第三凜 悲願、彼岸へ届け

第44話 中臣氏の太祝詞言い祓え、贖う命も誰が為に汝

 儀式場は静けさを取り戻していた。

 なんのことはない、地底湖には小島と岸の間に浅瀬の通路がしつらえてあって、他は深くなっているのだ。道眞どうまら三人はそこへ落ちた。

 娑馗しゃき聖者しょうじゃは水を通して、三人を古宮ふるみやむらへ送り返すつもりだ。

 百舌鳥もずヤマトと羽咋はくい道眞、霊餌たまえを喰らった人間と、肥え太った神餌かみえ。改めて互いに向き直れば、どちらかがどちらかを喰うしかないと悟るだろう。


 いざ送り返そうと聖者が念をこらしたその時。


「ぐ」


 魚の小骨が喉に刺さったような、ひっかかりが起きる。


「……っ!? うっっぎぃぃぃいえっえぇえぇええええええええ――!!」


 それは灼熱の痛みとなってはじけ、肉体がそのまま爆ぜ散ぜるかと思った。聖者は白金の美貌を大きく歪ませて絶叫する。

 彼岸花の刀が胸を貫いて、背中まで刃を出していた。背骨に峰が当たり、ぱっくり割られた心臓が狂ったように血を吐き出す。


「か、ふっ、かはぁ……下郎がっ!」

きためたまえ、神立かんだち浄宗きよむね。ってとこやな」


 湖面、小島に続く道に筋骨隆々の男、ずぶ濡れの百舌鳥が立ち上がった。大きく振りかぶった格好から、この男の太刀投げが聖者を傷つけたのだと知れる。

 オーバーオール姿の少女、茅は黒猫を抱え、眼鏡と和服姿の青年、道眞もそれぞれ道に上がって来ていた。あのまま沈んでおけば良かったものを。


「貴様ら、よくも迂生うせいが玉体に……!」


 聖者は歯がみしながら、忌々しい剣を抜こうと柄を握った。水で薄まっただろうに、刃に染みついた霊酒くしびきがじゅうっと肉をく。

 別天べってん現子あきこ。我が血族の面汚しが、愚かにも教団の神酒を真似て造った毒。それを、聖者は頭からたっぷりと浴びせられ、またも悲鳴を上げた。


「ゃあぁあだぁぁっあぁあっああぁああああっあああっ!!」


 聖者はこの百年、傷つけられたことがない。痛みを感じた覚えがない。久方ぶりの苦痛というものに、その動作は自覚以上に緩慢なものだった。

 聖者がもがき苦しんでいる隙に百舌鳥は距離を詰め、鞘の中に残っていた霊酒を残らずぶちまけたのだ。鞘には酒がこぼれないよう、開閉の仕掛けがあるから水中で薄まったり、無くなったりしなかった。


「俺らが下郎なら、おどれは外道や。さんざ人様をもてあそびくさりよって」


 百舌鳥は鞘の中身を空にすると、聖者の胸から生える刀の柄を握った。前にも後にも引くことはない。どずん、とその場で踏みこみ――ひねって斬り上げる!

 正中線しょうちゅうせんは人体の急所が縦に並ぶラインである。上半身のそれを、百舌鳥はあやまたずすべて通過し、脳天まで真っ二つにした。

 醤油のような黒い血と、豆腐のようにやわらかな脳みそがこぼれ落ちる。ぎょろぎょろとあらぬ方向を見る四つの瞳は、瓶の中で揺れるビー玉のようだった。


「おどれには感謝しとるで。おかげさんで、俺は死なずに大人になれた。そやけど、それはそれ、これはこれ――せめての罪滅ぼしに、死にさらさんかい!」


 ぶんっと血振るいして構え、百舌鳥はさらに撃剣する。

 丹田から力の入った中段の構え、黒葛原つづらはら一文字いちもんじ流剣術・主略しゅりゃくともし。丹田――すなわち腰からの動きを、人はかわせない。

 上半身だけ、脚だけの動きなら避けることは容易いが、腰からでは違う。百舌鳥は背骨を真っ直ぐて、正鵠せいこくを捉えた一刀を放った。


 二の太刀要らず。


 ぱかりと左右泣き別れになった娑馗聖者を、道眞は横合いから抱き留めた。うっかりくっついてしまわないよう、慎重に左右を脇に抱える。錫杖はその場に転がした。

 道眞は百舌鳥が納刀するのを見届けてから、娑馗聖者の右半身をよこそうとする。


「ちょうどこれで半分こだ。喰え、百舌鳥」


 百舌鳥は目鼻を吊り上げられたように、口を目いっぱいへの字に曲げて、拒絶の意思を示した。げえー、と吐き真似までしてみせる。


「死んでもゴメンや」今は冗談にならない。「絶対に喰いとうないわ」

「仕方ないな」

「ひ……ひあ……」


 道眞はスイカでもかじるように、娑馗聖者の頭に噛みついた。


「うーん、なんというか、こってりとしている。相当の魂を喰ってきているんだろうな、これ。何十人か何百人かは知らないけどさ」


 ぱりぱり、こりこりと、道眞は娑馗聖者を食べていく。儀式場には大勢の信者がいたが、誰も動かず、声も上げなかった。


「ねえ、もずもず。それ、食べなくていいの?」


 両親の仇を「それ」呼びし、茅は物のように半身の聖者を指さした。


「神餌を食べないと、死ぬんだよ?」

「んなこたあ分かっとるんや、アホンダラ!」

「ひどい!? 」


 もし百舌鳥が娑馗聖者を喰わないのなら、彼が助かる道は一つだけ。それがどういうことか改めて考えた時、茅は自身が思い違いをしていることに気がついた。

 とっくのとうに、百舌鳥と道眞の間には、暗黙の了解が取られているのだ。


「聖者サンはえげつない美人やけど、腹の中はどす黒う腐ったやつや。とても喰う気になれんな。そやけど、葬儀屋――道眞なら、話は別や」


 俺は、お前なら、喰いたい、と。


「僕も、君になら喰われていいと思っているよ」


 また自分が知らない間に、大人たちの間で話が進み、事が決まってしまっていた。そのことに茅は傷ついたが、今は言っている暇はない。


「ダメだよ! ドードーが死んじゃう!」

「茅ちゃん。僕はもう、ずっと前に死んでいるんだ」


 真剣に話し合う人間たちをよそに、赤目黒猫のリリンコは、全身をドリルのように振って水を飛ばしていた。


「生き返るのは気持ち悪いって言ったこと、覚えているかい? 僕はもう、これ以上、生きたをしていたくないんだ。キヨイが別天先生を殺したように、死者と生者は、相容れない。霊餌も、神餌も、いるべきじゃない」


 教団で女たちに陵辱された時の道眞は、快楽と苦痛のコイン、その裏表を二つに割ろうと、必死でのこ引いていた。ぎこぎこ、ぎこぎこ、ぎこぎこと。

 それと同じことを、道眞は神餌になってからずっと続けていたと言う。生と死のコインを真っ二つにすべく、脳内で鋸引き続けて、引き続けて、ぎこぎこ、ぎこぎこ。

 ぎこぎこ、ぎこぎこ、ぎこぎこ、ぎこぎこ、ぎこぎこと。


「僕はどこかで、葬られることをいつだって覚悟していた」言ってから、「いや、そんな格好良いものじゃないな」と訂正する。「葬られるのを待っていたんだ」


 茅の眼に、道眞は急に百歳も老け込んだように見えた。すっかり生きることにんでいるのに、死なないから仕方なく生きているが、それにも疲れたような。


「もう、ゆっくり休みたい。眠りたい」


 だが彼は、生きてすらいないのだ。


「だから、百舌鳥に食われるなら、それが一番良いんだ」


 そうして道眞は、一人で娑馗聖者を喰い切った。

 その間、信者たちは水を打ったように静かで、誰も何もしようとはしない。ボスを失って混乱しているにしても不気味だ。

 かと思えば、一人の老婆が「新たなる聖者さまの誕生だ!」と声を上げ、その場に平伏した。ドミノ倒しのように、一斉に信者たちがひれ伏して固まる。


 まるで、猿山のボスの交代だ。百舌鳥はいら立ちながらも、彼らを放っておけるのは良しとした。この人数と戦うのは、さすがにしんどい。


「道眞、俺はわれを喰う。ただ、その前に一つ教えとくれや」

「なんだい」


 道眞の笑みはどこまでも、日だまりのように茫洋ぼうようとしていた。死を目前にした人間は、こういう悟りきった表情をすることがある。

 諦念でなく、透き通るような黄金と甘味の玻璃はりが舌の上に転がった。


「われが初めて霊廻たまえしきした時の和歌、生出おいずるに向けたらどうかと言って、とりやめにしたやつがあったやろ」

「〝中臣なかとみ太祝詞ふとのりごと言い祓え、あがなう命もが為になれ〟――これのことか?」


 それでいい、と百舌鳥は首肯する。いつの間にか、自分自身の肉体の重量が枷のように、動作の一つ一つに抗っていた。霊餌の毒が回ってきている。

 百舌鳥の体は病的な熱を帯び、ぜいぜいと息が荒くなっていた。視界がぶよぶよとたわむのは、さては眩暈めまいか。自分に残された時間は長くない。

 道眞を抱き寄せると、死者の体はひんやりとして心地良かった。強く抱擁しながら、百舌鳥は教えられた和歌をささやく。


「中臣の太祝詞言い祓え、贖う命も誰が為に汝」


 歌の意味はこうだ。

中臣なかとみうじの立派な祝詞を唱え、神さまにお祈りして、穢れを祓い願う命は、ひとえにあなただけのため〟。


 道眞の首筋に歯を立てる。

 しゃくりと、果実のような食感がした。

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