第3話 警視庁第零課(前)

 2024年5月3日

 春の独特な香りが鼻孔をくすぐる。つい半月ほど前まではピンク色の花びらで色づいていた桜木も、今ではすっかりと葉桜へと変わり立ち並んでいる。少し肌寒くはあるものの、気温も穏やかで家族を連れてピクニックに行くのには最適な時期だろう。

 そう考えて、葛城大和はため息を吐いた。

 大和が今立っている場所は、巨大な区画を丸々一つ切り取って公園に変えた、所謂都立公園だ。

 周囲には家族連れも多く、ピクニックとして散策を楽しんでいたのだろう。

 大和はあいにくと。ピクニックのためではなく、仕事のためにここに出向いているのだ。そして周囲の家族連れも、散策を楽しんでいた、と過去形で語るべきだろう。

 大和の視線は遊歩道の真ん中に倒れている少女に注がれている。

 少女のあどけなさを残す顔立ちと背の高さから想像すると、おそらくは中学生か高校生くらいだろう。胸元を深くえぐられており、鮮血をあたりにばらまいている。肉どころか骨まで見えておいる軽くスプラッタな死体だ。

 この死体を見てしまった人々はトラウマを植え付けられるだろうし、このあとでおいしくお弁当をいただく、などできはしないだろう。

 そう、大和は想像するのだが。

 大和はちらりと、やじ馬の方へと視線を走らせる。

 警察の敷いた規制線で区切られた、その外側に。何人もの人間が並んでいる。

 子供連れの家族や、カップルできている者。一人で来ている人間もおり、その大半がこちらにスマホを向けている。

 事件現場。それもスプラッタな死体が生み出された殺人現場が珍しいから。写真や動画撮影を行い、後程家族や友達に見せびらかしたり、あるいはネットにでも上げるつもりなのだろう。

 心配そうにひそひそと話している連中もいるが、大和に語らせれば彼らも撮影をしている奴らとそう大した差は感じられない。それが証拠に、まともな人間はこの死体を見たくないから、という理由でこの場を去っている。

平気で死体の前にいられる彼らは、異常だと言わざるをえないだろう。

 大和はふう、と一つため息を吐くと、やじ馬から視線を外し。規制線の中に視線を戻す。

 そこには、鑑識係の制服を着た人間が何人も。あわただしく走り回っている。

 青いつなぎに似た制服。それが彼らの所属を表しており、その中に一人スーツを着ている自分の姿は、場違いなような気がして居心地の悪さを覚える。

 そんな大和の元に、一人の中年男性が向かってくる。

「よう、大和刑事。お疲れさん」

 周囲の人間と同じ、鑑識課の制服を着た人間だ。

 彼の名前は樹茂。鑑識課の人間であり、警察としての階級は警視だ。もともとは捜査一課の人間であり、現在も捜査一課に所属する大和の先輩でもある。

「おはようございます、樹先輩。遺体はどんな状況ですか?」

「……まあ、見ての通りだよ」

 大和の言葉に、茂は渋面を浮かべる。年端も行かない少女が惨殺されているのだ。それも無理はないだろう。

 遺体のそばに、茂はしゃがみこむ。つられて大和も中腰にかがみ、死体に視線を向ける。

「太ももに深い傷がつけられてはいるが、ここに来るまでの道に血の雫は落ちていなかった。まず足を切られてから殺されたのか、殺されてから切られたのかまでは調べないとわからないな」

 茂は、少女の左の太ももを指し示す。

 深くえぐられたそこからは筋肉の繊維すらうっすらと見え、あふれ出した血がべっとりとついている。相当に深い傷だ。走って、いや。歩いてでも逃げていたのならば、血の道が出来上がっていただろう。

 どこかから突然死体が現れたのでもない限りは、ここで襲われてここで殺された、ということだ。

 茂の所感と大和の所感は一致している。

「胸の傷は、相当に強い力で裂かれているな。肉がごっそりと抉られている」

 そしてなによりも。死体を凄惨なものに見せつけているのは胸の傷だ。

 茂の言う通り、ちょうど首から下腹部にかけての肉がごっそりと削り取られている。腹からも血があふれ、骨さえもが見えてしまっている。着ているものは白いシャツとスカートだが、血で真っ赤に染められており、なにを着ていたのかもわからない。

 幸運なことに顔に傷はつけられていない。彼女が身元を特定する証明書を持っていなかったとしても、顔の写真さえあれば、身元を特定することは可能だろう。

 スカートのポケットに財布でも入っているかもしれないが、さすがにこの場でそれを調べるのは無理だ。死体のスカートをまさぐっている中年男がやじ馬に写真にでも撮られたら、捜査をするどころではなくなる。顔写真を撮るにしても、それはエンバーミングが終わってからになる。

 死体が鑑識に運ばれるまでは動きようがない。その間に様々な手続きを終わらせて、捜査に当たるべきだろう。

 大和は頭の中で、今後のことについてのそろばんをはじく。

 しかし。茂のつづける言葉で、大和は驚くことになる。

「死体の傷口に、動物の毛がついていた」

「動物の毛が?」

 茂に、目の前に袋を突き出される。手のひらサイズのジッパーのついた袋だ。

 その中には二、三本の黒い毛が入っている。

 袋越しにその毛を触ると、人間の毛よりもはるかに硬いものだとわかる。

 そういう毛質の人間がいない、とも限らないが、動物の毛だと言われれば素直にそうだと信じることができた。

「なら動物に襲われた、とでも言うんですか?クマとかに襲われたとでも?」

 そんなばかな、と一笑にふしたいところだ。

 山から熊が下りてきた、という話はよく聞くが、ここは都会の真ん中だ。自然の多い都立公園だと言っても、あくまでも人の管理の手が入っている自然なのだ。そこに猛獣が存在している、というのはにわかには信じられないし、もしもそうだとしたら今頃はさわぎになっているだろう。

 だが。大和は周囲に視線を向ける。

 この都立公園の構造は、林の中に遊歩道がひかれている形になっている。広く切り開かれた遊ぶためのスペースとして確保されている野原もあるが、鬱蒼と木が生い茂っている区画もある。

 人を警戒して獣がそこに潜んでいるとしたら、人の目から隠れることもできるかもしれない。

 そう考えると、どこまでも広がる自然が猛獣の潜む危険なものに見えてくる。

「猛獣がいないか、少し探してきた方がいいかもしれないな」

 なにかあってからでは遅い。猛獣などいないと決めつける前に、少し散策をしておいたほうがいいだろう。

 少女の身元を調査する前にやることを決めた大和が立ち上がる。その瞬間だった。

「ごっめーん。ちょっと通して!」

 場違いなまでに明るい女性の声が耳に届く。

 その声の方に大和が顔を向けると、白髪交じりの初老の男性と髪の毛を金色に染めた女性が規制線を乗り越えて、こちらに向かってこようとしているところだった。

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