の色を浮かべたのが私には見て取れました。
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