第2話 伽藍の檻にて毒牙にかかる
覗き小窓がついた片開きの鉄扉、壁の角左右にはそれぞれ監視カメラ。扉の上にはスピーカーがあったが、今は沈黙している。
ノブに手が届くその少し前で、ぐっと鉄枷が喉を絞めた。室内を歩き回るならともかく、ギリギリ出入り口にはたどり着けないようだ。
振り返って部屋の全容を確かめると、張り紙と紙束を無視すれば殺風景なものだった。壁の三方に白木の名札が掲げられ、その下にパイプベッドが一つずつ。
つまりは三人分。自分が寝ていたのはその一つで、道眞を叩き起こした青年は立ったまま、ベッドにはもう一人男が腰かけている。
「やあ、これで全員だね。唇切れてるよ、大丈夫?」
最後の同室者、四十代であろうやせぎすの男は、努めて穏やかに声をかけてきた。顔色は優れないが、若い方の何倍も人当たりがよさそうだ。
よくあるポロシャツ姿には、首にはめられた鉄枷がひどく不似合いだった。青年ともども、壁に開いた穴から伸びる鎖と繋げられている。
犬のリードやネックレスのように細い物ではない。
そのすべてが、決して獲物を逃すまいという悪意を感じさせる。ここが地下なのか地上なのか、朝なのか昼なのか、まるで見当もつかない。
「お気遣いありがとうございます」
道眞は中年男に軽く会釈し、ずかずかと青年に詰め寄った。
「僕らは仲良く拉致監禁されている身というわけだ。それで気になったんだが、君とその人、どっちが先に起きた? 僕をビンタで起こす急ぎの用はあったのかな?」
「かちん酸っぱくてしょうがあらへん、炭酸みたいにブクブクわめくなや」
意味の分からない青年の言葉が、道眞の神経を逆なでする。何かの方言かもしれないが、罵倒されていることだけは確かだ。
「質問に答えてくれ」
「
「そうか」
道眞は青年の顔面に、力いっぱいビンタを見舞った。ぱぁん! という乾いた音は少しスッキリするが、動かない岩でも殴ったように手がしびれる。
「これでチャラってことでいいかな」
「優男か
痛くもかゆくもないと言わんばかりに、青年はニヤリと顔を歪めて見せた。不意を突かれた風でもなく、避ける気が一切感じられなかったのが意外だ。
仕返しとしてさらに暴行を加えられるかと思ったが、相手にその気はないらしい。道眞は〝ドチンピラ〟という彼への第一印象をやや修正した。
「こんなところで、ケンカはやめようよ。一番最初に起きたのは私だ」
目を丸くしていた中年男が、おずおずと訴える。
「それより自己紹介でしょ。私は
生出は場を和ませようとするように、必死の笑顔を作った。
だが半面は痛々しく引きつっていて、前衛絵画的なアンバランスさが逆に不気味だ。本人に悪気はなさそうだが、実のところ恐ろしくて堪らないのだろう。
「生出さんですね、よろしく」ぺこりと一礼し。「僕は
「羽咋くんお葬式屋さんなんだ? あ、私は奈良で歯医者をやっているよ。しがない歯科医! なんちゃって」
青い顔で笑みを作り、冗談まで飛ばす生出の横で、青年が苦々しく舌打ちする。
「こんな黒しょっぱい状況で、仲良うよろしゅうもクソもあるか」
「君で最後だ、名無しのゴリラでよければ黙っていてくれ」
これからよろしくするということは、今の監禁状態とその後に起こる危険を共にするということだ。この事態を早く終わらせたい気持ちは道眞も同じだが、だからこそ、最低限の信用ができる人間だと示してもらわねば困る。
「
「えっ」「えっ」
道眞と生出の声が完全に重なった。刑事を名乗った百舌鳥が舌打ちする。
「なんや、おんどりゃら。チンピラが
「暴力団構成員の殺人ゴリラかと」
大げさに言ってやると、百舌鳥はニタッと見下した顔になった。眼は弓なりに反り、口の端も上がっているが、眉は下がっている――嫌な表情だ。
「おんどりゃはヤクザに
「やられっぱなしは嫌いでね」
もちろん道眞だって、わざわざ危険な人間にケンカを売りには行かない。
生出も道眞もひょろりとした長身痩躯で、大胸筋で谷間ができるほど筋骨隆々とした百舌鳥は、自分たちとは別種の生物に見えた。逆らうのは賢明な相手ではない。
だが、道眞はまた殴られようとも「自分を暴力で従えられると思うな」と示したかったのだ。反省すべきは、状況に対する八つ当たりが混じっていたことだが。
「まあ、私ら財布もスマホも取られちゃったからさー。百舌鳥くんがおまわりさんだって言うなら、そういうことにしておくよ。どうせ警察手帳、ないんだろ?」
「え!?」
それを聞いて、道眞は自身の
胸元、帯、袖、
「本当にぜんぶないな……」
「私のスマホ、娘の写真がたくさん入ってたんだけどねえ」
「うちの取引先の番号も……」
葬儀社というものは、複数の関連業者と連携して業務を行うという特徴がある。病院、
大手ならば病院以外は自社でまかなうが、羽咋葬儀社はそうではない。
これには道眞も目の前が暗くなる気がした。どこかに保管されているならば、なんとしても取り戻したい所である。いざとなれば専務の姉を頼れば良いとはいえ……。
絶対に犯人を許さない、という気持ちが一段と深まる。
――ちゃり、と。そのとき鎖が鳴った。
初め道眞は自分の動きに合わせた音だと思ったが、すぐに間違いだと分かる。首枷の鎖が引かれ、壁の中へ巻き取られていった。
「とうとう黒おして塩っ辛いのが、おっ
あくまで挑戦的な百舌鳥に対し、生出の「い、嫌だ、嫌だああ!」という悲鳴が虚しく響く。道眞には声をかける余裕もなかった。
せめて楽な姿勢でいられるように、自らベッドに乗って位置を調整するので精いっぱいだ。抵抗しても首が締まるだけだろう。
……どうしようもない。この場にいる全員、抗うすべがない。
『コノタビハ
スピーカーから、機械がしゃべっているようなカン高い声が流れた。
『アナタガタハ
鎖が完全に巻き取られ、道眞らは壁に首を固定される。用木とは何かの材料として用いる木――人間をそう呼ぶのなら、生け贄としか考えられない。
『
百舌鳥が何か怒鳴ろうと口を開く寸前、鉄扉が音を立てた。ガチャリとノブが回り、外側に扉が開かれる。
『ゴ存知デスカ? 首ヲ切ラレテ即死スルノハ人間ダケデス。畜生ハ首ヲ切ラレタ後モシバラク生キテ、窒息ト出血デ命ガ尽キマス』
現れたのは、白い
『シカシ人間ノ場合、首ヲ切ラレタラ死ンデシマウトイウ固定観念ニヨリ、精神的ショックデ即死スルノデス』
男たちは何を言うでもなく、道眞たちの手足を押さえつけた。
むろん三人とも抵抗したが、ほとんどは有って無いようなものだ。唯一、大暴れした百舌鳥にだけは彼らも手を焼いたが、それも結果としては
『逆二申セバ、死ナナイト思ヘバ、人間ハ本当ニハ死ナナイ
耳障りな放送が続く中、白装束が手にした注射器に道眞の視線は釘付けになった。覆面や張り紙の文字と同じ、異様なまでに赤い液体が入っている。
『死ンデシマエバ、ソレ以上死ヌル事ハナイ、単純ナ
道眞はあらためて耳を疑った。
(デタラメだ、放送も、こいつらも!)
死なないと思えば死なない、そんな幼稚な理屈で人を拉致監禁し、恐らくは殺そうとしている。悪い冗談であって欲しいが、現実はこのザマだ。
悲鳴も懇願も罵声も、男たちが口に詰めた布の塊に封じこめられる。
アルコール消毒などと丁寧な手順もなく、注射針はズキリと静脈を貫き、謎の液体を血液に注ぎこんだ。喉の奥に吹雪が吹きこむような冷たさがひらめき、消える。
『アナタガタガ我ラノ理ヲ理解シ、準備ガ整イマシタラ〝
白装束の集団は、口に詰めた布もそのままに退出した。施錠の音がすると、壁の中でかすかな音がし、鎖が元の長さに戻され、ようやく解放される。
それもひと時の安心、道眞たちは地獄への道に立たされていた。
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