第2話 逃げる少女(後)
「その様子だと、もうあきらめたみたいね」
嫌味なくらいにいい笑顔を浮かべながら、あいつが近づいてくる。
二度立ち止まってしまった足は、三度は動いてくれないだろう。
生きたいという思いはあるが、そのために逃げるだけの気力は彼方にはなかった。
誰かが助けに来てくれる。本気でそれを期待する。
そして。心のどこかでは、それが叶うことなどありえないことは知っている。
自分は物語の主人公ではないのだから。自業自得でこれから死のうとする人間が、主人公であっていいはずがないのだから。
「あ……ああ……」
それでも助けてほしい。
懇願すれば命を助けてはもらえないだろうか。
それにかけるしかないというのに、恐怖と痛みと、疲れから。声が掠れて言葉にならない。
「そう、命乞いもしないのね。いい子ね、こっちもそのほうがやりやすいわ」
あいつがかぎ爪をぺろりと舐める。
月夜に輝くそれは独特の光沢を放ち。美しい、とすら彼方に思わせる。
「あなたに恨みはないけどね。あいつの隣にいるのが悪いのよ。恨むのなら、あいつを恨むことね」
……待って。あたしに、恨みはない?
目の前の黒豹の獣人の言葉に、彼方は驚愕する。
彼方は自分が殺されることは自業自得だと思っている。しかし、あいつはただの逆恨みで殺すと言っているのだ。彼方を殺すことに意味など見出さずに。
それは、あまりにも滑稽ではないか。
「待って!あたしは……」
言葉を続けることはできなかった。
あいつのかぎ爪が振り下ろされ、彼方の体が深く刻まれる。
ぐらり、と体が揺れる。
体に力が入らない。地面に倒れ伏した彼方は、自分の胸からどくどくと血があふれ出してくるのを感じる。
「あたし……は……」
意識が薄れていき。やがて、物言わぬ骸へと変わる。
自分の死に意味がある。そう、周りに理解をされないままに。
「素晴らしいわね」
恍惚とした表情で、黒豹の獣人はそう語る。
人を殺した。その事実が、背筋をぞくぞくと震わせる。
当然彼女にとって、今までの人生で人を殺した経験はない。だから実際に殺人をおかしてみるまでは、もっと後悔や背徳感を抱くことだと思っていた。
それが。多少の背徳感は感じるものの、後悔の念は少しもない。
青井彼方という人物を殺したことに、特に深い意味はない。ただ、目障りだった。それだけだ。
彼女の嫌いな人間の取り巻きだから、鬱陶しいだけ。たったそれだけの理由で殺したとして、自分はどれだけの罪悪感を抱くのだろうか。いや、その前に自分は実際に殺人を行えるのだろうか。
それを知りたかった。たったそれだけの理由で、彼方は死んだ。
そのことを平然とできたのは、彼女本来の人間性だけではない。この、黒豹の獣人という姿と、その姿のもたらす動物としての本能がそれを可能としているのだ。
「気に入っていただけたようでなによりです」
傍らの少女。アリスが笑みを向けてくる。
この少女の美しい顔も切り刻んだら、自分はどれだけの快感を得られるだろう。本能と好奇心が、心の中にむくむくと湧き上がってくる。
「おっと、それはやらないほうがいいですよ?」
「わかってるわよ、そのくらい」
湧きあがった泡がはじけるように、その考えは霧散する。
この少女には勝てない。おそらくはそうなのだろうが、それが理由ではない。
なぜならば、この少女が自分の親――獣人になる、という力の源であるからだ。
彼女は元から獣人だというわけではない。獣人になれる能力を授かったことによって、獣人に変化しているのだ。
アリスは彼方に、自分が力を授けたと言った。それは紛れもない事実だ。親殺しができないというわけではないのだろうが、少なくとも積極的にそうしようとは思わない。そういう本能なのだろう。
「でも。この力、本当に素晴らしいわ」
彼方を抉り血と肉のこびりついたかぎ爪を、彼女は舐める。
本来鉄臭いはずのそれは、なによりも甘美な味を彼女に味合わせる。これも獣としての本能なのだろうか。
「それはなによりです。その力で復讐はできそうですか?」
「ええ。これだけの上物ですもの。問題はないわ」
「うまく願いが達成できるように、私も祈っていますね。せっかく裏世界まで貸し出すんですから、ね」
アリスの言う裏世界というのは、今二人がいる世界のことだ。
本来の世界と極めて酷似して作られた箱庭の世界。そうアリスからは説明された。当然ながらこの世界に人はおらず、彼方のように人を引きずり込むことができる。彼女が彼方にやったように、人狩りを行うにはこれ以上に都合のいい世界はないだろう。
本来の所有者であるアリスか、それを借り受けている彼女のどちらかが消さない限りはこの世界は存在し続ける。だからもともと、彼方に逃げる場所などありはしなかったのだ。
それも知らずに一縷の望みにすがって逃げ続けた彼方の姿は、滑稽である以上に愉悦を覚えさせるものだった。
嗜虐心をくすぐられる。そう表現するのが正しいのだろう。
手ごたえは十二分に感じられた。だから、これからすることもきっとうまくできるだろう。
「待っていなさいよ、奥波幸香。私を裏切ったこと、たっぷりと後悔させてやる。それこそ文字通り。死ぬまで、ね」
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