幕間 殺々三昧(せつせつさんまい)、活々三昧(かつかつさんまい)

「ヤマト、今のぼくはどんな味がする?」


 放課後の夕日は琥珀色になって、中学の教室に射しこんでいた。同級生の太一たいちが声をかけたのは、百舌鳥もずヤマトが因数分解に頭を抱えていた時だ。

 他の生徒はすでに帰ったり部活に出たりして、教室には二人だけ。


「砂糖の入った卵焼きの甘味あまあじやな。ごく普通や」


 飾らない短髪に眼鏡と、ごく真面目そうな外見の太一は、「正解」と百舌鳥を指さした。彼との付き合いはもう二年になるが、一番の友人と言って良い。


「その力、刑事になったらぜったい活かせや。あんまり人に話さん方がええけど」

「そう言われてもな。黄色うて甘いのも、分かりやすう言いよるだけで、ほんまはもっとこう、ちゃう感じなんやで」


 百舌鳥はろくろを回すように、虚空に手を伸ばした。目を閉じてうなる。


「そやけど、これ以上うまい説明が思いつかんねや!」

「超能力者って大変やなあ」

「そういう呼び方はやめんかい、太一」ギロリと睨む。

「あはは、かんにん」


 ただでさえ目つきの悪い百舌鳥に、険しい視線を投げられて平気でいられる生徒は少ない。太一は頭の後ろをかきながら、笑ってそれを流した。


「そやけどヤマト、ずいぶん変わったやんな」

「? そうかぁ?」


 気を取り直して因数分解ともう一度向き合おうとすると、太一が妙なことを言い出す。百舌鳥にはまったく自覚のない話だ。

 太一と出会ってから、自分に何か変化などあっただろうか。


「ぼくに『刑事になりたいから、勉強を教えてや』って頼みに来た時よりも前」


 前? 百舌鳥が知る限り、太一とは中学が初対面のはずだ。


「五年二組」


 出し抜けに、嫌な過去を突きつけられてギクリとする。

 五年二組は、かつて百舌鳥が在籍していたクラスだ。当時の同級生のことなど、顔も名前もまったく覚えていない。それ以前のクラスも、養護施設の仲間も、みんな、みんな、どうでも良い存在だったから。


「あのころの〝ヤマト〟は、同級生って言うよりモンスターやった。相手が中学生でも高校生でも、犬でも大人でも、見境のうケンカを売って……ぼくはヤマトがめっさすごくおとろしかった怖かったど。それが、ピタッとおとなしなってさ。何があったん?」


 太一の口調にも味にも、責めるような響きはなかった。


「師匠にうた。剣術のエラいせんせで、……正直、尊敬しとる」


 雁金かりがね古都ことひさ。おおらかで、陽気で、面白いあのおっさんに出会わなかったら、自分は今でも誰彼構わず殴りかかる狂犬のままだっただろう。

 そう思うと、九死に一生を得た人のように、ゾッと冷たいものが腹の後ろをなでる。それが恐ろしければ恐ろしいほど、雁金の存在が百舌鳥にはまばゆかった。


「へえ。ぼくも会うてみたいな」

「おう、やったらこの後、いっしょに道場に顔出すか」

「うん!」


 太一は中学に上がった時には、すでにガリ勉で有名で、運動はからっきしだった。カツアゲされていた彼を助け、そのお礼に勉強を教えてくれと頼んだのが、百舌鳥とのなれそめだ。刑事になりたいという目標を、その時にはしっかり見据えていた。


 雁金が自分を変えてくれた、それは間違いない。

 だが、十一歳までのあのケダモノのような自分を知っててなお、勉強を教えてくれた太一も百舌鳥を変えた存在だ。


(人間ってのは、どうとでも変われるもんやな)


 昔の自分が今の百舌鳥を見たらどうするか――まあ、十中八九、とりあえず殴りかかってくるだろう。同じようなことがあったら、そのわけも分からず拳を振り回す子どもに、色々大事なことを教えられる、雁金のような大人になりたい。


 とはいえ、それはまだ少し大それた夢にも思える。だから、せめて、太一のように自分の得意分野を人に教えるだとか、そういうこともしてみたい。


 百舌鳥が雁金道場への入門を勧めると、太一はそれに乗って二人は先輩後輩の仲になった。稽古をして疲れたら、雁金家の風呂を借りて汗を流し、奥さんの里子さんが作るやたら品数の多い夕食をみんなでわいわいと食べる。


 そんな日々が、いくらか形は変わっても続いていくだろうと。

……そのころは疑いもしなかった。



 太一が死んだのは、高校三年の冬休みだ。

 家族旅行の旅先で、バス会社に酷使された運転手が居眠り運転をしての事故。太一の両親は生き延びたが、息子を失ったその胸中は計り知れない。

 運転手本人もいっしょに亡くなっており、葬儀の席にはバス会社の役員がきたが、父親が塩を投げつけて追い返した。


 棺に入った友の死に顔はやけに綺麗で、本当は寝ているんじゃないかと思えてならなかったことが忘れられない。

 黒い黒い味が当たり中にうずまいていた。白くて辛くて、それだけでもきついのに、その二つが大勢集まって、舌の上で煮詰められていく感触。

 百舌鳥は葬儀場で嘔吐し、途中で帰るはめになった。



 それから何ヶ月もしない春、雁金里子もまた交通事故で亡くなった。雁金家は特に親族も呼ばず、道場の門下生とで、こぢんまりと葬儀を行ったが……。


「ヤマ坊、そんなん持って何をめぐ壊す気や?」


 夜の住宅地。そこに続く曲がり角に設置された街灯の下で、雁金は弟子に声をかける。百舌鳥はパーカーのフードをかぶり、マスクで顔を隠していた。

 その肩には竹刀袋が引っかけられている。中身は鍛錬用に鉄芯を入れて、重さを増した木刀だ。人の骨を砕くことなど、造作も無い凶器。


「あの白取しらとりってヤツに分からしちゃる。自分が何しでかしたのかをな」


 白取淑郎よしろうは軽トラックの運転中に、ハンドル操作を誤って雁金里子を轢き殺した。

 飲酒していたわけでも、居眠りしていたわけでもなく、自ら警察に連絡し、捜査にも協力的。結果は罰金刑のみ、懲役はなし。

 実際、死亡事故の加害者が刑務所に入るのは、全体の数パーセント。ごく悪質な場合だけだ。警察学校への入学が決まっている百舌鳥は、理屈では理解できる。

 だが理屈と感情は別物だ。


「われはそんなんのために、黒葛原つづらはら一文字いちもんじ流を使うんけ」

「そんなん?」


 じっと白取家の方を睨んでいた百舌鳥は、雁金の方へ向き直った。


「これは里子さんの仇討ち、いや弔い合戦や。白取ってのは剣道や空手をやっとって、ごっつすごく強いらしいからな。俺も無傷で済まんやろが、やっちゃるで」

「なら、われを黒葛原一文字流から破門する」


 最初、百舌鳥は師の言葉を信じられず、聞き返すこともできない。だが、舌の上に嘘や冗談を言っている味はしない。


「われがやろうとしとるんは、〝外道の剣〟や。それは剣の修行をして、より良う人生を生きていこうちゅう当流の教えに反する」

「でも、里子さんはあいつに殺されたんやぞ!」


 百舌鳥は思わず、人目もはばからず大声をあげた。

 たとえそれが不幸な事故だったとしても、せめて一発殴らないと気が済まないではないか。雁金がそれをやって逮捕されるぐらいなら、自分がやる。

 どうせ雁金と里子に出会うまでは、どうでも良いと思っていた人生だ。雁金に会い、黒葛原一文字流の門下生になって、本当に世界が変わった。


 雁金夫妻には、妻の不妊症が原因で子どもがいない。それでも、互いがいれば良いと二人は長い年月を連れ添った。そこへ現れたのが、十一歳の百舌鳥だ。

 道場の門下生も大事な生徒だが、養護施設暮らしの彼を、二人は特に気にかけてくれた。百舌鳥の方も雁金家のちゃぶ台を囲んで、家族とはこういうものかと思ったものだ。そのかけがえのない日々は破壊され、もう二度と戻ってこない。


「あいつは人を殺してもたが、外道とちゃう」


 でも、と言いかける百舌鳥に雁金は言葉をかぶせた。


「嫌な夢を見るんや。わしが白取を殺して、事故の時、周りにおった野次馬も殺して、警官も殺して、見境のう斬り殺して回ったあげく、われまで斬る夢を」


 だから、その悪夢を現実にしてくれるな、と。それは、お前が道を外したら、自分も引きずり込まれるから、という師の懇願こんがんのようにも百舌鳥には思えた。


「われは警察学校に入るんやろうが、そんな時にやらかすなや。それにな、ヤマ坊」


 ぐい、と雁金は百舌鳥との間合いを詰める。


「われ、太一のことも、白取に八つ当たりする気やろ?」


 四角い眼鏡の向こうに透ける師の眼差しは、今までに無く冷たかった。嘘や欺瞞というものが凍りついて砕け散り、言い訳を許さない絶対零度の澄明ちょうめい


「そやから、わしはわれは破門するしかあらへんのや」


 話は終わったとばかりに視線を切り、雁金は百舌鳥が目指す方向、白取家に続く道の真ん中に立つ。その姿は百舌鳥の目に、くさびのように映った。

 迷っていたのは一〇分だったようにも、一時間だったようにも思う。何か話したかもしれないが、よく覚えていない。

 だが最後には、百舌鳥はその場を去って家へと帰った。以来、彼が亡くなるまで雁金と顔を合わせたことはない。

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