第三輪 呪縛、悲願の先へ

第7話 人柱無苦(じんちゅうむく)・首途(かどで)の鳥居

「皆のもの、おもてを上げよ」


 娑馗しゃき聖者しょうじゃの声は、究極の楽器でも喉に仕込んでいるのかというほど心地よく、頭蓋の中でびんびんと響き渡る。そして命令することに慣れた口調だ。

 顔を上げた道眞どうまは、不自然に鳥居につけられた刃への疑問を口に出す。


「……あれは、一体なんだ」


 黒い鳥居には四方八方から、赤い紙垂しでをつけた注連縄しめなわが結びつけられているが、それは大したことではない。


「ギロチンみたいだねえ」


 生出おいずるが他人ごとのように言い表す。

 黒く塗られているのは珍しいが、鳥居そのものはシンプルな形だ。

 二本の柱に笠木かさぎ島木しまぎという二層の横木を渡し、その下にもう一つぬきと呼ばれる横木を固定した基本的な構造。

 その貫から真下へ、巨大な斜めの刃が設置されている。


 よく見れば鳥居の足元には、穴の開いた木板がはめられていた。体を固定する首枷なのだろうが、半ば沈んでいるから、水面に顔をつけて斬首されるのだろう。

 トリアゲ婆が微笑んで答えた。


「これぞお三方の旅立ちの扉、人柱じんちゅう無苦むく首途かどでの鳥居にございます」

「左様である」娑馗聖者が言葉をついだ。「鳥居は神域への入り口、人柱無苦によって首を断ち、聖痕しょうこんとすることで其の方らの神餌かみえ変生へんじょうは成る。臆したか?」

「いいえ、いいえ!」


 感極まったように、生出おいずるは白木の舞台から立ち上がった。


「私はもう、いつでも準備できています! いざ不死不滅の神餌とならん!」

き!」


 娑馗聖者は錫杖ごと、湖の中でくるりと一回転した。腰まである長い髪が、艶めく黒輪を描き、光を放つ。ふわりと、髪とは別の黒いものが舞った。

 それは彼女が脱ぎ捨てた千早だ。


「六道輪廻を越えた先、さらに三つの道あり。赦生しゃしょうどう天狗てんぐどう呑仏どんぶつどう、もって九つの道を巡るが娑輪しゃりん馗廻きえ!」


 千早の次は小袖が、どういう手管かしゅるりしゅるりと独りでに脱げては、白いはだえを晒していく。下着や襦袢じゅばんを身につけず、直に装束をまとっていたらしい。

 完璧に均整の取れた肉体が、惜しげもなく色気そのものの流線美を描いた。


「ゆえにんだ花がご神慮、幽冥かくりよの大神おおかみ、憐れみたまえ、恵みたまえ。此岸しがんでも彼岸ひがんでもなく我岸ががんせよと。天地たかはにしきの実身さねみとなりて」


 青い果実のようにきりっと形の良い乳房が二つ、まばゆく道眞たちの眼に焼きつく。くるくると回転する聖者の動きにあわせて、柔い胸はよくおどった。

 乳首はつぼみのようにほの赤く、生に色づいてひらめく。道眞も生出も、その一挙手一投足に惹きつけられた。この美しい方が、これから自分たちを迎えるのか。


「ぞがはにえにざね!」

「ぞがはにえにざね!」

「ぞがはにえにざね!」


 岸辺の信者たちが唱和する。

 流水のように続く柳腰から、つるりと袴が抜け落ちた。まるい尻が水飛沫を跳ねて輝き、土踏まずの深い裸足が少女のように華奢だ。

 しなやかな筋肉のすねも、きゅっとしまった太腿も、注連縄に吊された提灯を照り返してつややかに光る。どこもかしこも、女神のようだ。

 手にした錫杖と眼鏡以外、すべてを脱ぎ捨てた娑馗聖者が正面を向くと。


「え、ええええ!?」


 人肉料理には驚かなかった生出も、座布団の上で腰を抜かした。

 道眞は動きこそしないが絶句してしまう。娑馗聖者の薄く発毛した股には、百合のつぼみのような男根がそそりっていたのだ。


「そう驚きめされるな」


 いたずらが成功したのを喜ぶように、ホホホとトリアゲ婆は笑う。


大聖者だいしょうじゃさまは陰陽備えた、完全なる肉体をお持ちなのです。ゆえにこそ、神餌さま、霊餌たまえさまにとっての新しき父と母、すなわち考妣かぞいろぎみになられるのですよ」


 かぞは父、いろは母を指す古語だ。道眞は「つまり、僕たちはあのお方の養子になるんですね」と老婆に確認した。


「その通りにございます。それでは、生出さまからどうぞ」

「はい!」


 気を取り直した生出が台を降りると、トリアゲ婆が彼に手順を耳打ちする。生出はその場で、着ているものをいそいそと脱ぐと、丁寧に畳んで全裸になった。

 あばらの浮いた体は、腹だけやや皮がたるんで、不健康な印象だ。


(聖者さまが裸で儀式を行われるなら、こちらも脱ぐのは当然か)


 なるほど、と道眞は得心する。

 もらった二杯の酒は口当たり柔らかだったが、度数は高いのか、頭にぽうっと酔いが回っていた。百舌鳥もずは聖者に平伏した時の姿勢のまま、台の上で寝ている。

 世話係の信者たちも、もはや彼を起こすのは諦めたらしい。


「それじゃあお先に、羽咋はくいくん。きちんと見ててくれよ? 私の晴れ舞台だ」

生・出・さ・ん待ってくれ……」


 白木の台を降りた生出は、爽やかな笑顔で一度だけ振り返ると、湖に向かって歩き出した。ざぶざぶと足首から腰まで浸かり、中ほどで頭までもぐる。

 十秒ほどして顔を出した彼は、「あは、ちょっと寒いね」と言って身震いした。夏とはいえ、地底湖に裸で入れば冷えるだろう。


(――だったら、やめれば、いい、のに)


 彼に何かを言わなければいけない気がしたが、道眞はそれが言葉に上らない。見えない壁のようなものが、自分自身を阻んでいる。なんだろう、この感じは。


「生出、さん、い」


 しゃりいいいん、とすずの音が響き、道眞のか細い声音を吹き飛ばす。娑馗聖者は錫杖で水底を突き、しゃりんしゃりんと音を立てながら唱えた。


蘇我ぞが土重はにえ新実にざね。あなたふと御言みことなるかも、あなかしこ御教みおしえなるかも。人の霊魂みたまかしこくも豫母津よもつがみさづけたまふ処なり。霊魂みたま崇高すうこう神性しんしょう発揮ふるふ、れぞ悟りの本領にして神餌かみえに到るの道なり。ぞがはにえにざね。ぞがはにえにざね」

「ぞがはにえにざね!」


 トリアゲ婆が唱和する。娑馗聖者が錫杖を突くたびに、乳房が妖しく揺れた。


漏岐ろぎ生出敬一郎大人うしのみこと、漏岐羽咋はくい道眞郎男いらつおのみこと、漏岐百舌鳥もずヤマト郎男尊、幽冥かくりごと主宰しろしめす大神おおみかみ神慮しんりょたいし、恩頼みたまのふゆねが啓導けいどうあづかことはりを知るべきなり」

「ぞがはにえにざね」

「ぞがはにえにざね」

「ぞがはにえにざね」


 トリアゲ婆にならって、信者たちも道眞もそろって声を張り上げた。


ぞ・が・は・に・え・に・ざ・ね違う、違う、違う、違う、違う、ぞがは、にえ、にざね、ぞがはにえ、にざね)


 道眞の頭の中いっぱいに、不思議な言霊がぐるぐると広がっていく。何か別のことを考えていたはずなのに、その八音に些末なことと押し流されていった。

 生出はその間にも、ゆっくりとだが確実に、鳥居型の断頭台へ向かっている。


「ぞが、はに、え、にざ、ね」


 自分の中で歯車と歯車がかみ合わない感じがした。そのことを不可解に思いながら、道眞は儀式を見届けようと声を合わせる。

 生出が断頭台の前に到着し、娑馗聖者に向かって合掌、一礼した。


生死せいしうたがはず信倚しんきすべし。蘇我ぞが土重はにえ新実にざね。ぞがはにえにざね。ぞがはにえにざね」


 娑馗聖者が首枷を動かす間に、生出は鳥居の横へ回る。彼はぷかりとになって水面に浮かぶと、最初は首枷、次に両手両足を鎖で係留された。


「僕たちは、自分に降ってくる刃を見ながら首を斬られるのですか」


 マリー・アントワネットの伝説に、似たようなエピソードがあったなと思い出しながら、道眞はトリアゲ婆に問う。

 真偽のほどは定かではないが。浪費家の女王を憎悪した民衆は、出来るだけ彼女を苦しめ、恐怖させるために、仰向けにして断頭台にかけたという話だ。


「不死なる身の上にたどり着くには、より確かに死を自覚しながら、抗う一念が不可欠にございます。最期の瞬間まで刃から目を離さぬこと、今のあなたさまや、生出さまにはもはや容易いことでございましょう」


 道眞は座布団に座ったまま、つっぷして寝ている百舌鳥を指さす。


「しかし、それじゃあ彼は、ただ死ぬだけでは?」

「百舌鳥さまには気付けを用意させております」

な・ら・安・心・だそうじゃない


 生出は、岸辺にいる道眞と百舌鳥に向かって、にこやかな眼差しを送っていた。何か応えた方がいいなと思い、道眞は軽く手を振ってみせる。


「生出敬一郎大人うしのみこと今生こんじょうに言い遺すことはありや?」

「瑞穂。今からとうさんが逝くからね」


 娑馗聖者は「き」とうなずいた。


人柱じんちゅう無苦むく麻賀禮まかれへ」


 鳥居に繋がる赤い紙垂の注連縄、その一つを娑馗聖者が引くと、貫の真下に設置された刃が落ちる。ぱつん、と血がしぶいて、生出の首と体が水の中に沈んだ。

 あ、もう終わったんだ、と道眞はそのあっけなさに驚く。


(……断末魔も聞こえなかったな)


 脊柱は数個の骨が管状に連なっており、切断しやすい箇所というものがない。人間の首を一撃で斬るのは大変なことだ。

 現実感がないほど綺麗な切り口の中央に、白い骨がめしべのように覗いていた。遠く離れているのに、道眞の眼は猛禽類になったような集中力でそれを捉えている。


(死んだ。死んでしまった。本当に生出さんが、今、目の前で)


 一秒一秒がひどく長い。

 どくり、どくりと、生出の体から血があふれ出し、湖面を赤く染め上げていった。しゃりん、しゃりん、と錫杖を突き鳴らしながら娑馗聖者が唱え出す。


言久いはまくは悲しき生出敬一郎大人うしのみこと御前みまへに、太蝕天たいしょくてん娑馗しゃき聖者しょうじゃ慎み敬ひてまおさく。汝尊ながみことや二〇一八年七月二十七日二十時、今年四十よそまり六歳むつぢ一世ひとよの限りと身罷みまかりましぬ。あたらしくとも惜しく、かなしとも哀しき事のきはみにぞ有りける」


 道眞にとっては、神葬祭で聞き覚えのある祝詞を思わせる言葉だ。それにしても、まだ夜の八時ということに驚いた。

 もう何日も経ったような気分だったから、奇妙な感じだ。だが、まあ……不・死・に・な・れ・ばなれるわけがない!時・間・な・ど・死ぬんだぞ!ど・う・で・も・僕も殺される!良・い・だ・ろ・う殺されるんだ!


「あわれ汝尊いましみことは、一九七二年六月二十二日岡山県和気わけの里に、生出章太郎大人うし真名子まなこ生出あれいでたまひ、御功績みいさお高くあらわしたまひしか。あわれ空蝉うつそみの世ばかり、定めなきものは有らず、人のよはいばかり頼みがたきものは無かりけり」


 娑馗聖者は唱え続けながら、生出の死体から首枷と鎖を外し、自由にした。血と水を滴らせながら、きりきりと刃が上に戻っていく。


かくりませる御上みうえを嘆き悲しみ惜しむも、慕ふ事も限りなければ。天翔あまがけりましし霊魂みたまの再びかへり来まさむ事を祈奉ねぎまつり、は巻くも由々しき生出敬一郎大人尊うしのみこと神霊みたまに、此のしきの実身さねみに還りませと慎み敬ひもしろす」


 祝詞が終わってしばらく、沈黙が訪れた。

 こぽこぽと泡のように、道眞の中に疑問が浮かんでは消えていく。

 聖痕とはいつ授かるのだろう、首を斬られた生出はまだ生きているのだろうか、いいや、どう見てもあれは死んでいて、助かりっこない。


次・は、僕・の・番・かどうしてこんなことに


 何もかもひどく実感がなかった。結論として、道眞は状況をありのまま受け止め、背筋を正す。生出は死んだ、百舌鳥が前後不覚である以上、次は自分だ。


な・あ・にやめろ死・ん・で・み・れ・ば・分・か・る・さ生出さんは死んだ! 殺されたんだ!


 不安に思うことは何もない。

 何もない。

 だから、何も・考・え・る・な考えろ!

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