終わった世界の鎮魂歌

佐城竜信

第1話 逃げる少女(前)

 おかしい。どう考えてもおかしい。

 肩で息をはずませながら。青井彼方は牛丼屋の前で立ち尽くしている。

 ガラス戸が開かない。その向こうにも、店員の姿も客の姿も一人も見当たらない。

 駅前のロータリー沿いに出店されている店だ。誰もいない、ということなどありえない。

 いや。それどころか、ロータリーにすら人の一人も見えはしない。

 何かしらの理由で時間が跳んでいない限りは、今は午後の七時のはずだ。本来ならば、どこもかしこも人でごった返しているはずの時間である。

 それなのに、誰もいないとは。

「あらあら、何かお困りかしら?」

 飛んできた言葉に、彼方はびくりと体を震わせる。

 振り返れば、そこにいるのは紛れもなく『あいつ』だ。

 スレンダーな長身に、大きな胸。プロポーションはいいのだが、その顔は異常というほかにない。

 大きな目は透き通るような淡い黄色であり、その中に黒い色が浮かんでいる。鼻は突きだしており、輪郭は丸みを帯びている。その頭には、ちょこん、と。三角の耳が二つ生えており、顔のほとんどが黒い体毛に覆われている。

 実物を見たことはないが、その顔は黒豹のそれだった。黒豹が二本足で立っており、彼方と同じ奥波学園の制服を身にまとっている。

 獣人。物語に出てくるその存在が、彼方の目の前に立っている。

 逃げないと!

 頭の中で、危険信号ががんがんと鳴り響く。

 黒豹の獣人を目の前に。たたらを踏んで後ろへ下がってしまったが、右足を軸に振り返って逃げ……ようとしたところで、足にずきりとした重い痛みが襲ってくる。

 思わずしゃがみこみ、痛みのあるそこを押さえればべっとりとした血がまとわりついてくる。

 これは、目の前の黒豹の獣人にやられた傷だ。黒豹というだけあって、その手は鋭いかぎ爪になっている。そのかぎ爪で足の肉を深くえぐられてしまったのだ。

 なぜか、この奇妙な世界の中で。黒豹の獣人は彼方を狙っている。

 だから逃げなくてはならない。

 シンプルな方程式ではあるが、痛めつけられた足は立ち止まってしまった彼方の体を、再び動かそうとはしてくれない。

「あらあら。その足では無理はできないんじゃなくて?」

 自分がつけた傷だというのに、くつくつと。黒豹の獣人は、さも面白そうに笑う。

「なんなのよ、あんた!どうしてあたしを狙うわけ!?」

 痛みに脂汗をかきながらも、きっ、と相手を睨みつける。

「どうして、って。それはあなたが目障りだからよ」

 面白そうに笑っていた黒豹の獣人の笑いが止まり。その言葉が真剣な色を帯びる。

「もちろんあなたには、私が誰だかわからないわよね。だから、教えてあげる。私は――」

 黒豹の獣人の告げた名前に、彼方は驚愕した。

 そして同時に。自分が狙われている理由がわかる。

 狙われて当然だという思いと、逃げなくてはならない。その思いが、胸の奥から湧き出してくる。

 彼方は、今度こそ。黒豹の獣人に背中を向けて逃げ出した。痛めた足を引きずりながら。

「いいわよ、逃げなさい。ハンティングはそうでないと面白くないもの」

 黒豹の獣人は笑顔でその背中を見送る。その笑顔に狂気をはらませながら。


 あいつは楽しんでいる。獲物を追い込む狩りとして。

 そうはわかっていても、彼方には逃げ続けるしかなかった。

 あいつがなにをしたから人の姿が見えないのかわからない。それでも、それを打破できれば逃げ切ることはできるはずだ。

 自分が決めたそのルールに一縷の望みを託しながら逃げる彼方の足は、公園へと向いていた。

 街角にあるような小さな公園ではない。巨大な一面を公園と名乗りながら、出入り口で入館料をとる。そういう類の公園だ。

 出入り口にも人はおらず、中にも人の姿が見当たらない。

 どこか建物の中に逃げ込もうかとも考えたが、そこに人の姿がなければ手詰まりになる。それに、袋小路に入り込めばやってくるのを待つだけになってしまう。それだけは避けなくてはならない。

 それに、公園ならば当然林もある。木の陰に隠れれば、暗いこともあって見つからずにやりすごすこともできるかもしれない。やり過ごしている間に元の世界に戻る手立てを見つける。彼方は、自身が生還するためにはそれしかないと思い込む。

 その考えが致命的な欠点を帯びているということに気づかないまま。

 木に隠れながら、と考えているのにも関わらず、彼方は開けた道を進む。

 そして、道の途中に一つの人影を見つける。

 彼方の心に、希望の光が灯る。しかしその正体を見てしまうと、その希望もたちまち消えてしまった。

 白いワンピースを着た小柄な少女。小学生かまだ中学生に入ったばかり、といった年頃だろう。ぱっちりとした大きな青い瞳に、ふっくらとしたバラ色の唇。鼻筋も通っている。肌の色は白く、宵闇の暗さの中ではそれがいっそうかのじょを輝いて見せる。顔のつくりがかなりきれいで、美少女という表現がぴったりくる。

 まるでビスクドールのような美しさだが、確かに人間だ。

 確かに人間ではあるのだが、さすがにこの少女に助けを求めるというのは気が引ける。

 とはいえ。

「あー……きゃんゆーすぴーく、じゃぱにーず?」

「こんにちは、お姉さん」

 発音も何もなっていない英語で言う彼方の言葉に、少女はにこりと微笑んで返す。

「あっ、日本語話せるんだ」

 彼方はほっと胸をなでおろす。

「じゃなくって、早く逃げて!怖い人が来るから!」

 狙われているのは自分のせいだとわかっている。それに少女を巻き込むことはできない。

 しかし。

「私は大丈夫ですよ」

 笑みを崩さないまま、少女は答える。

「大丈夫、って……」

 なおも言葉を続けようとする彼方の背筋がぶるりと震える。背後からあいつの笑い声が聞こえてくるからだ。

「ああ、もうっ!とにかく私は隠れるからね!」

「隠れるってどこにですか?」

 林の方へと向かおうとする彼方の背中に、少女の言葉が投げかけられる。

「どこって、そこの林によ!暗いから見つかりにくいでしょ!少なくとも、ここにいるよりはまし!」

「でも、黒豹って猫の仲間ですよね?暗くても見えるから、お姉さんのほうが不利じゃないですか?」

 その言葉に、彼方は考える。

 あいつの手は獣の手になっていた。であれば、瞳も獣のものになっていても可笑しくはない。

 ここにきて、彼方は自分の考えが致命的な欠点を抱えていることに気が付かされた。

 それになにより。

「なんで……あなたは、あいつが黒豹だってことを知っているの?」

 誰もいない世界に存在する少女。それが普通の存在であるはずがない。

 少女の美しさがより異様さを引き立たせる。彼方の足が震えているのは、何も傷のせいだけではないだろう。

「なんで、って。決まってるでしょう?それは私があの人に力を与えているからよ」

 ふふふ、と少女は妖艶に笑う。

 ああ、逃げられないんだ。あたし。

 目の前の少女が。あいつの存在が。そして、この世界の全てが。

 青井彼方という少女に、生への執着をあきらめさせ。絶望をたたきつけるには十分だった。

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