第5話 箱庭の世界(上)
「……そうですか、わかりました」
大和は電話を切ると、深々とため息を吐いた。
電話を掛けた先は、警視庁捜査一課の課長、大和の直属の上司だ。
事件を零課にとられたと電話をし、判断を仰いだところ帰還するように、という命令が下されたのだ。
峻の言っていたことを信じていなかったわけではないが、それでも上司から命令を下されてしまえばいよいよあきらめるよりほかにない。
「電話、どうでした?」
電話を切った大和の元に、大和よりも十歳近く若いスーツを着た男性、二階堂涼太がやってくる。
涼太は大和の部下であり、去年捜査一課に配属されたばかりの新人だ。大和が現場検証に出向いている間、トイレに行っていたのだ。
「涼太か。どうだ?体調は」
「ええ、もうすっかりよくなりました」
涼太は恥ずかしさを誤魔化すように、頭をかいてそう答える。
その顔色は若干青白い。
まあ、無理もないだろう。大和は心の中でそう独り言ちる。
涼太は先ほどのグロテスクな死体を見て、気持ちが悪くなって吐くためにトイレに向かったのだ。警察官が死体を前に気持ちが悪くなるというのも情けない話だが、死体の前で吐かなかったことだけは評価できる。
それに、あれほどの汚い殺され方をした死体を前にすることなどそうそうありはしない。獣害というのも、東京都の警察に勤める警察官がお目にかかることもそうないだろう。
「にしても、あいつら。よくあの死体を平気で見れますね」
遠くに見える人込みを目に、忌々しそうに涼太は吐き捨てる。
大和と涼太は、現場からはじき出された警察官らしく遠くから人込みを見ているだけだ。規制線の内部すら、今の場所からは見えていない。
「まあ、そういう連中もいるってことだ」
大和も、死体を見ることを楽しいことだと勘違いして、熱に浮かされた視線を送ってきていたやじ馬たちを思い出して辟易とした気分を思い出す。
あんなもののどこがいいのだろう。大和にはその気分は理解できなかった。
「それで、この後はどうしますか?すぐに帰ります?」
「いや。その前に、少し公園を見て回りたい。もしかしたら、あの子を襲った猛獣が潜んでいるかもしれないから、念のために確認だけはしておきたい」
「猛獣!?そんなのがいるんですか!?」
「いるかいないかはわからないが。いたとした場合は大問題になるからな。念のためだよ、念のため」
本当に、ただの念のためだ。
零課が出張ってきている以上、猛獣が少女を襲ったなどと、そう簡単な話ではないのだろう。そんな予感を大和は感じていた。
まるで写真の構図を測る様に。両手の親指と人差し指で枠を作り。その中に対象の人物を入れる。
その枠の中にいるのは、捜査一課の刑事、葛城大和だ。
長身痩躯の体躯ではあるが、服の隙間から覗く腕や胸は筋肉の膨らみを描いている。筋肉質ではあるが、着痩せをするタイプなのだろう。今年で四十路に足を踏み入れた彼の顔は年相応の年輪が刻まれており、それが男性的で作りのいい彼の顔に渋みという魅力を与えている。
枠を作り彼を見据える白人の少女、アリス・ホワイトの見出した魅力は、しかし彼の外見だけではなかった。
それは彼が生まれ持ったものなのか、それとも生きる上で磨いていった結果なのか。彼の魂は、他の人間よりも輝いている。炉端に転がる石のごとく。履いて捨てるほど存在する『モブ人間』には出せない輝きが、彼にはあった。
だからこそアリスは。
「いいわね、美味しそう」
じゅるり、と。こぼれ出てくる涎を我慢することに必死になっていた。
アリスは魔女だ。正確には、そう定義されるに足りる存在だ。
街を散策して、上物の魂を持つ人間を襲い魂を手に入れる。
比較的ましな石を探し出し、命を吹き込んですこしでもましな魂を作り出す。
そのすべては、魂を喰らうための行為だ。あの黒豹の獣人に力を与え、殺戮衝動を高めさせてより欲望に忠実な獣へと変えようとしているのも、取るに足らない魂を少しでもましなものに料理するためだ。
アリスは魔術と定義されるに等しい力を使い、人の欲望を引き出す。欲望を引き出された人間は、獣性をもったエゴに取り付かれる。エゴに取り付かれた人間は、獣人となって人であったときとは比べるまでもないほどの力を使うことができるようになる。
そして。最終的には、アリスに喰われるのだ。
アリスにとって人間の魂は生きる糧であり、自らの力を高めるために必要なものだ。人間にとっての栄養素と同じだといってもいいだろう。
だから。
目の前の男性を美味しそうだと思うのは、アリスの本能がそうさせている。
より長く自らを生きながらえさせ、より自分の力を高めるためにその男を喰らえ、と頭の片隅から声が響く。
「やっちゃってもいいよね?」
誰に確かめるでもなく、そうつぶやくと。両手で作ったファインダーで、大和と他の世界とを遮断する。
そして箱庭は起動する。
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