ひとつ、ひがんにさかるるここち

第一輪 悪意、彼岸に咲く

第1話 いざなわれしもの

「起きんか!」


 何かがバチンと炸裂したショックは、怒鳴り声の形になった。


「あいたたた……」


 ビリビリと、顔をしかめるのも辛いこの痛みは何だと思いながら、羽咋はくい道眞どうまの目は人相凶悪な青年をとらえる。

 ギラリと輝く眼光が、真っ直ぐこちらを射すくめていた。冴え冴えとした切れ長の目には濃いクマが刻まれ、抜き身の刃物のように険しい。


 道眞が眼鏡のズレを直し、補正された視界で確認すると、意外に相手は同世代に見えた。二十代半ばから後半、無造作なツーブロックの髪に、筋骨たくましい体。

 ケンカ慣れした様子で、太い鎖が後ろについた金属のチョーカーなどはめている。だというのに、服装はミスマッチなYシャツとネクタイだ。


「おはよぅございますぅ」


 ドスの利いた声は先ほど聞いたものと同じ、やはり自分を叩き起こしたのはこいつだ。さらに、太腿ふともものように厚い腕が、道眞の胸ぐらをつかんでいた――最悪だ。


「おはよう。えーと、息苦しいんだが……」


 ぼったくりバーに入るようなドジを踏んだ覚えはないが、暴力が大の得意そうなドチンピラに捕まっている現実をどう解釈したものか。


(もしかして……僕は、寝てたのか? 不覚だな)


 尻の下にはマットとスプリングの感触があった。真夏だというのに涼しいし、空調が効いた寝室に放りこまれていたらしい。体にアルコールが残っている感触はない。

 道眞はまだ、頭がぼんやりしている……青年とは初対面、のはずだ。


「……どちら様ですか」

や。俺の名前より、自分がどうなっとるか見てみぃ」


 青年は突き飛ばすように道眞を解放した。じゃらりと金属が鳴る音がして、さっきまで自分が横たわっていたらしいベッドに、ひっくり返りそうになる。


「被害者?」


 明らかに青年は道眞にとって加害者なのだが、これから自分をボコボコにする気が無いとしたら、良い知らせだ。

 着物の襟を正そうとすると、道眞はがっちりと首をつかむ鉄の輪を発見した。突き飛ばされた時に聞いた金属音は、首枷くびかせに繋がる鎖のものだ。


「え」


 後ろを見れば、鎖は壁に開いた穴に続いていた。なるほど、青年の首輪と鎖もファッションではなく拘束だったのか。

――では、そんな格好で、自分たちがいる場所は何だ?



あんざし『◆娑お散んだ花がご神慮輪馗廻◆幽冥大神』くれずほ『憐れみたまえぐ娑馗みさし恵みたまえ聖者鬼来此岸でもみさし迎◆』彼岸でもなく『◆悲ふくれ願我岸に蘇せよとずまい廻霊だん天地に新しきのだん餌◆しめ実身となりて』だんひけい蘇我土重新実◆娑がんたび蘇我土重新実輪馗ぎおん廻蘇我土重新実◆』りさん蘇我土重新実きひ『◆ぢん蘇我土重新実。娑輪おざさ蘇我土重新実を馗ん廻うん蘇我土重新実て◆』ぞ、だ蘇我土重新実んだん蘇我土



 赤、白、赤、白、赤、白――紅白の幕ではなく、白紙とそれに大書された真紅の文言が、八畳間ほどの閉鎖空間を四方八方埋め尽くす。

 打ちっぱなしのコンクリート壁に貼るだけでは飽き足らず、床には同じような紙束が積まれ、また散らばっていた。

 何百何千枚あるかもつかないそれは、一枚一枚たっぷり糊をつけられ、丁寧に空気を抜いて貼りつけられている。文字は紙と紙の間を時に横断し、はみ出し、貼った者と書いた者は別人だろうということが想像できた。



悲願ぞを神廻霊をん、め餌さんだはながごしんりょ◆悲願神ぬせい廻霊かくりよのおおかみ餌◆ほねぐづ悲願神をん廻霊あわれみたまえめぐみたまえだんだ餌◆悲んひがんでもなくざみ願たんざりしがんでもなく神か廻ん霊餌あががんにぞせよと◆ん悲願神ざし廻ぞがはにえにざね霊お餌◆悲す願ぞがはにえにざねふく神廻れずほぐぞがはにえにざね霊みさ餌し◆悲願ぞがはにえにざね神廻ざみ霊餌◆悲ぞがはにえにざね願さし神廻霊餌◆ぞがはにえにざねふくれぞがは



 唯一の出入り口に貼られた一枚を除き、すべて紙の余白にまでびっしりと細かく文字がつづられている。文字の上にまた文字、文字、文字と判読しがたい。

 狂人が思いつくまま言葉を放りこんだ空箱、書きたい病ハイパーグラフィアの作ったメモをそのまま再利用して、部屋に持ちこんだらしい。だが、何のために?



だ『娑ん輪さざさるなだ馗ん廻しぎみひのろ◆め娑くめき輪い馗廻◆だあきあぞうあんん娑輪馗廻◆うずきなずるひけいおざき輪が馗廻んた◆ぞがはにえにざねび娑輪馗廻ぎおんころしをかんぞん◆娑り輪さ馗みしゃくらぼさつん廻◆娑輪さざさるなきひぢん馗ぎみひのろ廻◆おくめきざ娑輪馗さ廻をあきあぞうあんん◆娑輪馗廻うずきなずるうんておざきぞ◆娑だ輪ん馗だぞがはにえにざねんみ廻さ◆し娑輪ぞがはにえにざね馗、、ををん、廻ぞがはにえにざね◆娑めぬせい輪馗ぞがはにえにざねほ廻◆娑ね輪馗ぐづかくりよおおみかみをん廻◆だ娑輪ころしをかんぞん馗廻んだん◆娑輪みしゃくらぼさつざみ馗廻◆娑輪馗ぞがはにえにざね廻◆』たんざりかぞがはにえにざね………………



 映画であれば、陳腐な演出かもしれない。だが実際その場に立たされるのみならず、こんなことを大真面目に実行する人間の手中に自分はいるのだ。



うん『◆◆◆幽冥大ねいるねが神◆御殪観世音◆弥釈羅菩薩◆◆◆』どまら



……自分がここへ至るまでの経緯を、思い出してみよう。



 休日は和服を着て街にくり出すのが、道眞の楽しみだ。七月二十七日、下ろしたての丹後ちりめんに矢羽根やばね文様もんよう柄の着物とともに家を出た。午前十時のことだ。

 姉に「お土産ヨロシクね」と通話アプリで言われたので、帰るときには適当な菓子でも見繕おう。そんなことを考えながら、伏見駅行きのバスに乗る。

 バスは京都人の足だ。どんなに要領の悪い子どもでも、家の周りのバス路線と時刻表だけは必ず覚えるし、道眞もその例に漏れない。


(先週は水族館に行ったしな。今日はとことん街をぶらつくか)


 そのとき土産に買ったオオサンショウウオのぬいぐるみ(中サイズ)は、姉にはまあまあ好評だった。伏見駅についたら、偶然まかせに切符を買おう。

 駅前でバスを降り、踏み出して一歩。盆地に滞留する夏の空気がわっと押し寄せ。

 あたりの景色は、駅前のそれではなかった。


「あれ?」


 ごく普通の、しかし見慣れない街並みだ。古民家や土産物屋が建ち並ぶでもない、街路樹が活き活きとした彩りを加えて、夏の木漏れ日をレンガの道路に投げかける。

 降りる場所を間違えたはずはない。次は伏見駅というアナウンスは、まだ耳に残っているし、窓から見た景色もきちんと駅前だった。

 背後を振り返るとバス停はなく、同じ街並みが続くだけだ。


(……どうなっているんだ)


 道眞は発着場があったはずの方へ歩き出した。スマホを取り出して地図アプリを起動しようとしたが、スマホそのものに電源が入らない。バッテリーは充分なはずだ。


――しゃりん、と。


 困惑する道眞の耳に、金属が跳ねる涼やかな音がした。さっきまで自分がいた方角だ。見れば陽炎にゆらめいて、奇妙な人影が立っている。

 黒い巫女装束の女性が、仏僧や修験者が持つような錫杖を手にしていた。


 巫女の衣装は上の白い着物を小袖こそで、赤い袴を緋袴ひばかま、神楽舞いなど神事の際に着る貫頭衣を千早ちはやと言う。その全てが漆黒に染まっていた。

 一面の黒には、胸紐といくつかの飾りが真っ赤なアクセントを加えている。巫女は基本的に髪を結うものだが、女は腰まである黒髪をそのまま流していた。


(コスプレってやつかな?)


 宗教に詳しくなくとも、それがまっとうな巫女装束ではないことはすぐ分かる。この女性は、アニメか何かの衣装を着て楽しんでいるのだろう、と彼は判断した。

 もしかしたら、そういう新宗教のたぐいという可能性もあるが。どっちにせよ自分には関係がないし、放っておこう。

 きびすを返し、前へ進もうと道眞が足を踏み出した時だった。


『其の方、亡くした者に逢いたくないかえ?』


 首筋を撫でるように妖艶な声が、びんと心の琴線を弾く。


『羽咋道眞。其の方は八年前に、父・眞彦まさひこを亡くしておるだろう。恋しくはないか? 後悔はないか? きちんと別れを告げられなかった、と』


 時代がかった言い回しだが、その物言いを道眞は無視できない。なぜ自分の名前を、それどころか父が亡くなったことまで知っている?

 黒い巫女を見返すと、すぐ目の前に玲瓏れいろうとした容色があった。

 銀縁の丸い眼鏡の奥、爛々と輝く目、目、目、目が道眞を射すくめる。こちらの腹の底まで眼光で照らし、はらわたのことごとくを暴き立てようと言うように。


『僕は……』


 お前は誰だ、とか。なぜ知っている、とか。

 そう口にする方が筋だろうとは、自分でも分かっていた。



……父が亡くなった時、道眞はカリフォルニアの葬儀学科モータリティ・サイエンスに留学中で、帰国したのは葬儀・告別式すべてが終わったあとだ。そのことに後悔がないはずもなく。

 父の跡を継ぎ、姉の眞澄ますみと助け合って忙しく働きながら、法事や墓参りを欠かさなかった。線香は上げれば上げるだけ、ちっぽけでも灰が重みを持ってくる。

 いつか、何か、その重みが意味をなすまで、父を供養し続けると決めていた。

 だが。



 道理が通らないと思いながら、口を開く。


『会えるものなら、一言でいいから、謝りたいですね』


 それは、道眞がずっと秘めていたささやかな望みだったから。



 落丁した本のように、そこで記憶はブッツリと途切れていた。

 バスから駅前へ降りたはずなのに、別の場所に居て道に迷った、というのもおかしい。脳梗塞の前兆か何かでなければ、薬物でも使われたのだろうか。

 記憶が混乱している。……何にせよ、その黒い巫女が犯人には違いない。部屋の様子からすると、大した狂人のようだ。


(なんなんだ、いったい)


 蜘蛛やムカデに体を這い回られる心地でもう一度、異言に満ちた室内を見回す。


(……だんだん腹が立ってきたぞ)


 なぜ、自分がこんな目に遭わなくてはならないのか。

 人は死んで物になっても、丁重に扱われねばならない。ましてや生きている者から自由を奪い、物のように扱うなど。次に黒い巫女に会ったら、ただではおかない。


 この時は、その決意が長い戦いの第一歩になるとは、彼は想像していなかった。

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