第二輪 寄香(よすが)、したためて

第31話〝知恵者猫さま〟の怪

 日没直後の宵、〝不思議の国のアリス〟の少女人形を両腕に抱えて、追切おいきりかやは神社の石段を踏みしめた。

 八月五日、京都府某所・川那辺かわなべ神社。田園風景のど真ん中、聞こえるのはワアワアというカエルの大合唱、明かりは石段の少し前に一つだけ立つ街灯のみ。

 日中しこたま太陽に蒸されただろう空気は、あたりに広がる鎮守の森に熱を吸い取られたのか、夏の夜にしてはひんやりと涼しい。


「だいじょうぶ、あたしはだいじょうぶ」


 髪をツインのお団子に結び、白いカッターシャツに赤いサロペットの茅は、すくみ上がる己を鼓舞し、懐中電灯で先を照らす。背中には蛍光色のナップザック。

 祖母の別天べってん現子あきこと動く死体の羽咋はくい道眞どうま、霊感のある刑事(停職中)の百舌鳥もずヤマトは、神社の入り口に停めたスズキ・ハスラー内で待機している。

 傍にいてくれるのは、赤目黒猫のリリンコちゃんだけだ。つやつやの短毛ボディに、長くて真っ直ぐな尻尾の美女猫。


「ア~リス、ア~リス、アリスちゃん♪ いっしょにお参りにいこうね」


 茅はリリンコに話しかけたいのを我慢して、抱えた球体関節人形の名を呼んだ。

 長い金髪に赤いリボン、目は青い硝子玉で、水色のジャンパースカートに白いエプロンドレス。足元は黒のストラップシューズで、身長は五〇センチほど。

 

「こんな可愛いお人形さん、神社に置いていくなんてもったいないなあ」


 しかし、それが今回のルールなのだからしょうがない。


・十代の少女が一人で、

・「アリス」と名付けた女の子の人形を抱いて、

・夜の川那辺神社にお参りする。


 すると、〝知恵者ちえしゃ猫さま〟という怪異が現れて、人形をお供えするとなんでも聞けば答えてくれると言う。ただし、質問の答えは必ず逆だ。

「ない」という答えなら「ある」だし、「いる」という答えなら「いない」。

 質問は三度まで。茅は母の行方と、娑輪しゃりん馗廻きえを探す方法、キヨイの正体、の三つを訊ねてくることになっている。

 しかし、やっていることは、完全に肝試しそのままだ。


(おとうちゃんのカタキ討ちだもん、これぐらい平気、へっちゃら!)


 先日の〝がねさん〟が体を切ったように、危険な代償はないだけマシな怪異だ。だから祖母も茅一人、とリリンコ一匹で行かせてくれた。

 神餌かみえの道眞が怪異側からどうカウントされるかは不明だが、「猫」は「一人で」という条件には触れないだろう、という目算だ。


 リリンコは茅を励ますように、てちてちと肉球を踏みしめながら、時おりすねに体をこすりつけて来る。それだけで緊張が少し解けて、ほっとした。

 夜闇の中で、黒猫の眼は鬼灯のように赤く輝く。



「キヨイの出現は寿命を削るわ。ヤマトさんが意識を保ったまま交信する方法を見つけるまで、キヨイとの交霊会は保留にしましょう」


 八月四日、滋賀に戻って最初のチームミーティングで、別天はそう告げた。

 娑輪馗廻の教団内で一回、実顕じっけんで一回、そして雁金かりがね家で一回。そのたびに小指一本ぶんずつ白くなっていった百舌鳥の前髪は、ずいぶん目立つようになってきた。しかも、どんな白髪染めも受けつけない。


「その代わり、私は口寄せや降霊占いの怪異――つまり、〝コックリさん〟や〝さとるくん〟と同類の霊餌たまえを探すことを提案するわ」


 時刻は朝十時、色硝子とすり硝子に研磨され、まろやかになった夏の朝日が、涼しく保たれた玄関ホールに降り注ぐ。

 中庭には、相も変わらず不死不滅の彼岸花が、一面真っ赤に咲いて。

 別天はローテーブルに広げたメモ用紙に「狐狗狸さん」と書きつけた。今日は撫子なでしこ文様で赤紫にまとめた浴衣姿だ。


「コックリさんとは、キツネ・イヌ・タヌキといった動物の霊を呼び出して占うってもらうから、とこの漢字を当てられたそうよ」

「俺でもコックリさんは知っとるな。十円玉が勝手に動くんは筋肉の反射やとか、集団ヒステリーやとか。はた迷惑なこっちゃ」


 オカルトやホラーに興味のなかった百舌鳥でも、名前ぐらいは知っていた。今日も今日とてYシャツとネクタイ姿を崩さない。

 コックリさんが引き起こした集団ヒステリー事件は、時に警察沙汰になったこともあると言うから、その方面から知ったらしい。


「そんなんにも霊餌がおるんけ?」

「大東亜戦争当時には、日本を離れた戦地でも、コックリさんに戦いの趨勢すうせいを尋ねた兵士がいたそうよ? なかなか馬鹿にしたものではないわ。コックリさん自体が霊餌になっているかはともかく、ね」


 コックリさんの手順はこうだ。あいうえおの五十音と鳥居、はいといいえ、男、女の字を書いた紙に十円玉を置き、参加者全員が十円に指を置いて『コックリさん、コックリさん、おいでください』と唱える。

 十円玉が勝手に動き出したら、コックリさんがやって来た合図だ。五十音表の文字に一つずつ止まり、メッセージをつづって質問に答えてくれるのだとか。


「かごめかごめの原型となった〝地蔵遊び〟も、みんなで囲んだ一人の子供をお地蔵さまにして、お告げを聞く口寄せの儀式だったのよ」

「もう一つの、さとるくんって?」


 茅の質問には道眞が答えた。


「公衆電話から自分の携帯に電話をかけて呪文を唱えると、二十四時間以内に霊から電話が来るっていう怪異だよ。どんな質問にも答えてくれるから〝悟るくん〟」


 公衆電話も、最近はあまり使われないしねえ、と笑う。

 今日の道眞は紺色の着流し姿に、白と黒で市松文様柄の羽織を着ていた。足元は雪駄と白い夏足袋。


「そういうタイプの霊餌がいれば、おかあちゃんの居場所も分かるんだね!?」


 茅の母親・追切泉が音信不通になって十日。父の生出が娑輪馗廻に捕らえられ、紆余曲折を経て惨殺死体となったことを思えば気が気ではない。


「用意周到なバアさまのことや、もう目星はつけとるんやろう?」

「ヤマトさんにはお見通しね。今回探すのは、〝知恵者猫さま〟よ」


 別天が人さし指を立て、怪異を語り始める。実行者が限定される以上、祖母がその話をした時点で茅の参加は決まっていた。それが、彼女には嬉しい。

 自分もチーム・リリンコの一員として祖母に認められたのだ。必ず、〝知恵者猫さま〟に会って、大事な情報を手に入れようと決意した。



 そして現在。スズキ・ハスラーの車内で、道眞は「茅ちゃん、大丈夫かな」とこぼす。運転席の百舌鳥は、「何かあったらすぐ分かるやろ」と生返事だ。

 手も足もでかくて太い彼の体には、車内は狭苦しいらしい。


「確かに、〝狩り鐘さん〟の怪みたいな危険はなさそうだが……」


 あの時は、「霊餌になった雁金は割腹自殺した」「狩り鐘さんに願ったものは、代償として体の一部を切られる」と血なまぐさい話が多かったが、今回は違う。


「コックリさんには集団ヒステリーがつきものだろ。十四歳の女の子が夜中に一人で、神社に行かされるんだ。精神的にはかなり厳しいだろう」

「茅ちゃんを心配してくれてありがとう、道眞さん」


 助手席から半身を乗り出して、別天は笑いかけた。片目を覆う黒い眼帯を除けば、なんとも品良く如才ない笑みだ。


「でも、あの子はとても強くてしっかりした子よ。あんまり過保護なのはいただけないわ。信じて待ちましょう」

「……そうですね」


 惨殺された父親の死体を目にするだけでも、それは一生の心の傷になるだろう。だと言うのに、茅はその父親が死してなお動く化け物となったのを見た。

 狩り鐘の時は、百舌鳥と怪人の剣劇を近くで目撃した。

 その上、母親は十日近く音信不通で行方知れず。


(おまけに、一つ屋根の下には動く死体と、得体の知れない怨霊までいるんだ)


 茅の置かれた状況は考えれば考えるほど過酷だ。それなのに、あの子はまるで弱音を吐こうとせず、いつも明るく振る舞っている。

 今回、同行できるのは霊猫リリンコだけというのが道眞には口惜しい。「たよりが無いのは良いたより」とはよく言ったものだ。


 このまま何事もなく、茅とリリンコが帰ってきて欲しい。

 なんなら、道眞は知恵者猫さまに会えなくても構わない。娑輪馗廻のことも、キヨイのことも、まだ何か他に手立てがあるはずだ。


「そういえば」


 ぽつ、と道眞は大事なことを思い出す。


「寝ている間……まあ正確には、封印されている間ですが。夢を見るんです」


 動く死体である道眞は、本来眠る必要は無い。

 なんなら二十四時間ずっと活動し続けられそうだが、娑輪馗廻に帰依していないとはいえ、別天の眼が届かない場に神餌を放置する危険は犯せない。

 だから彼女の手で、道眞は夜0時から朝7時まで封印されていた。


「初めはよく分からない、ぼんやりしたものだったんですが。最近、それが小さなころの茅ちゃんや、そのお姉さんらしいことが分かってきて……たぶん、あれは僕が霊廻たまえしきした、生出おいずるさんの記憶なんじゃないかと思うんです」


 赤ん坊の茅と瑞穂、保育園に幼稚園、お誕生日、旅行、いたずらして叱られて、泣きわめく場面。父親の生出が、娘を愛していたことがよく分かる思い出の数々。

 あの子があんなに強いのも、父と母のため娑輪馗廻と戦おうとしているのも、生まれ持った気質だけではない。両親にしっかりと愛されて育ったからだ。


「だから、こんなことを言うのは失礼な話なんですが。どうしても、茅ちゃんが他人ではないような気持ちになってしまって……すいません」

「あほか。それじゃ自分が喰った魂に、あべこべに喰われるようなものやろ」


 毒づく百舌鳥に、道眞は反論できない。道眞が徐々に父親の記憶を持ち始めていることを茅が聞いたら、なんと言われるだろう。


「霊廻式は私も初めての試みだから、正直分からないことだらけよ。話してくれてありがとう、道眞さん。今度から夢日記でもつけてみましょう」


 別天はごく冷静な、あるいは事務的な淡々とした対応をした。それが道眞にはありがたい。ほっとしたその時、ぐい、と左腕をひっぱられる感触がした。


「え?」


 ぼとり、と。


「茅ちゃん!?」


 道眞の左肩から先が痛みもなく外れ、たもとの中へと落ちる。

 それはまるで別の生き物のように、布地越しにばたばたと暴れ始めた。

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